発芽 その二
黒鶴荘は福井県の南西部、敦賀市よりもさらに南西、京都にほど近いT市にあった。T市は日本海側に面する小さな港町である。
福井と言えば、やはり東尋坊が有名であろう。地質学的にも面白く、私としては非常に興味をそそられる観光地である。しかし、今向かっているT市は福井県最大の観光スポットからはかなり離れており、また、特に有名な観光スポットがあるわけでもない。そのため、旅行先として選ぶ人間はまずいないであろうと思われた。しかし、調べてみるとそのT市には白浜があるらしく県内からは海水浴客がいくらかは来るようである。そのため、黒鶴荘のような小さな民宿が数件市内に存在しているのだろう。
しかし、なぜ朋絵ちゃんはこんな片田舎に、おそらく一人で旅行に来たのだろうか。あの写真の中の朋絵ちゃんは人形のように無表情だった。しかし、私はそんな彼女の表情の中から、ある種の悲しみや絶望といったものを感じ取っていた。
それは心理学でいうところのクレショフ効果であったのかもしれない。己の心情や外部からの情報によって、人形や無表情な人間に対して、ある種の感情を読み取るという人間の脳の機能のことである。たいていの人形が無表情に作られている理由は、持ち主が悲しいときはその悲しみを、嬉しいときはその喜びを共有するためだと、以前どこかで聞いたことがある。ならば、写真の中の彼女に悲しみを見出している私自身が、何かを悲しんでいるのだろうか。とにかく、私は誰のものかも分からぬ、言い知れぬその悲しみの理由がどうしても知りたかったのだ。
それに、これはただの直感に過ぎないのだがしかし、私にはこの写真が撮られた直後、朋絵ちゃんが自ら命を絶ってしまったのではないか、そう思えてならなかった。
敦賀市からJR
「ねえ、瑠璃……聞いてる?」
凛子の声で浮遊していた私の意識が地上に墜落する。
「え?」
「やっぱり聞いてない。あんた、大丈夫? 今日、ずっとぼうっとしているけれど」
凛子ボックス席の向かい側から心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「ごめん。ちょっと、景色に見とれてた」
凛子は視線を右側の車窓へと移す。その横顔はやはり美しかった。
「確かに、綺麗だね。それに人も少なくてのんびりできそう。私、福井県なめてたかも。世の中には、まだまだ知らないこともあるんだねえ。でもさ、なんていうのかな、綺麗だけじゃなくて、懐かしいというか、こう、胸がきゅっとするんだよね」
いつになくセンチメンタルな彼女に私は多少驚いた。しかし、この日本海独特の雰囲気には人の心を揺する静かな力があるのだろう。
「そうだね。私は寂しいと思った」
「ああ、そうかも。田舎だからとかそういうんじゃなく、この景色が持つ本質って感じがする。やっぱり冬が厳しいからかな?」
「たぶん、そうだろうね」
私は、今年も到来するであろう冬の日本海を想像する。海は黒々とうねり、空には鉛色の重たい雲がどっしりと居座る。そして雲からは無数の牡丹雪が降り注ぐ。白と、黒と、灰色だけの世界。その色彩は洗練された美しさ纏うがしかし、鯨幕を連想させる。
凛子がそんな寂しい幕を切り裂くがごとく、「でもさ」と明るく声を出す。
「この辺は海鮮がすっごく美味しいんだって」
凛子の手にはスマートフォンが握られていた。
「そうらしいね。若狭湾はリアス式海岸だからね、良い漁場になるんだって」
「リアス式海岸なら私も知ってる。岩手県のあれでしょ?」
「そうそう」
「あ、これ美味しそう。若狭かれいだって」
凛子はスマートフォンの画像を見せてくる。そこには薄桃色をした、一目見ただけで油が乗っていることが分かる、丸々と太った鰈があった。
「ほんとだ。美味しそう」
凛子はスマートフォンの画面をスクロールする。時々、「へー」とか「そうなんだ」とか独り言ちる。
「何か面白いこと分かった?」
凛子はスマートフォンの画面を見ながら知り得た知識を説明してくれる。
「この辺って京都に近いじゃない? だからその昔、若狭の国は、帝へ食べ物を献上することを許されたミケツクニだったんだってさ。御食事処の御食に、国とかいて、
凛子は「食べたかったなあ」と残念そうな声を出した。
「そうしょげなさるな。大丈夫、この時期は若狭ぐじが美味しいから」
「ぐじ?」
「アマダイの別名。これは八月くらいから旬らしいから、今がベストシーズンだよ」
「ほんとに? がぜんやる気出てきたわ!」
凛子はまたスマートフォンに視線を落とすと夢中になって何かを検索し始める。若狭ぐじについて調べているのだろう。時折、「うわ、やば……」と目を輝かせながら感嘆の声を漏らす。
私のただのわがままで始まったこの旅行であるが、それでも彼女は楽しみを見出そうとしてくれているようである。せっかく来たのだから精一杯楽しもうとする彼女の姿勢は尊敬に値する。去年の松本への旅行も、行く前は多少文句も垂れていたが、旅行中には一切そのような発言はなく、楽しんでくれていた。だから、私は彼女と旅行するのが好きなのである。
私は、本当に良い友人を持ったと思う。だから自然と感謝の言葉が出てきた。
「いつもありがとうね」
「どうしたの、急に。本当になんか今日変だよ?」
凛子は怪訝な顔をする。私の殊勝な言動や心此処に在らずといった様子を心配しているのかもしれない。
「いや、いつも私の我儘に付き合ってくれるし。でもちゃんと旅行を楽しもうとしてくれて、何というか嬉しいの」
凛子は恥ずかしそうに、スマートフォンの画面に目を落とし、画面をスクロールしながら応える。
「まあ、せっかく来たんだから楽しまなきゃ損じゃん。それに、私はあんたと旅行するの好きだからさ」
思いがけず素直な言葉を受け、私まで恥ずかしくなってしまった。
「それにさ……今回は、瑠璃が言ったとおりだよ」
凛子は「少し悔しいけどね」と柔らかく笑った。
私は何のことだかさっぱり分からなかった。
「何のこと?」
「何のことって、そりゃあの心霊写真のことだよ。私はアレに惹かれてる」
彼女をこの旅行に誘うきっかけとなったあの不可思議な写真。そうか、凛子はあれを心霊写真と認識しているのか。
鏡越しに撮影されたあの写真。その中には、それを撮ったはずのカメラが写っていなかった。私はあれを心霊写真として認識してはいなかった。単に不思議な写真だとしか思っていた。だから、怪談やオカルトなどの非現実的なものに興味を持つ凛子が惹かれるかもしれないと思っただけだ。
心霊写真だとは思っていなかったが、私はあの写真が怖いと思った。だからこそ凛子をこの旅行に誘ったのだ。でも、それは、カメラが写っていないという事実が恐ろしかったのではない。朋絵ちゃんのあの無表情から覗く感情が怖かったのだ。それは、死へと至るものだと直感した。そんな中、撮られた写真はいわば彼女の遺書だ。彼女が最期に残そうとした何かと、その情念が私には恐ろしかったのだ。
しかし、彼女を知らない赤の他人がこの写真が見れば、カメラが鏡に映っていないという非現実的な事実の方が興味の中心に来るのは当然であろう。そして、怪談やオカルトの類が好きな人間が見れば、これは心霊写真となるのだ。
「心霊写真か。幽霊とかが写ってなくてもそう呼ばれるものなの?」
「……まあ、そうかな」
凛子には珍しく、歯切れの悪い回答だった。何か思い当たる節があるのだろう。
きっとあの写真からは強烈な死の匂いがしているのだ。たとえ目の付け所が異なっていても、人はそれを感じ取るのかもしれない。
「はっきり言っていいよ。たぶん、私も同じことを考えてる。だからこそ、凛子を誘ったんだもん」
「……そう。私さ、あの写真は念写の類かなって思ったんだ」
「念写ってあの、超能力的な?」
「そう。でも、心霊写真ってどれも念写なんだと私は思ってる。その場に在るはずのないものが写るわけないんだよ。フィルムだったり、センサーだったり、人間の網膜と同じように光を感じる部分があって、そこに画像が焼き付けられるわけでしょ? だとしたら、人間の目に見えてない物はカメラに写るわけないんだよ」
「だからこそ、そんなあり得ない物が写ってしまったものが心霊写真なんでしょ」
凛子は小さく首を振る。
「違うよ。見えない物は写せない」
「だったら、よくテレビとかで見る心霊写真って何なのよ」
オカルトの類に別に興味はなくても、たまたまやっていた夏の心霊特番なんかで心霊写真の類を見たことはある。どれも、人間の腕だったり、顔だったり、得体の知れない何かが写っていた。
凛子はその小さな顎に手を当てて少し悩んでから話し始める。
「それが撮られた瞬間、その写真はただの写真なんだよ。ただ、見えるものをただ切り取っただけ。でも、それが現像されたり、写真フォルダにデータとして保存されるまでのどこかのタイミングで、得体の知れない何かの、『写りたい』、『何かを伝えたい』という情念がフィルムや写真のデータそれ自体を歪めてしまった結果、見えていなかったものが現れる、それが心霊写真という現象なんじゃないかな」
「なるほどね。心霊写真に写った人間の手や、顔のようなものはそこに存在していたわけではないってことなのね」
「そう。在るのは情念だけだよ。まあ、あくまで私の考えだけれど」
凛子はそう言うと、車窓へと目を向け窓枠に肘をついた。
私は今まで、心霊写真の類に対して懐疑的であった。だって機械は嘘をつかない。いや嘘をつけない。そんな機能はないのだ。そして、光学機械であるカメラには、可視光を感光するという機能しかない。そんなカメラが、人間の眼に捉えられない物を写し出すわけがないのだ。
しかし、凛子が言う心霊写真という現象についての説明は、理系脳の私でも百パーセントではないものの、なんとなく腑に落ちるものだった。
カメラには画像を保存するという機能は確かに存在する。それはフィルムカメラであっても、だ。得体の知れない何かの干渉によって、この機能に何等かのバグが生じることになれば、実際の画像とは異なるものが写しだされても可笑しくはない。それが心霊写真という現象だと考えれば、目に見えない物が写るという非現実的な現象よりも、多少は理解できるような気がした。
凛子は日本海を見つめたまま、ぼそりと呟く。
「でもさあ、そうだとしたら、あの写真、相当やばいかもね」
「やばい?」
凛子は車窓から目を離すと、私をじっと見つめてからこう言った。
「だって、あんなはっきりした心霊写真、見たことある?」
そうか。あの写真にカメラが写っていなかった。ということは、あの写真はカメラで撮られたのではない。あの写真、それ自体が何者かの情念によって念写された心霊写真なのだ。
情念の深さと画像の鮮明さに相関があるのかは分からない。しかし、心霊写真を見た霊能力者はみな、はっきり写っているものほど「恐ろしい」と口にする。ならば、あの写真を生んだ情念はいったいどれだけ深いのだろうか。
電車が駅に止まり、ドアが開く。
そこから秋らしい冷たい風が車内に吹き込んできた。
私は思わず身震いし、思わず肩を掻き抱く。しかし、それは決して秋風のせいではなかった。
目の前の凛子がおもむろに立ち上がる。
私は咄嗟にホームの駅名を確認する。海風で錆びついた看板には、私たちが下りるべき駅名が記されていた。
「さあ、行こうか。きっと楽しい旅になるよ」
凛子は怪しく嗤うのだった。
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