発芽

発芽 その一

「それで、話って? まさかあの変態男とヨリを戻そうとか言うんじゃないよね」


 目の前に座る凛子が小皿の上で温くなった冷やしトマトを箸で小突きながら心底嫌そうな顔をした。


 私が彼と破局したのは先月の今頃。その節は、それはもう絵に描いたように落ち込み、さんざん凛子に迷惑をかけた。そんな訳で、もし彼とよりを戻したいなどと言い出せば、嫌な顔をするのは当たり前である。


 しかし、今日凛子を大衆居酒屋に呼び出したのは別件である。私は彼女を旅行に誘いたかったのだった。


「違うよ。あいつとはもうなんでもない。でも、その節はお世話になりました」そう言って、私はテーブルに両指をついて大げさに頭を下げてみせた。

「よろしい。で? 話って?」

「ああ、それなんだけどね。ねえ、旅行に行かない?」

「旅行?」


 凛子はピクリと眉を動かし、そしてトマトを弄ぶためだけに持っていた箸をそっと机に置く。明らかに警戒している様子である。


「まあ、そんなに構えないでよ。今度のは旅行だから」

「瑠璃さあ。去年の夏、つまり私の大学生活最後の貴重な夏休みに、あんた『ちょっと旅行行かない?』って言ってどこ連れて行ったんだっけ?」

「長野県」

「……の?」

「松本」

「そう。松本。で、何で松本に行ったんでしたっけ?」

「……線を見たかったので……」

「なんだって?」

「糸魚川静岡構造線を見たかったから!」

「そうだよね! なに? 糸魚川静岡線って! 路線かよ」


 私が「違うよ」と反論しようとするが、右手でぴしゃりと制される。


「良い! 言わなくて。もう、聞き飽きた。あんたは地質学が専門なんだし、そりゃ興味深々でしょうよ。大学院にまで行ってる訳だし。でも普通の人間はね、モッサリマグマとか興味ないわけ」


 もっさりとしたマグマを想像し、思わず吹き出してしまう。


「フォッサマグナね」


 凛子は「ふん」と鼻を軽く鳴らしてからグラスに残っているレモンサワーを飲み干すと「どっちでもいいよ」とため息をついた。私は喉まで出かかった反論をハイボールと共にぐっと飲みこむ。


 話題を少し変えなくてはと思った私は、凛子の空になったグラスを指さして「凛子、次どうする?」と聞く。凛子は備え付けのタブレットを覗き込みサワー類のページを眺め始める。とりあえず去年の旅行の思い出から意識を切り離すことに成功したようだ。


 私はタブレットを覗き込む凛子の横顔をしげしげと眺める。


 相変わらず整った顔立ちをしている。長いまつ毛、切れ長の瞳、そして鼻先から顎先への輪郭線は谷川岳の稜線のように鋭く、洗練されている。ショートヘアと辛めのメイクのせいでもあるのだろうが、女の私が見てもドキリとするほど顔立ちである。出会ったころはもっと可愛らしかったような気もする。


 私と彼女が出会ったのは中学の部活だ。その学校は中高一貫の女子高だった。だからなのか、いわゆるオタクや腐女子と呼ばれる人種も多く、そのような者でも日陰でこそこそと生きる必要はなかった。そして、当時はテニスの漫画が大変流行っていて、その漫画に感化された私はテニス部に入部した。その年の入部希望者の約半数が多かれ少なかれその漫画の影響を受けていた。凛子もその中の一人だった。


 しかし、運動神経も良く、男勝りな彼女は、どんくさく、そして引っ込み思案な私とは正反対だったと言える。しかし、共通の趣味というか話題があったことで、なんとなく話すようになったのだった。そして大半の部活仲間と音信不通となった今でも、なぜか凛子との友人関係だけは続いていた。


「なに?」


 横顔を見つめていたことがばれたのか、凛子が怪訝な顔でこちらを振り返る。


「ううん。何でもない。で、何にしたの?」

「同じのにしよっかなって」そう言って空になったレモンサワーを掲げて見せた。私も凛子に倣ってお代わり、つまりハイボールを選択した。


 凛子は運ばれてきたレモンサワーを一口飲んでから旅行の話題へと水を向ける。


「今度はどこに行きたいの?」

「福井県」

「ほら出た。石川県なら分かるよ? 福井県ってあんた、何があんのよ……あ、分かった。恐竜でしょ」

「違うよ」

「でも、福井って確か恐竜の化石が出るんじゃないの? あんたの専門じゃん」


 凛子は地層から発掘される生物の化石や土器や遺跡などへの興味と、地層そのものへの興味を混同している節がある。私の興味は地層そのものである。


「私は地質学が専門だよ。化石は古生物学」


 凛子は、どちらも同じじゃないかとでも言いたげに肩をすくめると「じゃあ、何で福井なのよ?」と聞いてきた。


 今回、凛子を旅行に誘うのには大きな理由があった。一つは、凛子が興味を持つであろうことが分かっていたから。もう一つは、私が一人では


 私はスマートフォンの写真フォルダから一枚選択すると、それを手渡す。


 凛子は、その写真を見ると、眉を顰める。その写真には女性が一人だけ写っている。おそらくどこかの旅館でとられた一枚で、彼女はその宿の浴衣を着ている。なんとなく気味の悪い写真だった。旅先の写真にしてはあり得ないほど彼女は無表情だったから。


「誰? この人」


 この女性は私の小学校時代の友人だった。今はもう、ほとんど縁は切れていた。だから、凛子が写真の彼女を知らないのは当たり前である。


「この子は、私の小学校時代の友達。朋絵ちゃん。草薙朋絵ちゃん」

「ふーん。瑠璃が小学校時代の話するの珍しいね。今でも会ったりするの?」

「いや、小学校以来会ってないよ」


 それを聞いた凛子は目を丸くする。まあ、とうの昔に思い出となった友人の写真を突然見せられれば驚くのは無理もないだろう。


「良く分かったね」と凛子が関心したような声を上げる。私は、何のことだか良く分からなかった。


「え?」

「え、じゃなくてさ。小学校以来会ってないんでしょ? 大人になってからの写真を見てその人だってよく分かったね」


 ようやく彼女の言いたいことを理解する。確かに、スマホの画面に映されているのは小学生ではなく、たぶん私たちと同じくらいの年齢、つまり少なくとも十年以上は成長した姿の朋絵ちゃんだった。しかし、顔立ちや印象はほとんど小学校の頃の彼女から変わっていなかった。だから、私はこの写真を見たとき、すぐに朋絵ちゃんだと分かったのだ。


「いや、だって全然小学校の頃から変わってないもん」

「そんなことある?」

「凛子だって、中学時代からあんまり変わってないじゃん。まあ、もうちょっとだけ可愛げはあったと思うけれどね」


 私に揶揄われた凛子は口をとがらせて「どうせ可愛くないですよ」と拗ねてみせる。


「ごめんって。冗談。さっきは見惚れちゃったくらいだから」

「さっき?」

「ほら、お酒注文してるとき、私が凛子を見ているのに気が付いて『なに?』って聞いてたじゃん」

「ああ、そんなこともあった、かも……? まあ、いいや。それで、その朋絵ちゃん、だっけ? その子がどうしたの?」


 私はここぞとばかりに、声のトーンを落とし応える。


「その子さ、小学校六年生の時に突然居なくなっちゃったんだよね」

「居なくなった? 失踪ってこと?」

「そう。しかも家族全員が突然消えたの。当時、学校側も何も聞いていなかったみたい」

「で、十年以上経って写真で彼女に再会したと」


 私は、小さく頷く。


「でも、それが福井県と何の関係があるわけ?」


 私は写真を拡大し、朋絵ちゃんが来ている浴衣の胸あたりが良く見えるようにしてから凛子にスマホを手渡す。


「ここ見て」

「ん? ああ、宿の刺繍ね。あれ、なんか変じゃない?」

「鏡」

「ああ、洗面台で自撮りしてるのか。ええっと、くろつるそう、かな?」

黒鶴荘こっかくそうって読むみたい」

「ふうん。珍しい名前ね。そうかそれで宿が特定できたわけね」

「そう。ネットで検索して、部屋の内装とかも見てみたけれど、間違いないと思う」


 凛子は私にスマホを返しながら至極当たり前の疑問を口にする。


「で、瑠璃はなんでその宿に行きたいわけ? しかも私を連れて」

「凛子が興味を持つと思って」


 彼女は眉を顰める。


「私が? なんで?」


 私はもう一度彼女にスマホを手渡す。


「ねえ、その写真何かおかしくない?」

「おかしい? まさかなんか写ってる訳?」


 凛子はがぜん興味が出たのか、食い入るように写真を見つめる。そう、彼女は怪談や心霊写真といったオカルトの類が好きなのである。


「いや、残念ながら朋絵ちゃん以外何も写ってないよ」

「なあんだ。じゃあ、ただの写真じゃない。旅館の洗面台で浴衣姿の自分を自撮りしただけでしょ? まあ、それにしてはちょっと無表情すぎて、なんていうか……」


 凛子が口ごもるので、私が代弁する。


「不気味?」

「ん。まあちょっとだけね」

「それだけじゃないんだよ。その写真には明らかにおかしいところがあるんだよ」

「ええ、どこよ?」


 凛子は写真の端々を拡大して注意深く確認していく。しかし、そんな拡大しなければ分からない、些末な違和感ではないのだ。


「ねえ、凛子。その写真

「どうって、そりゃ……」


 次の瞬間、凛子は絶句する。そして、「ひっ」小さく悲鳴を上げたかかと思うと、スマホを机の上に放り投げた。


 凛子が言うとおり、その写真はただの写真だった。一人の女が宿の洗面台で自撮りをしているだけのただの写真だ。


 ――ただ一つ、

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