発芽 その三
黒鶴荘はその名のとおり黄昏の中に、黒々と佇んでいた。
潮風がそうさせるのか、杉材と思われる外壁は赤茶色を超えて炭のように黒ずんでいる。瓦屋根と相まって、建物全体が重々しい雰囲気をまとっている。入口の引き戸に嵌められたガラスは薄く、そこには金字で黒鶴荘とあった。相当年期の入った建物である。インターネットで外観を事前に確認していたが、目の前に佇む建物はさらに雰囲気があった。いかにも何かが出そうである。そして宿の裏には、黒々とした山が聳えている。その山の黒さと建物の黒さが溶け合い、この宿の輪郭を曖昧にしていた。
山から一陣の風が下りてくる。すると宿の入口に植えられている松の木がざわざわと不吉な声で鳴く。私は恐怖にも似た不安を感じ、凛子の方に一歩近づいた。
「いかにもって感じね」
凛子が楽し気な声を出す。
「雰囲気ありすぎ」
「まあ、中は意外といい感じかもよ」
そういって凛子は旅行鞄を引きずりながら入口へと歩を進める。慌ててそのあとを私も付いて行った。
「ごめんください」と声を賭けながら凛子が引き戸を開けると、経年劣化で薄くなったガラスががらがらと音を立てた。
中は意外にもあたたかな雰囲気であった。古さはあるものの、決して恐ろしいという感じではなく、何より明るかった。入って右手の奥は一段上がっており、そこは八畳ほどの広さの談話スペースのようになっていた。そしてその中央には大きな囲炉裏があった。それを見て凛子は「本物の囲炉裏だ」と嬉しそうな声を上げる。
暫くすると左手の受付と思われるところから無地の深緑色をした着物姿の女性が出てきた。
「ようこそおいでくださいました」
年のころは七十代前半といったところであろう。白髪交じりの髪は短く切りそろえられており、清潔感がある。柔和な笑顔には往年のしわが刻み付けられているが若いころは相当な美人であったことがうかがえる。
「本日お世話になる敷島です」
私はそう名乗って軽く会釈をする。するとその女性は「お待ちしておりました。私、当宿の女将でございます」と深々と頭を下げた。
「さあ、どうぞお上がりください」
女将さんはそう言ってスリッパを二つ出してくれた。
私は玄関に置かれたベンチに腰掛けブーツを脱ぐ。あたりを見渡すが、玄関には靴入れはないようだった。
「お召し物はそのままで結構でございますよ」
「あ、ありがとうございます」
私は思ったよりも手厚い歓迎に面食らっていた。勝手に民宿のようなぼろ宿を想像していたがとんでもない。ここは古き良き旅館であるようだ。
「囲炉裏、気になりますか?」
女将が凛子に声をかける。興味津々といった感じで囲炉裏に見入っていた凛子が女将さんの方に振り返って答えた。
「え? ああ、はい。初めて見ました。素敵ですね」
「ありがとうございます。一度も見たことがないとおっしゃる方は多いですねえ。私などが子供の頃は当たり前にあったものですが、
「本当ですか! ぜひお願いします!」と凛子は喜びの声を上げる。
「では、ご準備させていただきます。その前に、お部屋へとご案内いたしますね。ただ、大変申し訳ないのですが、見ての通り老体ゆえ、お荷物はご自身でお運びいただきたく存じます」
女将は再度深々と礼をする。
「いえいえ、大丈夫です!」と私は慌てて応えた。
女将さんは顔を上げると「こちらへ」と、我々を廊下の奥へと導いていく。廊下の右手側には客室と思われる扉が続いている。ひんやりとした空気で満ちているが、各部屋の扉の前に設置された灯りから漏れる橙色の光のおかげか、寒いとは感じなかった。私たちの部屋は一番奥の角部屋だった。入口の扉は年期が入ってるもののきちんとカギはかかるし、女将が開けると音もなく滑らかに動いた。
凛子は扉の前でなぜか小さくガッツポーズをしている。彼女の行動を不思議に思いながら私は凛子に次いで部屋へと入る。
部屋は昔ながらの和室で贅沢なつくりでこそないが、古さはそこまで感じず、落ち着いた雰囲気である。床の間もあり、そこには不思議な形をした紫色の花が生けられていた。
「女将さん。あの床の間の生け花はやっぱり部屋ごとに分けているんですか?」
凛子が床の間に生けられた花を指さしてそう聞くと、女将はにっこりと笑って「そうですよ」と答えた。
「いい時期に来ました」
「お若いのによくご存じですねえ」と女将さんは少し驚いたような顔をして感嘆した。
「いえ、学生のころ少し華道を少しだけ齧ったことがありまして」
確かに私たちが通っていた女子校には選択で華道の授業があった。そして凛子はその授業を取っていたことを思い出す。
「お食事は何時ごろにいたしましょう?」
スマートフォンで時間を確認と今は十七時を少し回ったところだった。私は凛子に目配せし、お腹の好き具合を確認してみる。
「まあまあお腹空いてるかな」
「私も。あんなにお昼ご飯食べたのにね」
私たちは苦笑いをした。
「どちらでお食事されたのですか?」
「新幹線の中です。あの、グランクラスに乗って来たんです」
それを聞いた女将は目を丸くする。
「すると、北陸新幹線で?」
「ええ、そうです」
「東京からですと、京都からの方が近いでしょうに。敦賀から小浜線でいらしたということですよね。遠かったでしょう?」
「実はちょっと」
「私はお尻が割れるかと思いましたよ」と凛子が可笑しそうに嘯く。
女将は「そうでしょうね」と大きく頷く。
「長旅でお疲れでしょうから、ごゆっくりお過ごしください。お食事は十八時半から二十時の間であればいつでも結構ですよ」
「凛子、先にお風呂入りたいとかある?」
「うーん、でも囲炉裏で食べるのなら、ご飯の後にお風呂入った方が良くない?」
「確かに。それはそうかも。じゃあ早めに食べちゃおうか」
「そうしよう」と凛子はうなずいた。
私は女将に向き直ると「あの、十八時半でお願いします」と言った。
「かしこまりました。それではお食事のご用意が出来ましたらお呼びいたします」そう言って女将は一礼すると部屋を出ていった。
荷物などを整理して一息ついていると、凛子が「私ちょっと見てくる」と言って席を立つ。何を見に行くのだと聞こうと思ったが、声を出すのが億劫だったので小さく頷くだけにした。女将の言うとおり、長旅で少々疲れていた。振り返ってみれば六時間近く電車に揺られたわけである。
福井県に行くと決まった時点で、北陸地方に行くのだから当然北陸新幹線だろうと、どうせならグランクラスに乗ってみようと、話はとんとん拍子に進んだ。実は東海道新幹線で米原経由の方がはるかに早かったことに気が付いたのはグランクラスを予約してからのことだった。
凛子が席を立って間もなく、洗面所の方から私を呼ぶ声がした。
「瑠璃! ちょっと来て!」
「なに? 足が畳に縫い付けられてるみたいで立てないんだけど」
「つまんない冗談言ってないで早く!」
凛子は明らかに興奮している。私は仕方なく重い腰を上げ、声のする方に向かう。
そこは洗面台だった。
一瞬忘れていたあの写真のことを思い出し、私はどきりとする。
写真で見たとおりの古く大きな鏡。私と凛子が写し出されている。蛍光灯の青白い光に照らされた私たちは、幽霊のごとく白い顔をしていた。
「ほら、見て! やっぱり思ったとおりだ!」
凛子が洗面台に置かれた小さな一輪挿しを指さしてまくしたてる。
そこには床の間と同じ紫色の花が生けられていた。
「何が?」
凛子は、「あんた鈍いわね」とでも言いたげに眉根を寄せる。
「ほら、この花。アキギリだよ」
最近どこかで聞いたような気がする。どこだったか……。
「あんた、本気?」
「何が?」
「だから、あの心霊写真! あれにもアキギリが写ってたじゃない!」
そういわれてもピンとこなかった。
「もう! スマホ出して」
「向こうの部屋だよ」
凛子はため息をつく。
「とにかく、あの写真にもこの花が写ってたの。これは絶対。初めて見たとき、珍しい花を生けてるなって思ったんだもん」
「そんなに珍しいの?」
「珍しいよ。山野草だもの。つまり、野山に咲く花で基本的には売ってない」
「それで?」
「それでだって? もう! ここなんだよ。あの写真の場所は!」
興奮気味に凛子は私の足元を指さす。
足元から頭のてっぺんまで冷たい何かがさあっと走る。私は、小さく息を飲んで、一歩後ろに飛び退った。
「で、でも全部屋同じ花を活けてるのかもよ?」
「女将さんはそうじゃないって言ってたじゃない。各部屋それぞれ違う花を活けてるって」
確かにそうだ。凛子がさっき女将に尋ねたのだ。
「たまたまって事だって……」私がそう言うと「ちょっと来て」と凛子は私の腕をつかんで洗面台から出る。どこへ連れていかれるのかと思いきや、客室を通って、廊下まで連れ出された。
「いったい何なのよ」
「これでも偶然だって言うの?」
凛子はそう言って、たった今出てきた客室の扉を指さす。
そこにはこの客室の名が刻まれていた――『秋桐』と。
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