3.新しい関係
2人が教室で撮影会を行ってから数日後。空也は父親に何度も頼み込み、カメラを借りて涼佳の部屋にいた。
置かれている家具類は古いものが多いものの、涼佳が持ち込んだ私物でうまくアレンジがされており、古さが由緒正しき家のお嬢様の部屋感を出している。
そして部屋には芳香剤の甘い香りが漂っており、空也が思い描いていた女の子の部屋とは若干違っているが、女の子の部屋に来たのだな、と実感させてくれた。
「何か面白いものでもあった?」
「い、いや! ただ古い家具が多いなと思ってな! ハハ!」
部屋のあちこちを観察してしまっていたことを指摘され、慌てて言い訳をする空也。しかし涼佳は特に気にする様子もなく、
「そんなことより、写真を撮ろ? ほら、せっかく着替えてきたんだし」
「そ、そうだったな!」
紐で首からぶら下げていたカメラを手に持つ。
涼佳はブラウスに、膝上のフレアタイプのキュロットに黒タイツという組み合わせだ。スカートとはひと味違うシルエットとプリーツが、涼佳の脚に普段とは違った印象を与えてくれる。色が黒というのも統一感があってポイントが高い。
「じゃあ、ベッドに座ってくれ」
涼佳がベッドに腰を下ろすと、カメラを構え、撮影を開始する。
前回は机だったということもあり、ベッドでなければできない構図を積極的に撮っていくことにした。
ベッドの上に無造作に脚を投げ出してもらったり、寝転んだ姿勢や、その状態から脚を上に向けてもらったりと、撮ってみたい構図が延々と湧き出てくる上に、涼佳はそのリクエストにノリよく応えてくれる。楽しい。何でこんなに楽しいのだろう。
ふとハンガーラックにかけられている洋服達に視線が行く。
「……あの服でも写真が撮りたい」
思う前に口から出てしまっていた。
「うん、いいよ。じゃあちょっと着替えるからその間外に出てて」
「え? あ、ああ……頼む」
涼佳はあっさりOKを出すとベッドから立ち上がり、空也は部屋の外に出てドアを閉めると、背中を向ける。
その状態で涼佳が着替え終わるのを待っていると、ドア越しに衣擦れの音が聞こえ始めた。
まずい。無心になるよう自分に言い聞かせるも、ついドア越しに聞こえる衣擦れの音に意識が行き、脳は勝手に涼佳の下着姿を想像し始めてしまう。
いかん。落ち着け。目を閉じて深呼吸し、「煩悩退散」と頭の中で唱え続けていると、
「あれ、くーくんこんなところで何してるの?」
「オワァ!!」
突如現れた真実に間抜けな声を出してしまった。
「い、いつの間に?」
「普通に階段を上がってきただけど……ここで何してるの?」
真実は不思議そうな顔をして首を傾げる。
どうやら真実の足音を聞き逃すほどに集中してしまっていたようだ。
「それは、その……」
一体この状況をどう説明すればいいのだろう。答えに窮し視線をさまよわせていると、
「着替え終わったよ」
最悪のタイミングでドア越しに涼佳の声が聞こえた。
「あー。着替えるようなことをしてたんだ?」
「ちっ、違う! その、ハンガーラックにかかっている服を見てみたい、って言って着替えてもらってるだけだから!」
「ふ~ん……」
真実は目を細め、意味ありげな視線を空也に向けた。
「い、いや、お姉ちゃんが思ってるようなことは何もないから!」
絶対に誤解されている。必死に弁解すると、真実は「はいはい」と言いながら自分の部屋に向かっていくかと思いきや、立ち止まり振り返った。
「まあ、私としてはくーくんが涼ちゃんと仲良くしてくれるのは嬉しいから……ゆっくりしていってね」
流し目で空也を見ながら自分の部屋に入っていった。
「はぁ……」
思わずため息が出る。真実と和解できたのはいいが、からかいっぷりが容赦ない。
「どうしたの?」
部屋に入ってこない空也を不思議に思ったのだろう。涼佳がドアを開けて頭を出した。
「い、いや、今行く! ……あ」
部屋に飛び込んだ瞬間、涼佳に見とれてしまっていた。部屋で見たときは気づかなかったが、涼佳が今着ている服は空也と涼佳が初めて出会った時に着ていた服だ。
フリルのついた薄いピンクのノースリーブのブラウスに、膝が見える長さの白い花柄のスカートという女の子らしいコーディネート。
クールな雰囲気の涼佳が可愛らしい服装をするといいバランスになるからだろうか。空也は個人的に今着ている服が一番いいと思った。
「どうしたの?」
「い、いや、なんでもない! 続き撮るぞ」
そう、あくまで自分は涼佳の脚が好きであって、『本体』に対しては何か特別な感情を持っているわけではない。頭を振って心を落ち着ける。
その後も何度かお色直しを挟み、気がつけば外が暗くなり始めていた。
そろそろ帰らなければ。今日は全然勉強していない。名残惜しいが仕方がないと涼佳の家を後にしようとした時、涼佳が「まだ撮れるよね?」と聞いてきた。
「いや、確かにまだ撮りたいが……」
「これまだ撮ってなかったよね」
涼佳がハンガーラックから取り出したのは、フレアタイプのロングスカートだった。しかし、ロングスカートでは脚がほとんど隠れてしまう。空也が口を挟もうとすると、
「これを膝くらいまでたくし上げて撮るってアリじゃないかな?」
「大アリだ」
帰ろうとしていた空也はカメラを再び構え始めた。
土曜日。快晴で絶好のお出かけ日和だ。
空也は涼佳の家に向かっていた。
あの後今度こそ空也が帰ろうとすると、「色んな服着てたら新しい服欲しくなってきちゃったから、一緒に買いに行かない?」と涼佳が言い出したためだ。
空也の住む街にはろくな服屋がないため、必然的に隣の市に行く必要があるが、電車は空也の家からは遠い上に本数が少なく、バスは乗り場は近いものの本数が同様に少ない。
したがって空也は真実に乗せてもらって行くものだと思っていたが、涼佳の家の庭で見たものはオートバイだった。
停まっていたのはホンダレブル250。原付ではなく中型免許が必要な車種だ。
まさかこれで隣の市へ行くのだろうか。いやいや、きっとおばあちゃんの知人かだれかに違いない。こんなバイクに乗るような知人がいるとは思えないが。
しかし空也の儚い願いは即座に砕け散ることになる。涼佳がヘルメットを2個持って玄関から出てきたからだ。
「じゃあ、行こうか」
「あ、ああ」
涼佳からなすがままにヘルメットを受け取る。
「じゃあ、後ろ乗って」
「いや待て」
「なあに?」
特に説明もなくバイクに跨がろうとする涼佳にツッコミを入れると、涼佳はヘルメットの紐を留めながら返事をした。
「その、免許持ってたんだな」
「うん。去年取ったの」
確かに高校2年ならバイクの免許を取ることは可能だが、バイクと涼佳という組み合わせが意外過ぎるし、バイク自体も無骨なデザインで、なぜ涼佳がこれを選んだのか不思議だ。
以前男が好むような趣味を女性が持っている場合、大体彼氏の影響だと聞いたことがある。今までそういう話題になったことはないが、涼佳なら東京に男が1人や2人いても別に不思議ではない。そう思うと、なんだか胸の奥がざわついてくる。
「ほら、後ろ乗って」
「……あ、ああ」
いつの間にか考え込んでしまっていた。一旦思考を打ち切り、そもそもこういうのって逆じゃないか? と思いながら涼佳の後ろに乗ろうとしたところで、1つのことに気づいた。
「私の腰に掴まってね」
そう。タンデム走行する場合はライダーをしっかりと掴まければならないのだ。つまり涼佳と体を密着させる必要がある。
「いっ……いいのか?」
「いいも何も、掴まらないと危ないでしょ?」
以前気の迷いで脚を触ってしまったことがあるが、腰に手を回すのはわけが違う。
しかし、掴まなければ走り出すことができない。
「じゃ、じゃあ乗るぞ」
意を決して涼佳の後ろに乗り、両手で体を掴む。
想像以上に涼佳のウエストは細く、そして柔らかい。しかもなんだか甘い匂いがしてくる。これが、女の子の身体……。
「じゃあ、行くよ?」
「え? お、おおおおお……」
呆けてしまっていた状態でいきなり走り出したため、後ろに倒れてしまいそうになったが、振り落とされないよう必死で涼佳の身体を掴む。
走り出したばかりは恐怖心があったものの、しばらくすると、体が風を切る感覚を楽しめる程度には余裕が出てきた。
「そこを曲がってくれ!」
「オッケー!」
予め目的地は伝えていたものの、涼佳はそこに行ったことがないので空也がナビをする。
10分ほど走ると2人は土手道に入った。
左右には山々が連なり、山と道路の間には川が流れている。川辺には集落があり点々と家が建っているものの、視界に入るのは山、川、空、道路の4つだけだ。高い建造物は一切ないので青空がよく見える。そして風が心地いい。
「いい眺めだね!」
エンジン音と風の音にかき消されてしまわないよう、涼佳が大声で言う。
確かにいい眺めだな、と空也も思う。両親と買い物に行く時に何度も見た光景なのに、バイクに乗っていると違う道を走っているようだ。
いつもは高齢者マークの貼られた車を先頭に大名行列が出来ていることが多いが、今日は車自体が少なく、信号機のない土手道を2人が乗るバイクは快速で進んでいく。
今どれくらいの速度で走っているのか気になり、メーターを覗き込むと制限速度ぴったりだった。風が直接体に当たるからだろうか。車に乗っているときよりも速く感じるし、目の前に広がる光景が普段より開けて見える。
それにしても夢のようだ。知り合ってまださほど長いわけではない美少女の運転するバイクの後ろに自分は今乗っている。そう思うと現実感がなくなってくるが、地面から直接伝わってくる振動、そして風の音は紛れもなく現実で、気分が高揚してくる。今ならバイクに乗る人達の気持ちがよく分かる。これは確かにハマりそうだ。
いつか自分もバイクの免許を取りたい。そう空也は思うのだった。
土手道を20分、市内を10分走り、2人はショッピングモールに来ていた。
田舎のショッピングモールは駐車場が広く、店舗敷地と同じ広さの駐車場が1つどころか2つ3つあることもザラだ。そして敷地自体も横に広い。その歩いている客の数に対して、明らかに敷地が広すぎる店内を2人は歩いていた。
「う〜ん、やっぱりこういうときに東京のありがたみを実感するね」
モールには若い女性向けのテナントがいくつか入ってはいたものの、涼佳の好みにはあまり合わなかったようだ。服は何点か購入していたが、靴やアクセサリーはいまいちピンとこないようで、一点も購入していない。
「あ、最後にあそこ見ていいかな?」
涼佳が指差した先には、遠目から見ても若い女性向けだというのが分かる服屋があった。
「いいけど……俺は外で待ってる」
今まで空也は涼佳と一緒に店内に入り、後ろをついて歩いていたのだが、その間常に居心地の悪さを感じていた。自意識過剰かもしれないが、女性客から冷たい視線を向けられているような気がしてそれが疲れるのだ。
「そう? じゃあちょっと行ってくるね」
涼佳は特に何か追求することなく店内へ入っていった。
1人残された空也は、隣のテナントとの間にある壁に背中を預け、通行人を眺めていると、
「あれ、くーくん?」
「……唯!?」
目の前には本屋の袋を手にした唯が立っていた。
空也が住む町の住民が買い物をする場合は、基本的にこのモールのある隣市だ。唯が来ていても不思議ではない。が、タイミングが悪すぎる。
「こんなところで何してるのー?」
「いや、それは……」
涼佳と2人で買い物に来たなんて正直に答えた日には、色々と突っ込んだことを聞かれてしまうだろう。視線をさまよわせながらちょうどいい言い訳を探していると、
「そうだ、親がトイレで待ってるんだ」
ちょうどトイレが視界に入ったので、指差しながら引きつった笑みを浮かべる。
「そうなんだ」
「ああ、そうなんだよ!」
「ねえ、くーくん」
唯は改まったように空也を真剣な眼差しで見ると、
「くーくんって涼佳ちゃんと仲がいいよね。2人ってどういう関係なのかな?」
「……!」
その問いかけに空也の心臓が一瞬大きく動く。
どういう関係なのだろう。友達と言っていいのだろうか。しかし、普通友達ではしないようなこともしてきた。友達以上恋人未満という言葉もあるが、2人の関係にそれは違う気がする。
空也の辞書には当てはまる言葉がなく返答に困っていると、
「もしかして、付き合ってるの……?」
不安そうに唯は袋を持つ手の力を強める。
なんと答えるべきなのか空也はまるで思いつかなかった。そして、なぜ唯はここまで関係を問い詰めようとしてくるかも疑問だ。
……まさか。一瞬仮説が脳裏をよぎったが、そんなことはありえない。しかし、唯のこの態度はその仮説を当てはめると納得がいく。
だが、それより今はこの状況を切り抜けるのが先だ。このままだと涼佳が戻ってきてしまう。
「ねえ」
わずかに苛立ちの混じった声とともに唯が一歩足を踏み出したところで、
「唯! 何をしている」
遠くから男性の声が聞こえ、空也と唯は聞こえた方向に視線を向ける。
男性には見覚えがあった。唯の父親だ。厳しい人で、それは表情からもにじみ出ている。
唯は一瞬表情を歪ませたかと思うと、
「あ、お父さんに呼ばれたから行くね。じゃあ、また学校で」
何事もなかったかのようにいつも学校で見せるような笑みを浮かべ、駆け足で去っていった。
残された空也は小さくため息をつく。唯が見せた態度が気になるが、とりあえず一難を逃れることができた。
「あれ、どうしたの?」
入れ替わるように店から出てきた涼佳が首を傾げる。どうやら本当にギリギリだったようだ。
店で何かまた買ったようで、涼佳が手にしている紙袋の数が増えている。そんな涼佳を見て、空也に1つの疑問が生じた。
「その荷物、どうやって持って帰るんだ?」
「あっ……」
1時間後。
空也と涼佳は岬にいた。
結局荷物は宅配業者に送ってもらうことで解決することができたが、この状態では買い物をすることも難しい。そのまま帰る流れかと思いきや、涼佳が海に行くことを提案した。
断る理由もなく、空也自身ももう少し涼佳の後ろに、というよりバイクに乗っていたかったため快諾し、今に至る。
岬には海食崖と呼ばれる、波で侵食されたことでできる断崖絶壁があり、視界を防ぐものは何もないため、視野角いっぱいに海が広がっている。雲ひとつ無い快晴のおかげで、空と海の境界線をはっきりと視認することができた。
「すごい……ね」
さすがの涼佳もこの光景には圧倒されたようで、気が抜けたような表情で目の前に広がる光景を眺めていた。
崖の近くでは風が断続的に吹き続け、涼佳の長い髪の毛を揺らしている。
以前何度か来たことがある空也も、ここまで晴天の日に来たことはない。「ああ」と素直に頷く。
「なんていうか、バイクに乗ってこういうところに来るのって『ツーリング』って感じしない?」
その一言で、空也は一旦棚上げにしていた疑問を思い出した。
「なあ、その……バイクはどうしたやつなんだ?」
「ああ。あれお父さんのお古だよ。東京に住んでた頃は全然乗ることはなかったんだけど、こっちなら乗るかなーと思って持ってきたんだ」
「お、お父さん?」
予想外の返答に、声が裏返ってしまう。
「うん。昔は私もお父さんの後ろに乗せてもらうことがあったから、その流れでって感じかな」
「なるほどな……」
男といえば確かに男だが、父親というのは予想外だった。だがこれで一安心。
そこで会話が途切れ、沈黙を破ったのは涼佳だった。
「ねえ。せっかく来たし、もう少し近くまで行ってみない?」
「おい、危ないぞ!」
崖には手すりはなく、足元もでこぼこだ。もし転倒してしまった場合は崖下まで真っ逆さま。おそらく命はないだろう。
「大丈夫。そんなにギリギリまでは行かないから」
しかし涼佳は城跡に来ているときのような、軽快な足取りで崖っぷちに向かって歩いていく。
さすがに涼佳1人で行かせるわけにもいかない。涼佳に追いつき、下を見下ろした空也は「うわっ」と声を漏らした。
崖下にはむき出しの岩とそれに打ち付ける波が見える。もし落ちたらどうなるかを想像すると、寒気がしてくる。2歩3歩と下がり、涼佳の後ろに立つ。
しかし涼佳は怯える様子もなく、風景を味わっているようだ。もしかしたら涼佳は開けた景色が好きなのかもしれない。
「ここから見ると、やっぱり迫力が違うなあ……」
視線は水平線に向けられたままで、その表情は物思いに耽っているように見える。
一体涼佳は何を考えているのだろう。何か悩みがあるとしたら、どんなことを考えているのだろう。そんなことを思った次の瞬間、事件が起こった。
突如吹いた突風によって涼佳がバランスを崩したのだ。涼佳がいたのは崖っぷち。そんなところでバランスを崩したら最後。崖下へと真っ逆さまだ。
「あ……」
「来栖!」
考える間もなく駆け出していた。空也に向かって伸ばされていた涼佳の左腕を右手で逆手で掴み、後ろに引っ張った。
そのまま2人とも地面に倒れ込んだかと思うと、背中や尻に痛みが走り、涼佳が空也を押し倒すような形になる。
「いてて……」
痛いには痛いが、幸いどこか捻挫をしたりということは無さそうだ。それにしても、軽い。そして、何やら柔らかい物が当たっている。涼佳の胸だ。
服越しに、しかも事故とはいえ、涼佳が胸を自分の体に押し付けている。そう思うと心拍数が徐々に上がっていく。
「ごめん。大丈夫?」
ゆっくりと涼佳が上半身を起こし、心配そうに空也を見下ろす涼佳と目が合う。
「と、当然だ……それより、だから危ないと言ったんだ!」
目が合ったことの気恥ずかしさと、涼佳の体の柔らかさにうつつを抜かしていた後ろめたさから、首を横に向け、そっけない口調になってしまう。
「うん。ごめんね」
さすがの涼佳も申し訳なく思っているようで、弱々しい口調で視線を落とす。
「あ、ああ。次からは気をつけろ」
「うん。ところで……」
「何だ?」
「手、そろそろ離してもらってもいいかな?」
涼佳にそう言われて、空也は初めて自分が涼佳の手を掴んだままだったことに気づいた。
「す、すまん」
慌てて手を離すと、涼佳は何事もなかったかのように起き上がり体の埃を払った。そんな態度の涼佳を見ていると、自分だけ意識しまくっているのが恥ずかしくなってくる。
「……そろそろ帰ろっか?」
「……そうだな」
続いて空也も起き上がり、2人は無言で駐車場へ向かっていった。
その日の夜。勉強していた空也は机の上にシャーペンを放り投げ、背もたれに体を預けた。
今日はまるで集中できない。涼佳の体の感触、そして胸の奥にしびれるような快感の走る甘い香り。それらがふとした瞬間にフラッシュバックしてしまい、集中を妨げるのだ。
それにしても、2人の関係は一体何なのだろう。
付き合っているわけではないが、バイクで2人で出かけたり、部屋や空き教室で写真を撮ったりは『親しい』の範疇を超えている気がするし、緊急事態だったとはいえ、体が密着していても不快感を露わにすることもなかった。
涼佳は自分のことをどう思っているのだろう。涼佳は、自分が好きなのだろうか? そもそも、好きでなければ、こんなことはしないのではないだろうか?
しかしこれは自分に都合が良すぎる結論だ。女の子というのはその気がなくても、好意を持たれていると男に勘違いさせてしまう生物なのだから。
しかし、そう思い込もうとすればするほど、どうすればいいのか分からなくなってくる。
明日からどんなふうに顔を合わせればいいのだろう。このような思考が頭の中で芽生えてしまった以上、今までと同じように接するなんてできる気がしなかった。
それから数日が経過した。その間も涼佳と一緒に登校していたが、岬での一件以来、空也は涼佳と以前と同じように接することができなくなっていた。
しかし涼佳の方は相変わらずいつも通り接してくるので、その態度が余計に空也を接しづらくさせる。
その日も涼佳と一生に登校した空也が教室に入ると、すでに士郎が自席に座っていた。
士郎は空也が席に座るなり、「今日もアツアツだな」と口元に笑みを浮かべ、目だけを動かして空也を見る。
「……そんなんじゃねえよ」
「まあそう照れるな。で、お二人さんは一体どこまで行ったんだ?」
「どこって……」
「何の話?」
「うわあ!」
一旦かばんを自席に置きに行っていた涼佳が、タイミングの悪いところでやってきた。
「どうしたの?」
「い、いや。もう少しで夏休みだからその話をしていたんだ。ハハ!」
動揺されていることを悟られないよう、大げさに笑う。
「そっか、そういえばもうそんな時期だったね」
涼佳は特に疑問を抱いた様子もなく納得しているようで、士郎は笑いを噛み殺したような顔をしている。
誤魔化すためにとっさに出た発言だったが、「もう少しで夏休みなんだよな」と頭の中で反芻していた。涼佳がクラスに溶け込める手伝いをする、という約束はまだ完全に果たすことはできていない。
とりあえずは士郎と唯を入れた4人では話せるようになったが、せっかくなら他のクラスメイト達ともそれなりに話せるくらいにはなってほしい。できることならば、夏休みに入る前にできることはやってしまいたい。
何か方法はないかと考えているうちに昼休みになり、唯と士郎を入れた4人組で、机を合わせてお昼を食べることになった。
唐揚げを口に運んだところで、唯が突然こう言った。
「そういえば、涼佳ちゃんっていつもいい匂いするよねー。シャンプー何使ってるの?」
確かに涼佳からはいつもいい香りがしていた。教壇に隠れたときも、バイクでタンデムしたときも、落ちそうになった涼佳を助けたときも。
唯の一言で過去の感情がフラッシュバックし、めまいがしてくる。涼佳のことをなるべく意識しないようにしていたのに、今は涼佳の表情、声、仕草に自然と意識が向いてしまう。
自分は涼佳の脚が好きであって、本体に関しては割とどうでも良かったんじゃないのか。自分に言い聞かせ、心を落ち着けようとするがダメだった。来栖涼佳という女の子が世界の中心になってしまったかのようだった。
放課後。空也が1人で下校しようとすると、涼佳に呼び止められた。
「なんだか様子がおかしいけど、どこか悪いの?」
「いや、そんなことは……ないぞ?」
当然体調は悪くない。ただ、涼佳をなるべく避けていただけだ。
「じゃあ、また私の部屋で写真撮ってよ。この前買った服届いてるんだ」
「いや、それは……」
「……もしかして、私のこと嫌いになっちゃった? それだったらごめんなさい」
そう言った涼佳の表情は曇っていて、今にも雨にも変わりそうだった。
「な、何を言っている。そんなはずがあるまい! ハハハ! で、では行くとするか!」
そんな顔をされては断れるはずもなく、腕をわざとらしく大きく振り、下駄箱へ向かって歩き始める。
それにしても意外だった。涼佳はこの程度で泣きそうになってしまうような女の子ではないと思っていたのに、こんな反応を見せられると、都合のいいように考えてしまいそうになる。
でもそれはきっと勘違いだ。そう自分に言い聞かせたものの、妄想じみた仮説はすぐには消えてくれなかった。
空也と涼佳は空也の部屋で写真を撮っていた。
もともとは涼佳の家で撮影するつもりだったのだが、涼佳が鍵を忘れてしまった上に家には誰もおらず、涼佳が「じゃあ須藤くんの家で撮らない?」と提案し、今に至る。
意識している女の子の制服姿の写真を自分の部屋で撮影する、という今の状況を再認識すると、脳が茹で上がったかのように頭が熱くなり、冷静になれなくなってくるが、涼佳を撮っているのではなく、理想が現実に顕現したような脚を撮っているのだと自分に言い聞かせ、シャッターを押していく。
涼佳に壁際に置かれているベッドに座ってもらい、足を組んでもらった状態で写真を撮っていると、下になっている左足の太ももに視線が吸い寄せられた。
重みを完全に受け止めているわけでもなく、かといって完全に拒絶しているわけでもない、右足の重みをやさしく受け止めるように形を変えているそれを見ていると、膝枕をされたらどんな天国が待っているのだろう。そんなことをつい考えてしまう……というより口に出してしまっていた。
「その、膝枕……してほしいの?」
ファインダーから顔を上げると、涼佳は視線を落とし、落ち着かない様子で自分の太ももをさすっていた。
「ちょ、ちょっと待て! 俺まだなにも言ってないぞ!」
「言ってたよ。『膝枕をされたらどんな天国が待っているのだろう』って」
「なっ……」
心の声を涼佳に一字一句違わず読み上げられてしまった。
どうやらまた無意識のうちに口に出していたらしい。顔に血が集まっていくのがわかる。
「しても……いいよ?」
「……はい?」
「……っ、ほら、おいで」
聞き間違えかと思ったものの、どうやらマジらしい。
「マ……マジでいいのか?」
「うん、ほら」
涼佳はプリーツスカートのひだを整えると、自分の膝を控えめにポンポンと叩く。
涼佳に膝枕をしてもらう。夢にまで見た光景だ。そのはずなのに、空也は石化の呪文でも受けたかのように立ち尽くしてしまっていた。
「その、イヤなら別にいいんだけど」
「いや……頼む」
もちろん嫌なはずがない。ただ、膝枕は流石に恋人のような特別な関係でもなければしないことで、頼むことに抵抗があったのだ。しかし、この機会を逃してしまったら次はもうないかもしれない。それに、頭を優しく受け止めてくれそうな太ももの谷間を見ていると、そんな良心は吹き飛んでしまった。
ベッドの上に乗り、涼佳の横で四つん這いになる。ギシリ、というベッドの音がひときわ大きく聞こえた気がした。
「じゃ、じゃあ、いくぞ」
意を決し、天井を見上げるようにして涼佳の太ももに頭を乗せる。頭が沈み込んでいった瞬間、空也の全身から力が抜けていった。
太ももは本来枕としての用途は想定されていない部位だ。のにも関わらず、涼佳の太ももは、空也の頭を極楽へと迎え入れてくれている。
硬すぎては痛いだけだし、柔らかすぎても安定感を欠く。涼佳の太ももの柔らかさは絶妙で、まるで頭を抱きかかえられているかのようだった。
昔真実にも黒タイツを履いた状態で膝枕されていた頃を思い出す。それがきっかけで空也は黒タイツバカに目覚めてしまったのだ。
当時のことを思い出すと、真実の太ももの感覚もよかった。しかし過去の記憶ということを差し引いても涼佳の勝ちだ。そう思わざるを得ない。
「どう、どんな感じ……?」
「温かい……」
頭上から心配そうな表情で尋ねてくる涼佳に、不明瞭な声で応える。
黒タイツ越しに伝わってくる涼佳の体温は、まるで脳が湯船に浸かっているかのような暖かさで、難しいことが考えられなくなってくる。
ふと涼佳と視線が合った。
「その……あんまり下から見ないでほしいな」
涼佳は恥ずかしそうに手で自分の顔を隠したり、髪の毛をかき分けたりしている。
「すまん」と謝罪しつつも、そうしている涼佳が新鮮で、ついチラリと見てしまう。
姿勢を変えたくなり、頭を左に倒す。頬を通して涼佳の体温が伝わってきて、そして頭の奥が熱くなってくるような涼佳の香りが強くなる。これはまずい。慌てて元の姿勢に戻る。
しばらく無言でそうしていると、
「その、もういいかな……?」
涼佳は顔を見られないようにだろう、視線をそらしながら尋ねた。
「もう少しだけ」
「ええ……そんなに私の脚いいの?」
「いいどころじゃない。ずっとこうしていたいくらいだ」
誇張表現ではなく、本気で思っていた空也が真顔で答えると、
「その、ちょっと脚が痛くなってきたから」
涼佳はモジモジと体を動かした。
流石にそんな状態で続けさせるわけにもいかない。名残惜しさから自分の体の一部を引き剥がすかのような思いで、ゆっくりと上体を起こし、まばたきを意識的にする。
意識にモヤがかかっているようで、まさに夢から覚めたばかりのようだ。
「うーん、足がしびれちゃったな……あっ」
涼佳はよろめきながら立ち上がったかと思うと、バランスを崩し、空也に向かって倒れ込んだ。
普段ならば涼佳を受け止められたかもしれない。だが、急に起きた事態に対応することが出来ず、涼佳とともにベッドに倒れ込んでしまった。
「ご、ごめん。すぐに起きるね」
涼佳が空也から離れようとした瞬間、部屋のドアが開いた。
「空也。玄関の靴だけど――」
母親だった。
「あらまあ」
息子が女の子と密着して寝転んでいる光景を見て、目を丸くして固まる。
「ちっ、違う! これは事故だ! そう、事故だ!」
母親の反応を見れば明らかに誤解されていることが分かる。涼佳の下で手を振って慌てて否定するものの、この状況ではまるで説得力がない。
「いいのよ別に。真実さんがこの前うちに来たときの態度を見ててすごく心配だったんだけど、空也も大人になったんだなってむしろ安心しちゃった。お父さんにも連絡しなきゃ……」
対する母親は怒るどころか安心したような表情を浮かべ、スマートフォンを取り出した。
「いや、だから誤解なんだって! ……っ」
涼佳の下から抜け出し母親のもとへ駆け寄ると、涼佳を指差し、
「ほら、となりおばあちゃんの孫の、来栖……りょ、涼佳!」
名前を呼ぶのは恥ずかしかったが、今は緊急事態だ。
「ああ! あなたが涼佳ちゃんなのね。確かによーく見ると昔の真実さんに似てるかも」
「あの、はじめまして。お邪魔してます。来栖涼佳です」
涼佳はベッドから立ち上がると、母親に向かって頭を下げた。
「こちらこそ、空也がいつもお世話になっています」
母親も涼佳に向かってお辞儀を返す。
「いえ、そんなことないです。私の方が助けられてばかりですし。空也くんにはいつも良くしてもらってます」
「私の息子と同い年とは思えないわね……そうだ。今日お父さん仕事遅くなるみたいだから、よかったら涼佳ちゃんご飯うちで食べていかない?」
「えっ、いいんですか?」
「ちょっと待て」
聞き捨てならない発言が飛び出し、空也は2人の会話に割り込んだ。
「何?」
「ほんとにうちで夕飯を食べてってもらう気か?」
「なにか問題でもあるの?」
「いや、なんというか……」
涼佳の無限の食欲を目の当たりにしてきた空也には、ひとつの確信があった。
「もしかして、涼佳ちゃんと一緒が恥ずかしいとか? まだまだ子供ね〜」
「ち、違う! 来栖はめちゃくちゃ食べるんだ。うちの冷蔵庫の中身も食べ尽くしちまう」
言うか迷ったものの、誤解されていては仕方がない。抵抗する理由を正直に話すことにした。
「大丈夫よ。少し多めに作ってあるから」
しかし空也の発言を誇張表現としか思っていないのだろう。母親は楽観的な様子だ。
「……母さんが来栖の食事風景を見たら卒倒する自信がある」
「まさか。たくさん食べてくれるなら作り甲斐があってお母さん嬉しいくらいよ」
「……はあ、もう知らねえからな」
その夜。涼佳は須藤家でも底抜けの食欲を披露し、空也の母は近所のスーパーへ追加の買い出しに向かう羽目になったのだった。
その日の晩。涼佳は自室のベッドに腰掛け、自分の脚を見下ろしていた。
確かに自分でも悪い脚だとは思わないが、空也の絶賛っぷりは大げさなのではと思う。
もちろん、褒められて悪い気分ではない。むしろ嬉しいくらいだが、この脚が原因で涼佳は自分に自信を持つことができないでいた。
しかし空也は自分を(というより脚かもしれないが)を必要としてくれている。自分なんて誰からも必要とされていないと思っていたのに。
だからこそ、必要とされることが嬉しくて、しかも結構きれいに撮ってくれるものだから脚を撮らせたり、挙句の果てに膝枕までさせてしまった。
自分と空也は一体何なのだろう。ふとした時に、結構な頻度で考えてしまう。まるで恋してるようだ。でも、これはきっと違う。そう言い聞かせた。
空也も自分自身が好きなのではなく、この脚が好きなのだ。だから、これからもこの関係でいられるよう、この秘密は絶対に守らなければならない。そうしないとまた誰からも必要とされなくなってしまう。
夏休みまでもう目と鼻の先の、平日の休み時間。
空也、涼佳、士郎、唯の4人は唯の席の周りで雑談をしていたが、空也はいつしか涼佳のことを考え始め、上の空になってしまっていた。
涼佳は女の子としても、魅力的な脚の持ち主としても、これ以上ない存在だ。付き合えたら、膝枕だけじゃなくてもっといろんなことをさせてくれるかもしれない。
しかし、涼佳はどう思っているのか分からない。相変わらず一緒に登校もするし、脚の写真を撮ることもあるが、それがイコール好意があるとは限らないと空也も知っている。
もし告白して関係が壊れてしまったら、膝枕どころか一緒に登校することもなくなってしまうかもしれない。それは嫌だった。それならば、このままでいいんじゃないかなと思うと同時に、やはりこの関係のままではいたくないとも思う。
しかし、自分は彼女のことが好きなのではなく、脚がただ好きなんじゃないのか? と思うと余計にどうしたらいいのか分からなくなってくる。
そして、クラスになじませるという約束は未だに果たすことができていない。
一旦士郎や唯を加えた4人グループに追加させることはできたので、第一段階クリアとは言えるが、他のクラスメイトたちとはどうだろうか。もちろんいざ話し始めれば話すことができるだろう。だが、どこかよそよそしさが残っているに違いない。
「……くん。くーくん?」
「……はっ!」
完全に自分の世界に入ってしまっていた空也は、唯の呼びかけで我に返った。
「どうしたのー?」
「すまん。考え事をしてた……でなんだっけ?」
「日野の期末の成績が微妙で……という話だ」
「そうなんだよー」
士郎が補足をすると、唯はしおれるように肩を落とした。
「そんなに悪かったのか?」
空也の記憶ではそこまで唯は成績が悪いというわけではなかったはずだ。一気に成績を落とすなんて何かあったのかと勘ぐってしまう。
「進級できないレベルで、ってわけじゃないんだけど、部活は成績を落としたらやめるってお父さんと約束してるから……」
空也は以前ショッピングモールで唯の父親を見かけたときのことを思い出す。確かにそういうことを言い出しそうな人だ、と思ったところでアイディアをひらめいた。
「来栖、唯に勉強を試しに教えてみてくれないか」
以前涼佳が授業中に当てられた時に、淀みなく答えていたのを思い出す。田舎の定義で揉めたときも言い負かされてしまったし、日頃の言動を見ていると決して頭は悪くないはずだ。
「え、悪いよー」
唯は笑みを浮かべていたものの、あまり気乗りではなさそうな様子だ。
「物は試しっていうじゃないか。な、いいだろ?」
「うん……」
結局しぶしぶと言った様子で唯はノートを開いた。使っている芯が濃いからだろう、全体的にページが真っ黒だ。
「人に教えるのはそんなに自信ないんだけど……唯ちゃんはどの辺りが苦手かな?」
「えっと……このあたり」
「ここはね……」
最初は涼佳に教わるのが嫌そうな様子の唯だったが、気がつけば自分から涼佳に質問をするようになっていた。涼佳の説明は横で話を聞いていた空也でもわかりやすく、思わず「なるほどな」と相づちを打ってしまうほどだ。
士郎も同意見なようで、「来栖先生の教え方は分かりやすいな」と感心している。
「いやいや、私なんてまだまだだよ」
そう言いながらも、まんざらでもなさそうな笑みを士郎に向けた。
だが、そんな涼佳を見ていると胸が痛んでくる。その不快感をごまかすべく、
「俺も分かりやすくてつい聞き入ってしまったわ。ハハハ!」
士郎と一緒になって涼佳を担ぎ上げていると、女子生徒2人組が空也たちのところへ歩いてきた。
「ねえ来栖さん。よかったら私たちにも教えてくれないかな?」
「えっと、それはいいんだけど、私でいいの?」
涼佳が心配そうに尋ねると、2人は声を揃えて「もちろん!」と即答した。
「うん、じゃあもう休み時間終わっちゃうから次の休み時間でいいかな?」
「本当に? ありがとう! じゃあまた後でね」
女子生徒2人は涼佳に手を振り、自分の席へ戻っていった。
それがきっかけになったのか、その後もクラスメイトたちが涼佳に質問してくるようになった。つまるところ、みな涼佳とは話したかったのだ。ただ、話しかけに行くのに理由が欲しくて、『分からないところを聞く』というのは理由としてうってつけだったのだ。
翌日以降少しずつではあるが、涼佳は4人グループから抜けてクラスメイトたちと話すことが増えていくようになり、夏休みの間遊びに行こうという話をしているのも聞こえた。
しかしそれはそれでいいことだと思いながらも、空也は寂しさを覚えていた。だが、そんな感情を抱くのは間違いだと自分に言い聞かせる。
もともと涼佳をクラスに溶け込ませるという約束をしていたのだし、自分勝手な理由で涼佳と距離を取ったりしてしまっていたのだから。
それでも、涼佳がクラスメイトたちと楽しそうに話しているのを見ると、無意識のうちに目をそらしてしまうのだった。
放課後。空也が1人で自転車を押しながら坂道を下っていると、涼佳が後ろから追いついてきた。
「どうして置いて帰っちゃったの?」と尋ねる涼佳に、
「いや……今日話してた誰かと帰るかと思って」
戸惑いながらも、涼佳が追いかけてきてくれたことに嬉しさを抱きつつ答える。
「みんな校門出たらすぐに別方向だし、そもそもみんな部活やってるからね?」
「そうだった」
卑屈になってしまっていたせいで、そんな簡単なことすら頭から抜け落ちてしまっていた。
2人横に並んで道を歩くが、会話がなく沈黙が続く。
もちろん空也も何か話した方がいいことは分かっている。だが、何か話題を思いついても、「この話を振って涼佳は楽しんでくれるのか?」と自問自答してしまい、結果口に出すことなく引っ込めてしまうのだ。
空也自身もこれから涼佳とどうしていきたいのかが分からず、そして自分が涼佳のことをどう思っているのかもよくわからない。
ただ、自分から置いていったにも関わらず、こうやって一緒に帰れることは「涼佳はある程度自分に親近感を抱いている」という証左で、得意気になってくる。
「……ねえ、私の脚って好き?」
「……は?」
ふと、前触れもなく回答に困る質問をしてきた涼佳に、空也は思わず固まった。
「どうなの?」
「……そうだな……脚のライン、長さ、あとは太ももから膝にかけての」
「好きか嫌いかで答えて」
空也の前口上を途中で遮り、究極の二択を迫ってきた。
少なくとも嫌いではない。だが、好きかと言われると悩む。涼佳の脚は空也にとっては世界遺産以上の存在だ。だが、イコールそれが好きというのも違う気がするし、女の子の脚に「好き」というのもなんだか抵抗がある。
しかし好きか嫌いかの二択しかないのであれば好きと答えるしかないし、それに似た感情を持っているのは事実だ。
「その2つしか無いなら……『好き』だ」
それを聞いた涼佳は一瞬表情が固まったものの、
「ありがとう」
思わず「おうっ」と素っ気なく応えるしかなくなるような、はにかんだ笑みを浮かべた。
結局その後特に会話が生まれることなく、家の前で別れたところで空也は1つのことに気づいた。
『脚が』という主語があるとはいえ、女の子に好きと言ってしまったのだ。そう思うと急に恥ずかしくなってくる。
「いや、落ち着け俺」
自転車に乗ったまま下を向き、深呼吸をして心を落ち着ける。前にも涼佳に面と向かって脚を絶賛したことがあった。あれに比べれば、どうってことはない。
しかし、そうやって自分に言い聞かせようとするほど、『脚が』という部分が抜け落ち、「好き」と言ってしまった事実だけが頭の中で大きくなっていく。一体自分はどうしてしまったのだろう。
結局、空也はその晩眠れぬ夜を過ごす羽目になった。
その日は朝から雨が降っていた。
珍しく寝坊してしまいギリギリになってしまった涼佳と空也は、傘をさしながら学校へ向かい、結局到着したのはHR3分前。ギリギリだ。
「急げ!」
空也が下駄箱から上履きを取り出しながら涼佳を急かす。
「う、うん」
珍しく焦った様子の涼佳が下駄箱から上履きを取り出し、外履きから履き替えようとしたところで動きを止めた。
「どうした、遅れるぞ!」
「……」
涼佳は無言で屈み上履きに指を入れると、何かを取り出した。
それはくすんだ黄色の画鋲だった。
以前『調子に乗るな』という嫌がらせの手紙が入っていたことがあったが、それ以降特に何も起こらなかったので、その1回で満足したのだと空也は思っていた。だが、どうやらそういうわけではなかったようだ。
「おい、それって」
「……大丈夫。別に今日は体調悪くなったりしないから。それより、遅れちゃうよ?」
涼佳は笑みを浮かべたものの、その表情は固まった表情筋を無理やり動かしたような不自然さがあった。
その日以来、涼佳への嫌がらせはエスカレートしていった。
教科書がなくなったり、机の中に再び「調子に乗るな」というメモが入れられたり、自転車のサドルがなくなったりと、直接的な被害はないものの、精神的に来るものばかりだ。
しかし涼佳はそんなことが起きているにも関わらず、見かけ上では動じた様子もなく、その日も空也、涼佳、士郎、唯の4人でお昼を食べていた。
「教科書取ったり、画鋲入れるとか、ひどすぎるよー……」
唯は弁当に手を付けることなく、箸を右手で持ったまま苛立ちの込められた声で言い、
「全くだ。きっと劣等感に支配された哀れな奴なのだろう」
士郎も鼻を鳴らし、相槌を打つ。
涼佳は余計な心配をさせないため、クラスメイトたちには嫌がらせに遭っていることは伝えていないが、士郎と唯にだけは空也が詳細は伏せつつも話していた。
自分のことのように怒る唯に、涼佳は「嫌がらせをされるのは慣れてるから」と元気のない笑みを浮かべる。
空也は涼佳の言葉を聞き逃さなかった。聞き捨てならない言葉が耳に入ったからだ。涼佳は今までもこういった嫌がらせを受け続けてきたのだろうか。それは初耳だ。
だが、今はそれよりは犯人を特定することだ。机の中に入れられていたメモの筆跡からおそらく同一人物なのだろうが、それ以外はさっぱり分からない。
もうすぐ夏休み。その前にまた何かしてくる可能性は高い。
何か手がかりになるものがないか、嫌がらせが始まってから今日までに起きたことを頭の中で反芻する。
「あっ……」
「どうしたの? 須藤くん」
涼佳は首を傾げる。
「い、いや、なんでもない」
見つけたかもしれない。犯人特定の糸口を。
翌朝。空也は早起きして1人で登校し、下駄箱の裏に隠れて犯人を待ち伏せしていた。
この時間帯に登校してくる生徒もいないわけではないが、ほとんどが朝練のためで直接部室へ向かう。そのため、下駄箱周辺に人気はない。
待ち伏せを始めて5分ほど経過したところで、1人の生徒がやってきた。
空也はその生徒の前に歩み寄り、
「……唯」
名前を呼んだ。
唯は意外な闖入者に一瞬目を丸くしたものの、すぐにいつもの調子に戻り目を細めると、
「珍しいねー、こんな」
「お前が犯人なんだろ」
唯が最後まで言い終える前に、空也はそう断言した。
「何言ってるのー? 私は涼佳ちゃんの友達だよー? そんなことするわけないでしょ」
もちろん否定してくるのは空也も想定内だ。
「お前の名字は『日野』だろ? なんで『か行』が並ぶ位置で何かしようとしてたんだ?」
「あっ、ほんとだー。朝早いから寝ぼけてたかもねー?」
唯は首だけ動かして下駄箱に視線を向けると、照れ笑いとともに後頭部を掻いた。
そんな唯を見ていると、やはり犯人は別にいるのではないのではないかと思いたくなってくるが、結論を出すにはまだ早すぎると思い直し、問い詰めを続ける。
「昨日『画鋲を入れるなんて酷い』と言っていたが、来栖の上履きに画鋲が入っていたことを知っているのは俺と来栖しかいない。お前は一体誰から聞いたんだ?」
これで決まりだ。そう思ったものの、
「くーくんがいないところで涼佳ちゃんが私に話してくれたかもしれないよー?」
唯はこのやり取りをまるで楽しんでいるかのように笑う。
「それだけじゃない。手紙に使っていたシャーペンの芯の濃さが2Bだったし、この前来栖に勉強を教えてもらってる時にも2Bを使ってた」
「2B使ってる人ならいくらでもいると思うよ?」
「……下駄箱に入ってたノートの切れ端と、お前が昨日使ってたノートも同じだった」
「それもいくらでもいると思うよね?」
それを言われると何も言えなかった。やはり自分は探偵ごっこなんて柄じゃない。穴のある証拠でも集めれば自白してくれると思ったが、楽観視しすぎていた。
「……俺も唯が犯人だなんて思いたくない。だから、本当のことを言ってほしい。もし唯が脅されて仕方なくやらされてるとかなら言ってくれ。力になるから」
理詰めもへったくれもない。結局はこうして頼むしかないのだ。
唯は何も答えない。
「唯、教えてくれ。唯は誰かに命令されたのか? それとも、自分で考えてやったことなのか?」
唯は相変わらず表情を変えず、無言を貫いている。
「唯、もう一度だけ聞くぞ。やったのがお前じゃないにしても、何か知っていることがあったら教えてくれ。来栖にとってはこの田舎にやってきて初めての夏休みなんだ。それがこんな嫌がらせされたままなんて可愛そうだ。……頼む」
もう唯が犯人なのかなんてどうでもよかった。とにかく涼佳の力になりたかった。
「……どうしてそんなに涼佳ちゃんの肩を持つの?」
ようやく口を開いた唯の声は、別人のように低かった。
「唯……?」
「私の方がずっと前からくーくんと一緒にいたのに、どうして涼佳ちゃんなの?」
「いやどうしてって……俺たちは友達だろ?」
「そう思ってるのはくーくんだけだよ!」
唯は突如大声を上げ、思わず空也は後ろに仰け反る。
「どういう……ことだよ」
「私は、前からくーくんのことが……好きだったの」
「……ウソだろ?」
信じられなかった。日頃見せる唯の態度は空也からしてみれば『異性の友達』以外の何者でもなかったからだ。
「そう思うのも無理もないよね。日頃の私の態度はどう見てもただの友達って感じだったもんね」
まるで心を読まれていたかのような唯の先回りに、何も返すことが出来ない。
「だけど、それはくーくんのせいだからね?」
「俺のせい?」
「くーくんが私のこと女の子として見ていないのは分かってた。それなのに私だけくーくんを男の子として見てたら、きっとくーくんは私から距離を取る。だから、私はずっとくーくんの『いい女友達』を演じてたんだよ」
「それは……」
自信を持って違うとはとてもではないが言い切れない。
「自分の気持ちを押し殺してくーくんと接するのは辛かった。だけど、幸いくーくんは女の子にモテなかったし、自分から誰かにアタックすることもなかったから、くーくんの近くにいられるなら、このままでもいいかなって思ってた。だけど」
その先はもう言わなくても分かる。涼佳が現れたことで状況が変わってしまった。第三者から見れば2人の関係はただならぬものだと思ってしまうだろう。唯も気が気でないのは気持ちはわかる。しかし、1つ解せないことがあった。
「来栖のおかげでこのままではいられなくなったのは分かる。だけど、唯はそんな嫌がらせをするようなヤツじゃないだろ?」
「そんなヤツじゃない?」
それを聞いた唯は呆れたように鼻で笑った。
「私はみんなが思ってるようないい子じゃないよ。親からは家でも学校でもずっといい子でいることを人前で期待されて、ストレス溜まりまくりなの。だから、人の見てないところでつい悪いことをしたくなっちゃうんだよねー」
そう言った唯はいつも学校で見せる人懐っこい笑みを浮かべていたが、その裏側では悪意がうずまいていると思うと、途端に恐ろしい表情に見えてくる。
「……他にも何かしたのか?」
聞いたら後悔するかもしれない。そう思いながらも、尋ねずにはいられなかった。
「この前香菜ちゃんがタバコで停学になったでしょ? あれ、私が密告したんだよね。『誰とでも仲良くしましょうみたいな態度が気に食わない』ってさ、お前ふざけんなよ、何だよその態度って感じだよねー」
唯は空也が今まで聞いたことのない、寒気のする軽蔑の込められた笑い声を上げる。
気持ちに気づいてあげられなかったこと、そして唯の真意を聞いてもやはり男友達のようにしか思えないことに対して、申し訳ないとは思う。だが、もうやめてくれ。そう思わずにはいられない。
「……唯。頼むからこれ以上はやめてくれないか」
「どうして?」
「唯が犯人だってことは分かった。だけど、俺はやっぱり唯のことを親友だと思っている。唯の気持ちには応えられないけど、俺にできることがあれば協力するから」
「じゃあ、私のお願い聞いてくれる?」
「ああ、もちろん。何が望みなんだ?」
「キスして」
「えっ?」
一瞬何を言われたのか分からなかった。
「聞こえなかった? 私にキスして」
「……冗談だよな?」
「本気だよ? してくれたら、もう涼佳ちゃんには何もしない」
そう言うと唯は目を閉じる。
ここで形だけでもキスをすれば、唯は涼佳への嫌がらせをやめてくれる。ここは唯の希望に沿うのが一番なのではないか。そう思い、唯の肩に手を置こうとしたものの、
「……やっぱり駄目だ」
やはりできない。
「どうして? ただキスするだけなんだよ? 唇と唇を合わせるだけでやめるって言ってるんだよ? ……信じられない」
唯は目を開くと、苛立たしげに首を横に振る。
「……確かにキ、キスは唇と唇を合わせるだけの行動だ。だけど、それは特別な相手とだけする行為で、いっときの感情だけでしていいものじゃない」
「別に今どきキスくらい大したものじゃないよ」
「ダメだ。自分を大事にしろ」
子を叱る親のように、唯の目をじっと見ると唯も見返してきた。目をそらすわけにはいかない。しばらく2人がそうしていると、
「……はあ。くーくんは優しいね。そういうところが好きなんだけど」
唯の口調が変わったかと思うと、次の瞬間、唯は空也に飛びかかってきた。
殴られる。反射的に身構えたものの、痛みの代わりに空也が感じたのは、唯に抱きつかれた感覚だった。
「でも嫌いだなー。ホントに嫌い。こうやって完全に悪い子になれない私も嫌い」
唯は腕の力を強める。
「私だって結構かわいいと思うのに、何で涼佳ちゃんに勝てないんだろ。私も幼なじみじゃなくて、転校生だったらよかったのにね」
唯の声はいつしか涙声になっていた。
こういうとき、どうすればいいのだろう。抱きしめ返すのが優しさなのだろうか。
だけど、それは違う気がした。
ふと、足元に何か紙が落ちていることに気づいた。そこには『ちょっと可愛くて勉強できるからって調子に乗るな』と書かれている。きっと今日これを入れようとしたのだろう。
結局空也の腕は唯が離れるまで、所在無げに宙を漂っていた。
そんな2人のやり取りを、下駄箱の陰で見守っていた人物がいる。涼佳だ。
朝早くから外を散歩していたおばあちゃんに「空也とすれちがった」と言われ、後を追って登校したらとんでもない場面に出くわしてしまった。とても出ていける状況ではない。
音を立てないよう細心の注意を払い、涼佳はその場を後にした。
放課後。
涼佳は唯に空き教室で謝罪された。以前空也と涼佳が写真を撮っていた教室と同じ場所だ。
「嫌がらせをしてごめんなさい」と頭を下げる唯に、「いいよ、別に」と短く答える。
嫉妬が起こすエネルギーの強さを涼佳は知っている。平時ならば善良な人間を、嫉妬は凶行に駆り立ててしまう。
こっそり唯と空也の話を聞いていただけに、唯に対して同情の念のようなものを抱いていた。
「うん、ありがとう」
「うん……」
そこで会話が途切れ、沈黙が訪れた。話はすでに終わっている。教室を後にしてもいいが、それはそれできまり悪い。かといって何を話していいのかも分からない。
涼佳が意味もなく視線をさまよわせていると、唯が口を開いた。
「ねえ、涼佳ちゃんはくーくんのことが好きなの?」
涼佳は少し考えた後、首を横に振り、
「……分からないかな」
本当に分からなかった。空也に対しては親しみを抱いている。だが、これが好きかと言われると分からない。絶対に違うとも言い切れないし、また絶対にそうとも言えない。
唯は「そっか……」と言った後、「間違いなくくーくんは涼佳ちゃんのことが好きだよ。だから羨ましいな。ずっと私はくーくんのことが好きだったから」と寂しそうに微笑む。
涼佳はそれに対して「ありがとう。教えてくれて」と短く応え、「これからも仲良くしてもらえると嬉しいな」と意識して笑みを作った。
好きな人を奪われたくないという気持ちはよく分からないが、自分が大事にしているものを奪われたくなくて嫌がらせする人の気持ちは分かる。
唯は「うん。じゃあまた明日ね」と涼佳に手を振ると、教室を出ていった。
翌日から嫌がらせはなくなった。
一学期最後の放課後。その日も空也と涼佳は一緒に下校していた。
「……嫌がらせはもうない」
唐突に空也は涼佳に向かって言った。唯が犯人ということを打ち明けるべきか迷ったが、一旦は伏せることにした。
「うん。知ってるよ。唯ちゃんから謝罪されたから」
「え?」
今日も涼佳と唯は何事もなかったかのように話していて、2人の間でそんなことがあったとは到底見えなかった。
「だから、犯人が唯ちゃんなことは知ってるよ」
「そ……そうか」
それでいいのかよと思ったが、今日の態度を見る限りこれからも友達でい続けると決めたのだろう。外野からどうこう言うべきではないと判断し、短く返して終わろうとしたものの、
「……あの日の朝、2人の話を聞いてたんだよね」
その一言に一瞬時が止まったような気がした。
「っ……う、うむ」
なんと答えたらいいかわからず、適当に相槌を打つ。
「盗み聞きするつもりはなかったんだけど、でも、あんなこと言われたら出ていくにも出られないよね」と涼佳は困ったように笑い、
「……ありがとう」
表情から笑みを消し、真剣な表情で空也を見た。
「お、俺は来栖をクラスに溶け込ませる約束をしているのだから、これくらい当然であろう」
ただでさえあの場面を見られていたという事実で混乱しているのに、面と向かって礼を言われると照れくさくてたまらない。
「ううん。そんなことないよ。私1人ではきっと解決できなかったと思うから。あと、それと……その、須藤くんは私のことをどう思ってるの?」
この流れで「どう思っているか」というのは『女の子として』ということで間違いないだろう。しかし念には念を入れて「ど、どう思っているとは?」と尋ねると、
「唯ちゃんは須藤くんがそっ、その、私のことを好きって言ってたから」
さすがの涼佳も言いづらそうに視線を落とす。
空也の頭は完全に機能を停止した。頭が真っ白で何も出てこない。何かを出せという命令を出すことすらできない。
何も言えずに固まっていると、
「えっと、私は……分からないんだよね。今まで誰とも付き合ったことないから」
その一言は一言で衝撃的で、わずかに冷静さを取り戻したかと思いきや、
「だから、気持ちを確かめるために一回デートしてみない?」
再び空也の頭は機能を停止した。
夏休み初日。空也は自転車で30分ほどの駅で涼佳と待ち合わせていた。
駅に着くとすでに涼佳が待っていて、自販機で買ったスポーツドリンクを飲んでいた。
今日の涼佳は、胸元が広めに開いた青の花柄ワンピースの上に薄手の上着を羽織り、白い帽子を被っている。涼しげな色を基調とした清楚さを感じさせるコーディネートで、もちろん黒タイツも忘れていない。
今日はデートのために2人は会っている。つまり涼佳の格好は自分のために選んだのだと思うと、涼佳のどこか神秘的な美しさに、声を掛けられるまで空也は完全に見とれてしまっていた。
「須藤くん?」
「はっ……!? そ、その、待ったか?」
恥ずかしさを誤魔化すように尋ねると、涼佳は「大丈夫だよ」と笑う。
「じゃ、じゃあ行くぞ!」
一昔前の人型ロボットのようなぎこちない歩き方で、駅舎へ向かって歩く。
中に足を踏み入れると、背もたれの無い椅子がいくつかと、自販機、そして窓口の横に券売機がある。中は薄暗く、床や内装の古さにどことなく平成初期を感じさせる。
窓口に年を取った駅員がいるだけで、他に人影はない。おそらく日頃からこうなのだろう。
「私の知ってる駅にはこんな感じのところなかったから、なんか新鮮だなー」
涼佳は興味深そうに駅の中を歩き回り、あちこちに視線を向ける。
なんだか自分の家の中を見られているかのような気分になってきた。
電車が来るまでまだ10分あるが、涼佳に「早めにホームに出ておかないか」と提案し、切符を2枚券売機で購入して駅員にハサミで穴を開けてもらう。
ホームに出ると、赤瓦の屋根の民家とそれを取り囲むように山々がそびえている。屋根は塗装剥げが目立ち、人もいないホームは寂しげだ。
「なんだか映画に出てきそう。いいよね。こういうところ」
涼佳はホームの端に歩いていくと、遠くへ視線を向けた。空は目が痛くなるほど青く、山は強い日光に喜んでいるかのように青々としている。確かに、田舎ならではの風情のある光景なのかもしれないが、空也にはあまり涼佳の気持ちが理解できなかった。
10分後に電車がやってきた。田舎の電車は本数が少ない。2~3時間に1本程度しかなく、もし逃してしまうと次に来るのは2時間半後だ。
やってきた電車に、涼佳は「わあ……」と感嘆の声を漏らしながら目を丸くした。
ホームに止まっているのは1両編成の電車。地方でも1両編成はなかなかない。
「隣の市に行くだけなのに、なんだか旅行に行くような気分」
涼佳は軽い足取りで電車に乗り込む。都会ならば1つの車両に片側4ドアついているが、空也達が乗った電車は2ドアでロングシートのため、なんだか車内が長く見える。
ワンマン運転で、電車にも関わらず降り口と乗り口が決まっているため、電車というよりバスに乗っているような感覚だ。
車内には年配の女性が2人いるだけで、空也と涼佳は並んで真ん中あたりに並んで座る。
「なあ」
ふと横を向いて話しかけようとしたが、同じタイミングで涼佳も話しかけようとしていた。至近距離で2人の目が合ってしまい、
「……!」
空也の顔がみるみる赤くなっていく。
ただし赤面したのは空也だけでなく、涼佳もだった。口をぽかんと開き、目を見開いた表情で固まったまま、顔色が赤くなっていく。
「や、やっぱりなんでもない!」
「あ、うん。私もごめんね」
磁石が反発するように2人が素早く顔を反対側に向けると、年配の女性2人はそれを見て「若いわねえ」と生暖かい視線を送る。
普段涼佳は空也に対して一枚上手といった態度なのに、こんな反応をされると、やりにくい。しかし涼佳も自分のことを意識しているのだと思うと少しうれしくも思う。
3分ほど停車するとドアが閉まり、電車がゆっくりと動き始めた。
空也をはじめとした現地の人はほとんど電車を使うことがなく、自家用車を利用する。空也も最後に電車に乗ったのは、小学生の頃に両親と旅行に行ったとき以来だ。
涼佳は「旅行に行くような気分」と言っていたが、空也も同じような気持ちだった。もっとも、電車は特別な時しか使わないという生活を送ってきたためであって、涼佳とはまた違う理由だが、それだけではない。女の子と2人で電車に乗り、隣の市へデートという現実味の無い出来事の真っ最中なのだから。
行き先は分かっているというのに、見知らぬ土地へ連れて行かれるような、そんな感覚を空也は抱いていた。
田んぼと瓦屋根の家ばかりの車窓の眺めが続いた後、電車は森の中をくり抜いたような道に入った。
視界は緑一色で左右からは木々がせり出しており、電車は枝に体当たりしながら進んでいく。
「何かのアトラクションみたいだね」
涼佳は電車の外を見ながら、そんな感想を口にする。空也にとってはただの鬱蒼とした森でしかなく、否応なしに自分が住んでいる場所を自覚させられるうんざりする光景だったが、東京出身の涼佳にとっては、この景色は新鮮なようだ。
「……それにしても、この電車ゆっくりだよね」
確かに流れていく景色の速さを倍位にした方が丁度いいのでは、と思うほどゆっくりで、電車を追い抜いていく車を車窓から何台も目にしていた。
「スピードを出すと線路が早く消耗してしまうから、そのためにわざと遅くしているらしい」
「なるほどね……」
涼佳は車内を一瞥し、苦笑を浮かべた。いつの間にか最初に乗っていた年配の女性2人は降りてしまい、完全に貸し切り状態だ。
「……ねえ」
涼佳は小声で空也に話しかけると、空也の腕に手を添えた。
「ちょっ……おい!」
「これってさ、端から見たら恋人同士に見えるかな」
「っ!?」
唐突な涼佳の発言に、空也は心臓が止まりかけた。
「ど、どうだろうな……」
目を泳がせながらも、なんとか平静を装い答えを返す。
「でも、今の私達なら、周りが勝手に勘違いしてくれるんじゃない? まあ、運転士さん以外誰もいないんだけどね」
涼佳が空也の肩に頭を預けてくると、何やら甘い香りが漂ってくる。香水なのかシャンプーなのかわからないが、どうやら男の心拍数を上昇させていく成分が含まれているようだ。冷房が効いているはずなのに体が熱い。
「嫌なの?」
涼佳は頭を預けたまま目だけを動かして空也を見る。
「そっ、そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、このままでもいいよね」
涼佳の考えていることが理解できなかった。今日はデートという名目で2人出かけているが、ここまでするとは聞いていない。ずっとこうしていると頭がどうにかなりそうだし、そんな状態を涼佳に見られるのも恥ずかしい。
「な、なあ……え?」
いつまでこうしていればいいんだ、と言おうと涼佳の方を向くと、顔を赤らめながら何かをこらえている表情を浮かべ、スカートを握りしめていた。
つまり、恥ずかしがっているのは空也だけではなく、涼佳もということだ。余計訳が分からなくなってくる。涼佳は一体何を考えているのだろう……?
2人は結局一言も口を利くことなく、目的地まで体を寄せ合っていた。
1時間かけて到着した2人は、以前服を買いに行ったモールにある映画館に向かった。
上映時間が近い適当な映画を観ることになったのだが、これが失敗だった。主演俳優と女優は美形だったものの、演技はお世辞にも上手いとは言えず、脚本は展開が唐突すぎて置いてけぼりを食らってしまい、途中からさっぱりついて行けなくなってしまった。
人間というのは、興味の持てないものをずっと見続けていられるほど強い生物ではない。気がつけば空也は眠りに落ちてしまっていた。
「……はっ!?」
空也が目を覚ましたのはシアター内が明るくなり始めた頃だった。
自分が寝てしまっていたことに気づいた瞬間、背筋に冷水を流し込まれたかのような寒気が走る。まずい。映画があまりにも退屈だったとはいえ、今はデート中……。慌てて横を向くと、そこにいたのは寝息を立てて寝ている涼佳だった。
「すぅ……すぅ……」
映画を見る前に買った巨大サイズのポップコーンの容器を大事そうに両手で抱え、わずかに開いた口からは、見た目とは不釣り合いな子供のような寝息が漏れており、普段は見せることのない無防備な寝顔に、気がつけば見とれてしまっていた。
「……おい、起きろ。映画終わったぞ」
しかし、いつまでもこうしてはいられない。遠慮がちに涼佳の肩をゆする。
「ん~~……んにゃ」
涼佳は目をこすりながら目を覚ましたかと思うと、
「あっ! ごめん。私寝ちゃってた?」
混乱しているのだろう。どう見ても寝ていたのだが、疑問形で尋ねてきた。
「……思いっきり寝てたぞ」
自分も寝ていたことは一旦伏せることにし、事実を伝える。
「えーっと、どこまで覚えてるかなぁ……」
「とっ、とりあえず、外に出るぞ」
この調子だと涼佳が椅子に座ったままでいそうだったので、立つように促し、シアターを後にする。
「ちょっと、待ってよ!」
涼佳が小走りで空也の後を追う。
頭の中で涼佳の寝顔がフラッシュバックし、冷静でいられなくなっていく。開けた場所に出て一度深呼吸をしなければ、頭がどうにかなってしまいそうだった。
その後空也と涼佳は、モールの飲食店エリアにある軽食も取れるカフェ……ではなく、涼佳の希望でその三軒隣にある、量の多さが売りのつけ麺屋で昼食を取り、今度こそカフェで、と思いきや今度は涼佳がケーキを1ホールまるごと食べてしまったりと、一般的なデートとはかけ離れた1日を送っていた。
空也はこれでいいのか、と内心思わずにはいられなかったが、見た映画がつまらなかったおかげで『どこかがダメだったか』で会話が盛り上がり、予め調べておいたカフェのケーキも涼佳は頬を緩ませながら食べていたので、結果オーライと言えるだろう。
まだ日は高いものの時刻は夕方に差し掛かり、そろそろ帰ろうと思ったところで、「寄りたいところがあるんだけど」と涼佳が切り出した。
その場所を聞いた瞬間目的をすぐに理解したものの、すぐに頷くことはできなかった。
だが、結局欲望に負け、2人はその場所へ向かって歩き始めた。
2人がやってきたのはネットカフェだった。当然目的はネットを利用するためではない。
「意外と柔らかいんだね」
マットの上に足を伸ばして座った涼佳が、手のひらで力を加えながら言う。
2人がいるのは並んで『ペアシート』と呼ばれる、横になれる広さの個室だ。床は黒のマットになっており、部屋の前方には壁に取り付けられた棚の上にPCが置かれているが、今回は使うことはないだろう。
「じゃあ、さっそくしよっか?」
涼佳が脚を伸ばしスカートをたくし上げると、自分の太ももをポンポンと叩いた。
「お、おう……」
顔がつま先側に向くように、頭を横向きに太ももに乗せると、張りのある柔らかさと、意識が遠のいてきそうな程よい暖かさが伝わってきた。と、ここで1つのことに気づく。
「前と肌触りが違うな」
色にはさほど違いはないが、シルクを思わせる、なめらかな感触だ。
「前のとは違うメーカーのタイツなんだよね」
「へえ……」
今まで黒タイツは『見る』ものであり、『触る』ものではなかった。何度か購入を考えたことはあったものの、買ったところで虚しくなりそうだとか、買うのが恥ずかしいという理由で購入には至らなかった。
まさかメーカーが違うだけでここまで違うとは。自分の知見の浅さに恥じつつも、顔も名前も知らない商品開発担当者へ畏敬の念を送る。
「その……触ってもいいか?」
視界の端から中心に向かって伸びる、涼佳の脚へ向かって尋ねると、本人の感情を代弁するかのように指が落ち着きなく動き、
「……いいよ」
頭上から緊張しているのか、硬い声で答えが返ってきた。
「じゃ、じゃあ触るぞ」
「う、うん」
脛に手を置き、膝に向かって手を滑らせる。
「お、おおおお〜……」
思わず声が出てしまう。
タイツは糸で編まれているため触覚からそれが伝わってくるものの、手に引っかかることなくするすると手は滑り、脛の『反り』はなぜだか分からないが、勝手に手が往復を始めてしまう気持ちよさがあった。
「ちょ、ちょっとくすぐったいかも」
「あ、すまん」
一旦手の動きを止め、素材と涼佳の脚の体温を味わう。不安な気持ちになったときに触りたくなるような、不思議な安心感があった。
「その、どんな感じなの?」
頭上から不安そうな涼佳の声が聞こえてくる。
「最高だ。最高としか言いようがない」
即座に断言すると、「そ、そうなんだね」と反応に困っているのか、体をわずかに動かす。
続いて太ももを触ることにする。手を涼佳の太ももにおいた瞬間、手を通して全身を快感が通り抜けていった。
今度は声すら出ない。脛が不安になったときならば、太ももは疲れた時に触りたくなる感触だな、と弧を描くように太ももを擦る。タイツの素材、涼佳のふとももの柔らかさ、そして体温が合わさり、全身が甘く痺れるような快感を与えてくれる。
しばらく触覚に意識を集中していると、ふと太ももの隙間に視線が行った。迷うことなく、そこに手を差し込むと、
「え、ちょっと……んっ……ふ……」
涼佳は体をビクッと動かし、普段より高い声色で色っぽい声を出した。
「あ、悪いっ!」
聞いてはいけないものを聞いてしまった気がする。慌てて手を引き抜く。
「その、内側は敏感だから……」
「あ、ああ」
再び外側を触ることにしたものの、太ももから伝わってくる涼佳の体温が明らかに上がっている事に気づいた。これは……まずい。
頭を起こし涼佳から距離を取ると、涼佳は体に溜まった熱を放出するかのように大きくため息をつく。
「脚を触るのはいいけど、えっと、その」
涼佳は白い肌を赤く染め、吐息は熱を帯びている。見ているこちらが恥ずかしくなってくる艶めかしい表情に「すまん!」と謝罪しながら涼佳から視線をそらす。
「……えっと、それじゃあ、私もやりたいことがあるんだけど、いいかな?」
後ろから涼佳が近寄ってくる気配がする。
やりたいこととはなんだろう。そう思った瞬間、いかがわしい行為の数々が浮かび始めた。
いや、待て待て。いくらなんでもすっ飛ばしすぎだ。一旦心を落ち着け、振り返る。
「な、何をすればいいんだ?」
「それに座って」
涼佳は部屋の端に追いやられていた座椅子を指差した。
何をするのだろう、と思いながら座椅子に足を伸ばして座ると、同じように隣に座った涼佳が頭を空也の肩にもたれかけてきた。
電車に乗っていたときと同じ、男をおかしくさせる香りが漂ってくる。
「くっ、来栖!?」
突然の出来事に驚き、今度は空也が体をビクッとさせる番だった。
「ダメ……かな?」
「あ、いや……別にいいけど」
動揺しつつも、なんとか言葉を返す。
「じゃあ、しばらくこうしていようよ」
「あ、ああ」
そのまま2人は無言で体を寄せ合い、部屋には沈黙が流れる。
体を寄せ合わせるという行為は、膝枕よりは健全な行為……のはずなのだが、空也の心臓は涼佳にも聞こえているのではないかと思うほどに、強く鼓動を刻んでいた。
涼佳から漂う、嗅いでいるだけで理性が溶け出していきそうな甘い香り、そして触れ合っている部分から伝わる涼佳の体の柔らかさ、そして華奢さ。そして何より、来栖涼佳という美少女と個室でこのようなことをしているという事実。
それら全てが混ざり合って、今まで経験したことの無いような感情が脳を駆け巡り、めまいがしてくる。しかしその一方で、このままずっとこうしていたい、と思っている自分がいた。
涼佳も同じことを考えているのだろうか。横目で涼佳の顔を見ると、目が合った。
お互いに無言でただ見つめ合う。
付き合っているわけではないのに、膝枕をさせてくれるし、身を寄せ合わせてくる。涼佳は今何を考えているのだろう。
誰かに話したりなんてできないが、もし話せば100人中100人同じ同じ答えが返ってくるのではないだろうか。そんなことを思っていると、涼佳のスマートフォンが鳴った。
「ちょっとごめんね……あれ、真実さん?」
涼佳は空也の肩に頭を置いたまま電話に出る。
「もしもし。どうしました?」
何を言っているのか分からないが、スピーカーから真実の声が聞こえ始めたかと思うと、
「え!? 本当ですか?」
涼佳は驚きの声とともに体を空也から離した。
「どうしたんだ?」
「おばあちゃんが、救急車で運ばれたって……」
おばあちゃんが運ばれた病院はネットカフェからすぐ近くだったため、2人は直接病院に向かった。
焦った様子で病室に駆け込んだ涼佳の後を追って空也も入ると、ベッドの上に横になったおばあちゃんと、その脇に座る真実がいた。
「2人ともありがとうね。軽い熱中症になっちゃったみたいで」
腕には点滴が刺されていたが、おばあちゃんは思ったより元気そうで、笑みを浮かべる。
「大丈夫……なの?」
涼佳が不安そうな足取りでベッドに歩み寄りながら尋ねた。
「一応念の為1日だけ入院することになったけど、心配するほどじゃないから安心して」
「よかった……」
真実の一言に涼佳が安心したようにため息をつくと、医師と看護師が入ってきた。
「じゃあ、一回私達は出よう?」
真実は立ち上がると、空也と涼佳を伴い1階にあるロビーに向かった。
3人並んで長椅子に腰掛ける。
「ふたりとも来てくれてありがとね」
真実がぽつりと言うと、涼佳は首を横に振り、
「いえ、救急車で運ばれたって聞いたときは驚きましたけど、大したことなくて良かったです」
「私もびっくりしたよ。いきなりおばあちゃんが倒れた! っていうんだもん」
真実は苦笑を浮かべたかと思うと、
「それにしても……2人もしかしてデート?」
ニヤリとした顔で2人を見る。
「はっ、はあ!? ななな、何言ってるんだよ! はっ……」
病院にいるにも関わらず大声を出してしまい、慌てて手で口を塞ぐ。
「だってこの病院の近くに2人で来てたんでしょ~? デートじゃなかったらなんなのかな?」
「いっ、いやそれは……まあ、そうだけど」
確かに一応デートという名目で一緒にいたのは本当だ。だが、何をしていたかを真実に知られたら何を言われるか分かったものではない。
「やっぱりね~……今日は何をしてたの?」
興味津々と言った様子でじっと見てくる真実に戸惑いながら、
「映画を見て……お昼を食べて、カフェでお茶して……それくらいだよ」
「本当に~? その3つでこの時間まで持つのちょっと信じられないなー?」
白い歯を見せてニヤニヤと笑う真実の態度は、明らかに空也が何かを隠しているのが分かっている様子だ。
「ほ、本当だよ」
「そっかー……くーくんが立派に育ってくれてお姉ちゃんうれしいけど、なんだかさみしいなあ。昔はあんなに可愛かったのに」
頬に手を当てながらため息をつく真実の態度は、どこか嬉しそうだ。
「真実さんから見て子供の頃の須藤くんってどんな子だったんですか?」
「ちょっ、おい! ……むごご」
涼佳の想定外の反応に、またうっかり大声を出してしまいそうになる。
「へえ~涼ちゃんも気になるんだ? じゃあこのまま2人送ってあげるから、車の中でいっぱい話してあげるね」
「はい!」
真実と涼佳は立ち上がると、外へ出ていった。
残された空也は思わずため息をつく。これから待っている責め苦を想像すると、ため息しか出ない。
もう一度大きくため息を着くと、空也は2人の後を追った。
車内では、空也自身も完全に忘れてしまっていた幼い頃の話に花が咲いていた。
「それでね、公園に遊びに行ったときにかくれんぼをしてたら、くーくんったらうっかり迷子になっちゃって、やっと見つけた時になんて言ったと思う?」
「うーん、想像がつかないですね。なんて言ったんですか?」
「『おねえちゃんどこ行ってたの!』って声は怒ってたんだけど、寂しかったみたいで私に抱きついた瞬間泣き始めちゃった」
「わ~、かわいい!」
運転席と助手席で盛り上がる2人に、空也は後部座席の端で小さくなっていた。最初は必死に聞き流そうとしていたが、流石にもう限界だ。
「もういいだろ!」
体を前に乗り出し、真実に向かって声を荒げる。
ちょうど赤信号に差し掛かり、車を止めると真実は後ろを振り返り、
「なに? まだ話したいことあるんだから、もっと話させてよ」
発言内容とは裏腹に、笑うのを我慢しているような表情だ。
「十分聞いたからもういいだろ!」
「はいはい。昔は素直で可愛かったのになあ」
真実はわざとらしくため息をつくと、再びハンドルを握って車を発進させた。
「……はあ」
体を後部座席に預ける。
こうやってまた話せるようになったのは嬉しかったが、相変わらず子供扱いされている気がする。何か、もう子供じゃないと思わせられるような機会を作らなければ。そう思うのだった。
その日の夜。
「好きって何でしょう」
真実と2人で夕食中、涼佳は脈略無く尋ねてみた。
「そんなことを相談されるなんて、年を取ったような気がするからなんだか複雑ね」
真実は苦笑を浮かべながらも、缶ビールを手に嬉しそうに体をソワソワと動かしていたが、ビールをテーブルの上に置き、居住まいを正すと、
「そうねえ、少なくとも運命の出会いをして、この人にビビッと来る。なんてことはないと思う。いつの間にか外堀が埋められていって気がついたら付き合ってて、気がつけば相手を好きになってる。そんなものじゃないかな。だからとりあえず付き合っちゃお!」
「あの、私何も言ってないんですけど」
「確かにくーくんは運命の人って柄じゃないもんね」
ビールを手に取り、一口。いつの間にか相手まで決められてしまっていた。
「誰も須藤くんだなんて言ってないですが……」
「まあまあ。くーくんに涼ちゃんはもったいない気がするけど、くーくんは勉強ができるから今のうちに押さえておいてもいいと思うよ。顔だけで選ぶと絶対後悔するから」
真実は顔に出ないだけで、そんなにお酒に強いわけではないことを思い出した。これは多分結構酔っている。
涼佳は適当なところで真実から逃げ出すと自室に戻った。ベッドの上で横になり天井を見上げる。気がつけば空也のことを考えてしまっていた。
空也と関わろうと思ったのは、最初は同じ高校に通っていて、しかも隣に住んでいるから仲良くしておいた方が得だと思ったから。そして男の子と関わることが今まであまりなかったから興味があったし、そんなに見てくれは悪くなかったから、という軽いものだった。
だけど気がつけばそれだけではなくなっていた。試しに体を寄せ合わせてみたらドキドキはしたけど、そんなに悪い気持ちではなかったし、何より彼は自分に好意を持っている。
対して自分は彼のことをどう思っているのだろう。
少し考えてみたけれど、彼に対する感情にぴったりな言葉が見つからない。
ただ、これだけは言える。彼と一緒にいる時間は心地よいということだ。
2人がデートに出かけて3日後の昼間。
涼佳が空也の家にやってきた。
家族はみな仕事で家にいないので、とりあえずリビングに招き入れ、冷やした麦茶をテーブルを囲み向かい合って2人で飲む。
「おばあちゃん、まだ入院してるんだって?」
涼佳のおばあちゃんは予後が良くないのか未だに入院している。
「……うん。でもまあ年だから仕方ないよ」と涼佳が短く答え、そこで会話が途切れた。
グラスを置くと、涼佳を一瞥する。
行儀よく背筋を伸ばし、両手でグラスを持って少しずつ麦茶を飲んでいた。
少し前の自分ならば、これはチャンスだと撮影会を始めていたかもしれない。だが、今はなんだかそういう気分になれない。
そんなことを考えていると、
「ねえ、ちょっとこっちに来てくれない?」
「? ……ああ」
言う通り椅子から立ち上がり、涼佳のそばへ歩いていくと、涼佳は急に空也の手を握った。
「ちょ、ちょっと、おい!」
涼佳は下を向いていて、表情を確認することができなかったが、ゆっくりと顔を上げた。
「えっ……」
頬を赤らめ、不安そうに眉毛をハの字にし、空也を上目遣いで見る涼佳。
かわいい。家には今誰もいない。思わず衝動に駆られ、抱きしめたいと思ってしまった。
が、そんなことしてはダメだと理性で体を押さえつける。過去に結構すごいことをしておいてなんだが、抱きしめるという行為はまた違う気がした。
「そういえば、また写真撮る?」
空也が葛藤に苦しんでいると、涼佳は手を離し空也に尋ねる。
そういえば今日は今までに見たことのない格好だ。ノースリーブにホットパンツ、そして髪の毛を珍しくポニーテールにしている。もちろん黒タイツも忘れていない。
「そ、そうだな」
なぜだか分からないが、涼佳の脚を撮っているときは平常心……とはまた違うが、少なくとも今のようにドギマギはしたりしない。父親のカメラを持ってくると、椅子に座った状態や膝立ちしている姿勢を撮っていく。
しかし今日はなぜだか全く集中ができない。髪型が違うおかげで普段は隠れて見えない耳や首筋、うなじに視線が行くたびに集中力が雲散霧消してしまうのだ。
「……どうしたの? なんだか集中できてないみたいだけど」
カメラを持ったまま固まってしまっていた空也に、涼佳が椅子に座ったまま尋ねた。
宝石のような瞳に見つめられ、魂を吸い込まれたかのように一瞬呆然としてしまう。
「な、何でもない……それより、何か食べに行かないか」
脚以外も撮りたい。そう思った。そしてどうせなら外で撮りたい。ちょうどお昼時で丁度いいし、ついでならば不審がられることもないだろう。
「……それじゃあ、あそこに行かない?」
涼佳は聞き覚えのある店の名前を口にした。
2人は至福珈琲に来ていた。前にも来たことのある、カフェとラーメン屋と唐揚げ屋が1つになった店だ。
涼佳の目の前には、ラーメン、山盛りの唐揚げ、カレーパン、焼き鳥、チーズバーガー、台湾フルーツジュースという、1つの店ですべて提供しているとは思えない料理が並んでいる。
「はあ……おいしそう」
涼佳は今にもよだれを垂らしそうな表情で料理を見下ろす。
「……先に食べていいぞ」
空也の料理はまだ来ていないからだろう、手を付けようとしない涼佳に食べるよう促す。
「いいの? じゃあ、いただきます!」
涼佳は手を合わせると、まず唐揚げの山盛りに手を付け始めた。
空也が先に食べるように言ったのは遠慮させないというのもあったが、もう一つの理由があった。カバンからカメラを取り出し、食べることに夢中になっている涼佳に向ける。
実はこのために涼佳が席を立っている間にスタッフを呼び、自分の料理は後で持ってくるよう頼んでいたのだ。
シャッターを切り、液晶で撮ったばかりの写真を確認する。そこには店に買い取ってもらえそうなほどに、幸せそうにラーメンを頬張る涼佳が写っていた。その写真を見ていると、脚ばかり撮っていた俺は何なんだろう。そんなことを思ってしまう。
もっと涼佳の写真を撮りたい。液晶に写る涼佳を見ているとその気持は強くなる一方だった。
食事を終えると空也は涼佳を連れ出し、以前涼佳が山盛りのお菓子を食べていた国道沿いの東屋に来ていた。涼佳に座ってもらい、カメラを向ける。
「来栖。こっちを向いてくれ」
「えっ?」
遠くを見ていた涼佳が気の抜けた声とともに空也の方を向くと、
「いいぞ。そのまま」
シャッターを切る。液晶で確認すると、我ながら自然な感じの、日常の1ページを切り取ったような写真が撮れていた。
「あれ、撮るのは脚だけじゃないの?」
「いや、もう脚だけは撮らない。全身を撮る」
「ほ、本気なの?」
涼佳は焦ったように両太ももをこすり合わせる。
「本気だ。その……もったいないだろ。脚だけなんて」
「え?」
「いいから撮る! その代わり綺麗に撮ってやる。それでいいだろ?」
強引に会話を打ち切り、再び涼佳にカメラを向けた。
涼佳は呆気に取られたように口を丸くしていたものの、手を口元に持ってきて小さく笑い、「そこまで言うなら、きれいに撮ってよね」とレンズに向かって得意げに目を細めた。
その後2人はあちこちで写真を撮った。
木漏れ日の下。歩道橋の上。涼佳お気に入りの城跡。家の近くの古びた神社。
見慣れたうんざりするような場所が、涼佳という被写体と合わさるだけで新鮮に見えた。
くすんだ色の自分の町が、涼佳という女の子のおかげで色を取り戻したような、不思議な感覚を抱く。涼佳と一緒に写真を撮る、それだけで特別な場所になったような気がしてくる。
もう間違いない。須藤空也は、来栖涼佳の事が好きになってしまっていた。
ひとしきり写真を撮ると、2人は涼佳の部屋でカメラをパソコンに繋ぎ、今日撮った写真を見ることにした。机の前に椅子を並べて座り、1枚ずつ写真を見ていく。
「脚だけと違ってなんだか恥ずかしいね」
自分が写る写真を見ながら、涼佳が恥ずかしそうに笑う。
「いやだけど、これとか素人が撮ったにしてはまあまあ上手く撮れてないか?」
画面には、山頂にある城跡から、町並みを眺める涼佳の写真が表示されていた。
涼佳にフォーカスが当たり、程よいボケ味のあるポートレート 写真が撮れている。風が吹いていたおかげで、涼佳の長い髪の毛が風に流されているのも芸術点が高い。
「70点くらいかな?」
「いやいや、もっといい線行ってるだろ」
「うーん、やっぱり自分が被写体ってだけで採点厳しめになっちゃうかな。……だけど、何年経った後でもこの写真を見たら『あの時こんなことしてたな』って思い出せる気がする」
物憂げな表情で涼佳が画面を見つめながら言った一言にふと思う。
「……いつまでこっちにいるんだ?」
「そうだね、最初はちょっといたら戻るつもりだったんだけど、思ったより楽しくて」
涼佳は寂しそうな笑みを浮かべ、小さく頷く。いつか涼佳は東京に戻ってしまう。進学先は別々になってしまうだろうから、もともと長くは一緒にいられない間柄だったのだ。
それにそもそも付き合っていないのだから、一緒にいたいと言う権利もない。だが、時が来たらお別れというのも嫌だった。
部屋に沈黙が訪れる。外から聞こえる虫の音や、車の音がひときわ大きく聞こえる気がする。
今しかない。意を決し、涼佳の目を真っ直ぐ見つめる。
「あ、あのさ」
「うん」
涼佳も膝の上に置いた手を握りしめ、空也の目を見返す。
「俺――」
続きを言おうとした瞬間、部屋のドアがノックされた。
「うおっ!」
「きゃっ!」
思わず大声が出てしまい、涼佳はその声に驚いたのか悲鳴を上げた。
「あ、開いてます」
「驚かせてごめんね」
ドアを開けたのは予想通り真実だったが、なんだか様子がおかしい。部屋に2人でいたのだから、からかいの1つでも飛んできそうなものなのに、暗い表情で2人を見ているだけだ。
「いえ、どうしたんですか?」
「言いにくい話なんだけど……」
真実の口から出た言葉に、空也と真実は言葉を失った。
空也と涼佳は、真実とともにおばあちゃんのお見舞いに来ていた。
「ごめんね、心配かけちゃって。2人でいる時間を邪魔しちゃったわね」
ベッドの上のおばあちゃんは、ガンだと宣告されたとは思えないほどに元気そうで、実は真実とおばあちゃんでドッキリでも企んでいるのではないかと思うほどだ。
「ううん。大丈夫だよ」
「そう。ありがとうね」
おばあちゃんは涼佳に微笑むと、お茶を飲んだ。
真実から聞いた話では手術が難しい場所で見つかり、これからどうなるか分からないらしい。
真実と涼佳がやってくるまでおばあちゃんはずっと一人暮らしで、自分のことはなんでもできていた。だが、今後は流石に1人では厳しいかもしれないとのことだった。
おばあちゃんはもう少しいて欲しそうだったが、検査があるため少しだけ話した後病院を後にし、3人が無言で駐車場へ向かって歩いていると、涼佳の電話が鳴った。
カバンからスマートフォンを取り出し、ディスプレイを確認した涼佳の表情が一瞬引きつる。
「……ちょっとすみません」
涼佳は2人から距離を取り通話し始めたため、空也と真実の2人は先に車に乗り、涼佳を待つことにする。
涼佳が一瞬見せた表情が気になっていた空也は、窓越しに涼佳の表情を伺う。何を話しているのかは分からないが、表情や体の動きからは、何か揉めているように見える。
心配だった。誰と話しているのか気になるし、なぜそんな表情になっているのだろう。
真実は何か知っているのだろうか。尋ねてみようと思ったところで、涼佳がスマートフォンをカバンに戻し、駆け足でこっちに向かって来た。
「お待たせしました」
車に乗り込みながらそう言った涼佳の声には、明らかに元気がなかった。顔には作ったような笑みが張り付いており、本心を隠そうとしているのが丸わかりだ。
気になって仕方がなかったものの、聞いたら最後、もう二度と涼佳と会えない気がして怖くて聞けなかった。
4日後。その間も涼佳は何度か空也の家に遊びに来ていたが、長居することなくさっさと帰ってしまい、思いを告げられるチャンスはなかった。
涼佳も涼佳で、遊びに来ているにも関わらず態度はどこかよそよそしく、4日前に電話で何を話していたかを聞ける雰囲気ではなかった。
その日は涼佳から連絡はなく、空也が家で勉強をしてると電話が鳴った。
涼佳かな、と思いディスプレイを確認すると、『石原真実』と表示されている。
「もしもし」
「くーくん? いますぐうちに来て」
なんだろうと思いながら出ると、その一言で電話が切れた。
空也がおばあちゃんの家に向かうと、引き戸が開けっ放しになっており、男女の揉める声が聞こえた。女側は涼佳だと分かったが、男側には聞き覚えがない。
中に足を踏み入れると、涼佳と40代半ばくらいと思われる男性が揉めており、真実は廊下から2人を見ていた。
その男性に何か違和感のようなものを抱く。服装はシワのないシャツを腕まくりし、ジーンズに黒革靴、髪の毛は短めで額を出しているというそんなに珍しいものではない。
しばらくして違和感は見た目ではなく、喋り方にあることに気づいた。周りの大人と違い、涼佳と同じように訛りのない言葉で話している。きっと涼佳の父親だろうと感覚で分かった。
空也に気づいたその男性は、「君は誰かな?」と空也に尋ねる。
「えっと、来栖……さんと同じクラスで隣に住んでいる須藤空也と言います」
見知らぬ男性はこの場に空也がいることを快く思っていないようで、そんな態度を取られたことで尻込みしてしまうが、背筋を正し、なるべく目を見ないようにする。
「なるほど。私は涼佳の父親です。涼佳がいつもお世話になっています」
涼佳の父親は社交辞令だと丸わかりの、大人としての最低限の礼儀を見せた後、「涼佳を東京に連れて帰ることにしたよ」とすでに決定事項だと言わんばかりに告げた。
「待ってよ、私はまだ帰るなんて言ってない!」
しかし涼佳は承諾していないようだ。涼佳の父親に向かって声を荒げる。
「涼佳。おばあちゃんは入院中で、しかもガンなんだろう。おまけに真実さんしかついてやれる人がいない。親戚とはいえ、迷惑をかけるわけにはいかない。違うか?」
対して涼佳の父親はあくまで冷静に、涼佳に言い聞かせるように言う。
「迷惑をかけないようにするから」
「お前はまだ子供で、どうしても大人の手がいる。学費や生活費は誰が出していると思っているんだ。だいいち、いつまでこんな田舎にいるつもりだ。社会に出れば競争の連続で、田舎に住んでいる時点で勝負を捨てたも同然だ。いい頃合いだ。お前のためを思って言ってるんだ」
「っ……」
涼佳は悔しそうに視線を落とす。
真実は父親の言うことが正しいと思っているのか、他人の家庭に口を出すのは良くないと思っているのか、沈黙を守っている。
涼佳は視線を上げると、助けを求めるように空也を見た。
当然空也も涼佳に帰って欲しくはない。しかし、涼佳の父親の言うことは正論で、彼を納得させられるようなことが言えるとは思えないし、知らない大人に歯向かうというのが怖くてたまらなかった。
「じゃあ、すぐに荷造りをするんだ」
何も言えず、かといって視線を外すこともできずただ固まっていると、涼佳の父親は涼佳の背中に手を当て、玄関に上がるように促す。
涼佳は肩を落としたまま家に上がり、振り返ることなく自分の部屋へ向かうためだろう。2階へ上がっていった。
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