2.新たな学園生活

 空也と涼佳は高校へと続く上り坂で自転車を押して歩いていた。

 この坂道は過去に事故もあったことから、校則で自転車に乗って下ることは禁止されている。代わりに上ることは禁止されていないものの、そんな急坂なこともあり、ほとんどの生徒は自主的に押してこの坂を上る。

「あっづ……」

 空也は額に滲んだ汗を腕で拭い、太陽を睨みつけた。すでにセミが忙しく鳴き始めており、不快指数を上昇させることに貢献している。

 涼佳はどうなのだろうと一瞬涼佳に視線を向けると、1人だけ違う空気に包まれているかのように涼しい顔をしている。

 ただでさえ黒タイツで暑そうなのに、何者なんだと思っていると、

「あれー、意外な組み合わせだねー」

 立ち漕ぎで追いついてきた唯が2人の横に並び、軽やかに自転車から降りると同じように押し始めた。左から、唯、涼佳、空也の順番だ。

「えっと、日野さん……」

「覚えてくれてたんだー!」

 涼佳が覚えていたことが嬉しかったのだろう、唯の声のトーンが上がり、

「でも唯でいいよー。私も涼佳ちゃんって呼ぶから」

 まさに『ニコニコ』という擬音がぴったりの、人当たりのいい笑みを浮かべた。

「うん、唯……ちゃん」

 涼佳が遠慮気味に名前を呼ぶと、唯は満足げにうんうんと頷き、

「それにしても、2人どうしたのー? もしかして、くーくん涼佳ちゃんのこと狙ってるー?」

 話題の矛先を涼佳から空也に急に変えた。

「なっ……ちっ、違うわ!」

 すかさず反論したものの、唯は空也の言うことを聞いてなかったかのように、今度は涼佳に向かって話し始めた。

「くーくんはやめた方がいいと思うよー。きっと涼佳ちゃんじゃなくて、涼佳ちゃんの『脚』が好きだからね」

「あはは……私須藤くんの家の隣に引っ越してきたから一緒に登校しているだけだよ」

「えっ……?」

 涼佳が苦笑しながら返すと、唯の表情から笑みが消えた。妙に動揺しているようだ。

「くーくん本当なの?」

「……本当だ。隣のおばあちゃんいるだろ。あそこの孫なんだよ」

 そう答えると、唯は顔を涼佳に近づけてじっと観察し始めた。

「えっと、唯……ちゃん?」

 涼佳の問いかけに答えることなくしばらくそうしたあと顔を上げ、

「あー! 確かに、どことなく真実さんに似てるかもー。なるほどねー」

 唯の顔からは動揺は消え、最初と同じ笑顔に変わっていた。

「それじゃ私は先に行くから、くーくん、頑張ってねー」

 再び唯は自転車にまたがり、立ち漕ぎで坂を上り始めた。唯の短いスカートが翻り、見えてはいけないものが見えてしまいそうになる。

 思わず「パンツ見えるぞ!」と注意すると、唯はスカートをめくって下に見せパンを履いているところを見せたかと思うと、そのまま振り返ることなく坂道を上っているとは思えない速さで去っていった。陸上部でエースを張れる健脚の持ち主だからこそできる技だ。

「ハァ……」

 唯が去っていったあと、思わずため息をつく。相変わらず誰に対しても友好的だが、掴みどころがない良く分からない奴だ。幼い頃はそうでもなかった気がするが、気がつけばあんなキャラになっていた。何が唯をあんなふうにしてしまったのだろう。

「日野さんってなんていうか……すごい子だね」

 隣で涼佳が苦笑いしていた。

「ああ……確かにな」

 そこで話が途切れ、2人は無言で坂を登っていく。

 やがて坂道が終わると、前方に古びた校舎が見えてきた。校舎を取り囲むように、敷地の線に沿うように自転車置き場が左右に建ち並んでいる。

 校舎の左側の角を曲がると、生徒用の玄関がある。利便性のためにガラスドアは開けっ放しになっていて、中に置かれている年代物の下駄箱が外からでも見える。

 自転車置き場に自転車を停め、生徒玄関に向かおうとしたところで空也は立ち止まった。

「どうしたの?」

「悪い! ちょっとトイレ行ってくるから先行っててくれ!」

「え? 須藤くん!」

 涼佳の呼び止める声を無視して、空也は校舎の右側にある体育館へ走っていった。

 トイレに行きたいのは本当だが、別にもう限界というわけではない。理由は単純、涼佳と一緒に教室に入るわけにはいかないからだ。

 丘高の体育館は変わった造りをしている。1Fは天井が高くコンクリート打ちっぱなしで、上から見ると何人も並んで通り抜けられるT字型の太い通路があり、Tの縦線の左側に剣道場、右側に卓球場と野球部のトレーニングルームがある。バスケやバレーができるアリーナやステージは2Fだ。

 空也はTの縦線の下側にあたる部分の通路から体育館の1Fに入った。中は外と比べて気温が低く、薄暗い照明のおかげでより涼しく感じられる。

 入ってすぐのところにある剣道場の周りに女子生徒が集まっていた。だが、誰も声を上げることなく、窓越しに熱い視線を送っている。剣道場は窓の位置が高いため、皆どこかから持ってきた台の上に乗っていた。

「キェーイ!」

 掛け声が聞こえたかと思うと兜を竹刀で叩く音が響き渡り、女子生徒たちは一瞬体を硬直させたかと思うと、すぐにうっとりとした表情に変わった。

 掛け声の主は士郎だ。剣道部は有志で朝練を行っていて、士郎は毎日参加しているわけではないため、士郎のファンの女子生徒たちの情報ネットワークで今日はいるいないを共有しているという噂まである。

「菊池くん王子様みたい……」

 王子って、兜被ってるから顔見えないだろ、と女子生徒のつぶやきにツッコミを内心で入れつつ、剣道場の横を通り抜けながら一瞬剣道場の中に視線を送ると、兜を脱いだ士郎と目線が合った。練習相手は肩で息をしているのに、士郎は涼しい顔だ。

 士郎は一瞬意外そうな表情をすると、「よっ」という感じで手を上げ、それを見た女子生徒たちは自分たちに向かってだと思ったのか、ざわつき始めた。

 相変わらず人気者だなと思いながら、気持ち程度に手を上げて剣道場の前を通り過ぎた。


 空也が教室に入ると、昨日に引き続き涼佳は相変わらず生徒たちに囲まれていた。

 極力涼佳が視線に入らないように自分の席に向かい着席すると、今日の予習を軽くする。

 普段はクラスメイトたちの話し声はまるで気にならないのだが、つい涼佳たちの会話に聞き耳を立ててしまい集中できない。

 ため息をつきながら天井を見上げていると、「そういえば昨日も今日もタイツ履いてるけど、暑くないの?」という会話が聞こえてきた。思わず涼佳たちの方角へ体ごと視線を向けてしまったが、すぐに体の向きを戻して聴覚に全神経を集中する。

「えっと、それはね……」

「それは?」

 機密情報を話すかのように重々しく涼佳が言ったためか、それに反応する生徒たちの態度も興味深そうだ。

「実は東京で流行り始めてるんだよね。まだSNSでは小さなトレンドなんだけど、冬に生足を出すのがありなら、その逆もありでしょ? 男性は夏でも黒いボトムス履くことがあるし」

「ほ……」

 うっかり「本当かよそれ!」と声に出てしまいそうになり、空也は慌てて手で口を押さえた。

 説得力が無いわけではないし、涼佳の言い方も冗談のようには聞こえない。田舎でも夏に黒スキニーを履いている人を確かに見かける。しかしどこか嘘くさい。かと言って嘘か本当かを確かめる方法も無い。

 流石に取り囲みの誰かからツッコミが入るだろう、そう思ったものの、

「なるほど……」

「たしかにねー」

 全員信じてしまっていた。

「いやつっこめよ!」と内心でそう思ったものの、もしかしたら自分の考えすぎなのかもしれないと思い直す。

 ニュースなどで東京の光景を目にすると様々な服装の人が歩いていることが分かる。だから黒タイツを夏に履くくらい、特段おかしなことではないのだ。単に単身東京からやってきた転校生なのだから、秘密の1つくらいないとおかしいと思いこんでしまっているのだろう。

 そう結論づけたものの、やはり納得できずにいると、朝練を終えた士郎が教室に入ってきた。

「今日なんで剣道場の前にいたんだ?」

 士郎は席に着くなり、空也に話しかけてきた。

「それは……」

 正直に涼佳と一緒に登校してきたから、一緒に教室に入って噂になるのを避けるため、と正直に言うのも憚られ、口ごもっていると、

「……人から聞いたんだが、来栖と一緒に登校してきたんだってな」

「へぇっ!?」

 答える前に、士郎に先回りされてしまい、変な声が出てしまう。

「そ、それ、どれくらいの奴らが知ってるんだ!」

「もう多分結構な奴が知っているはずだ」

「何か噂になってたりとか?」

 質問をするたびに、顔が士郎に近づいていく。

「いや、来栖がたまたま近くにいたお前に話しかけただけだろう。という共通認識が出来上がっているだけだな」

「あっ、そう……」

 安心と自分がその程度の人間としか認識されていない、という悲しみが混ざり合ったことで生まれた無力感を抱きながら、士郎と再び距離を取り、へなへなと椅子に体を預けた。

「それで、実際はどうなんだ?」

 士郎は右手で頬杖をつきながら尋ねた。その物言いは「本当のことは分かっているぞ」と言わんばかりだ。士郎は妙に勘が鋭いところがある。

「……隣の家にあいつが引っ越してきて、今日は一緒に登校した」

 それを聞いた士郎は、一瞬眉をピクリと動かし、「ほう」と口端に笑みを浮かべた。

「それはよかったな」

「別によくねーよ」

 実際は全くどうでもいいわけではないのだが、机に頬杖をつき、興味なさげに答える。

「だが、空也の好きな黒タイツをいつも履いているようだし、しかも美少女で、さらにお前の憧れの東京からの転校生だ。申し分ないと思うが?」

 いつもはあまり笑みを見せることのない士郎のような男でも、他人の色恋沙汰というのは興味のある話らしく、どこか楽しげだ。

 確かに涼佳は話しているだけで落ち着かなくなってくるほどの美少女だし、黒タイツを履いたあの脚は海馬に焼き付いてしまっている。

 それに健全な男子高校生としては涼佳と『そういう関係になったら』というのを全く想像しないわけではない。だが、男女の仲になりたいとは今の所は思わない。

 とはいったものの、東京から田舎に転校してきて何かと不安もあるはずだ。自分が力になれるなら、なった方がいい。それならば今の関係のままの方が都合がいい。

 頭の中ではそのようなことを考えていたものの、「俺はいいよ別に」とだけ短く返す。

「まあ別に構わないが、誰かに取られても俺は慰めてやらないぞ」

 士郎は意味ありげに笑った。


 その日午前最後の授業は体育だった。

 丘高では体育は選択制で、いくつかの種目の中から1つ選び、他のクラスと合同で行う。涼佳が選んだのは卓球で、唯も一緒だ。

 卓球場に置かれている卓球台10台のうちの新しい5台は卓球部専用で、体育で使用できるのは残りの5台だけだ。よって卓球の定員は10人までになっている。

 体育教師が持ってきたラケットとピンポン玉をそれぞれが手に取り準備をしていると、

「あれ、いいのかよ」

 涼佳と同じクラスの松川香菜が涼佳を指差しながら、体育教師に絡んでいた。

 髪の色を脱色し、眉毛が薄いおかげで目つきがきつく見える。耳にはいくつもピアスの跡がついてるため、休日はつけているのだろう。まさにヤンキー女子といった風貌だ。

「タイツのことか? まあ靴下みたいなものだから問題ないだろう」と教師は答えたものの、納得がいかなかったのか、松川は涼佳の元へ駆け寄り、今度は涼佳に絡み始めた。

「お前さ、東京から来たからって調子乗ってんじゃねえぞ? おしゃれかなにか知らないけど夏にも黒タイツなんて頭おかしいだろ」

 2人の顔の距離は今にも額と額がぶつかりそうだ。

「まあまあ、香菜ちゃん。喧嘩腰はよくないよー」

 すかさず近くにいた唯がたしなめたものの、松川は唯を睨みつけた。

「気安く下の名前で呼ぶんじゃねえ。だいたい、お前のその誰とでも仲良くしましょうみたいな態度が気に食わないんだよ!」

「っ……!」

 唯はそんな事を言われるとは夢にも思っていなかったのか、表情を凍りつかせた。

「……」

 涼佳は俯き体を震わせている唯を見た後、松川に向き直り、

「ねえ、松川さん。じゃあこうしない? 私と卓球で勝負して松川さんが勝ったら言うことを聞いてあげる。これでどう?」

 自信に溢れた目で松川を見た。

「面白い。アタシは中学の頃卓球で県ベスト4に入ったことあるんだ。土下座しても許さないからな?」

 松川は前髪を払いのけると、引きつったような笑みを涼佳に向ける。

「もちろん」

 そう答えた涼佳は特に臆した様子もなく、自然体だった。


 11点制で3本先取で試合が始まった。

 涼佳はピンポン玉をトスすると、サーブを放った。

 特別速度が速いわけでもなく、回転がかかっているわけでもない平凡なサーブだ。

「甘いっ!」

 松川はそれをたやすく打ち返し、リターンエースが決まる。

「なんだよ。自信あるように見えた割には全然大したことないじゃん。ほら、早く次のサーブを打てよ」

「……」

 涼佳は松川に答える代わりに再びサーブを放つ。

「なんだよそれっ!」

 1本目よりも勢いのあるカウンターが涼佳のコートに突き刺さる。

 結局その流れは変わることなく、1ゲーム目はあっという間に松川が取ってしまった。

「おいおい。これじゃあたしがソッコーで3ゲーム取っちゃうぜ?」

 額の汗を拭うと、明らかに涼佳を見下したような笑みを浮かべながら松川が笑う。

「でも、まだ1ゲーム目だからね? じゃあ、次のゲーム行こっか」

 しかし涼佳は特に取り乱した様子もなく、1ゲーム目を始める前と変わらない、自信のある表情を浮かべる。

「……気に入らねえ。澄ました顔しやがって」

 そんな態度の涼佳が気に食わなかったのだろう。松川は手にしたラケットを強く握りしめた。

 

 2ゲーム目も松川ペースだった。1ゲーム目よりはラリーが続くようになってきたもの、涼佳の甘いサーブを見逃すことなく、点を積み重ねていく。

 0―8になり再び松川のゲームかと思われたが、初めて涼佳が点を獲得したところから、徐々に涼佳が優勢になり始めた。2点、3点と涼佳が連続で加点し、松川の表情から余裕が消え始め、松川自身にも変化が表れていた。

「はぁっ……はぁっ……なんてしつこい奴」

 松川は肩で息をしながら涼佳をにらみつける。元卓球部だったとはいえ、ブランクはある。すでに疲れが出始めていた。

 対して涼佳はむしろ体が温まってきてこれからだ、とすら思えるほど疲れを見せていない。

「くそっ……!」

 次のサービスは松川。1ゲーム目ではサービスエースを何度か決めていたが、涼佳は難なく打ち返し、ラリーが続く。

 実力で言えば間違いなく松川の方が上だ。しかし疲れている状態ではパフォーマンスを維持し続けられない。サーブのキレは徐々に鈍くなりミスも増え、2ゲーム目は9ー11で涼佳が制した。

「今度は私の勝ちだね。3ゲーム目、休憩してからにする?」

 涼佳はラケットを握ったまま、松川に向かって腕を真っ直ぐ伸ばす。

「あ? 休憩なんているわけねえだろ!」

 松川は額から汗を垂らしながら怒鳴り声を上げた。

 すぐに3ゲーム目が始まったものの、今度は涼佳のワンサイドゲームだった。

 涼佳の動きは2ゲーム目までと何も変わっていない。松川も1ゲーム目と同じ動きができていれば、涼佳に1点も取らせることなく松川がゲームを制していただろう。しかしもはや体力が限界の松川は自滅を繰り返し、結果3ゲーム目は涼佳の圧勝だった。

「私の勝ちだね。4ゲーム目、やる?」

「……あたしの……負けだ」

 未だ余裕そうな涼佳に対し、松川は3ゲームが終わったと同時に床に座り込んでしまった。

 2人を心配そうに見ながら試合をしていた他の生徒達も手を止め、歓声を上げる。

 涼佳は床に座り込んだままの松川の近くに歩み寄り、しゃがんだ。

「……なんだよ」

 憎まれ口を叩く余裕もないのか、松川が弱々しい声で尋ねると、

「タバコはやめた方がいいと思うな。口臭ってたし、体力も落ちるし、お肌にも良くないよ?」

「なっ……」

 そんなことを言われるとは夢にも思っていなかったのだろう。松川は言い返すこと無く口を手で押さえただけだった。

「……」

 そんな涼佳の勝利で湧く生徒たちを、唯だけは無表情で見ていた。


 その日の放課後。空也は1人で自転車を押しながら坂を下っていた。

 空では雲が青空を悠々と泳ぎ、太陽は休むこと無く地上を焼いている。

 涼佳と松川の一件は空也も耳にしており、どちらかといえば松川を苦手としている生徒が多かったためだろう、クラスでは涼佳はヒーローのような扱いだった。

 おかげで日頃松川とつるんでいた生徒たちは形見が狭そうで、涼佳に忌々しげな視線を送っていた。

 当の本人は午後からいなくなってしまい、噂ではタバコで停学になったと囁かれていたが真実は不明だ。

 去年もこの時期くらいに上級生がタバコで停学になり、全校集会で生活指導の先生が体に与える害について話していた。そういう悪いことがやりたくなる季節なのかもしれない。

 だが、見つかってしまったら間違いなく内申に影響が出る。そんなリスクのあることをしたがるのが空也には理解できなかった。それになにより、物覚えが悪くなりそうだ。

 それにしても、涼佳はなぜあのような行動を取ったのだろう。まだ知り合ってから2日しか経っていないので、彼女にとって当然の行動なのかすらまだ判断することができない。

 涼佳と松川が勝負を始める前、唯は松川に暴言を吐かれていたと聞いている。正義感のある女の子なのかもしれない。

 しかし相手が卓球勝負を受けてくれるとも限らないし、もし勝負に負けてしまったら涼佳はひどい目に遭っていたかもしれない。あまりにも短絡的すぎる行動だ。

「……ん?」

 後ろから聞こえてきた坂道を下る自転車の音で思考を中断し、空也は後ろを振り返る。

 目に入ったのは、自転車に乗った涼佳だった。

「須藤くん!」

 涼佳は空也に向かって近づいてくる。ブレーキを掛けたのだろう、耳障りな音が聞こえ、

「おっとと……」

 空也のすぐ横で止まろうとしたのだろうが、制動距離を見誤ったようだ。2メートルほど先でつんのめるように止まった。

「……この坂を自転車乗って下るのは校則違反だ」

 涼佳に追いつきそれとなく注意すると、

「えっ、ホントに? 先生が近くにいたりしないよね?」

 涼佳は心配そうにキョロキョロと辺りを見渡し始めた。

「まあ、校則違反と言っても、先生が見張ってたりすることはないから焦る必要はない」

「そうなんだ。よかった……」

 その一言で安心したのだろう、涼佳は手を胸に当て、ホッと小さくため息をつく。

 休み時間の間、涼佳は卓球を選択していた女子生徒たちから「来栖さん堂々としててカッコよかったよ」と何度も言われていたし、割とクラスの中では見た目と相まって『大人びたクールキャラ』のイメージがつきつつある。

 しかし丘省堂でお菓子が買えず落ち込んでいたときや、今のようにうっかり校則違反をしてしまいオロオロしているところを見ると、意外と感情豊かな女の子なのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、いつの間にか涼佳を注視してしまっていたことに気づき、慌てて視線を外す。

「ま、まあ、昔生徒が派手に転んで何針も縫ったらしいから、内申的にも安全面でも守った方が無難であろう」

「何針も……」

 微妙に言葉遣いがおかしくなってしまったが、涼佳はそこには触れることなく『何針も縫った』ことを想像したのだろう。表情を引きつらせる。

「そっ、それは気をつけないとね!」

 しかしすぐに動揺を誤魔化すような笑みを浮かべた。

「それより、何か用か?」

 知らなかったとはいえ、校則違反をしてまで追いかけてきたのだ。きっと何かあるのだろう。しかし涼佳の答えは空也の予想外のものだった。

「うん、この辺を案内して欲しいなって思って」

 涼佳は上空を泳ぐ雲のような、真っ白な歯を見せて笑った。

「……は?」

 引っ越してきた町に興味を持つのはいいとして、涼佳のような美少女がなぜ自分に頼むのだろう。つい都合のいい理由を考えてしまい、

「なっ、なんで俺に頼むんだ。他に頼める奴くらいいくらでもいるだろ」

 そっぽを向いた状態で涼佳に尋ねる。 

「うーん、クラスで部活をやってないの須藤くんだけだし、田舎はお隣さん同士仲良くやるものでしょ? 仲良くやろうよ」

「なっ……」

 思わず振り向くと、陽の光を浴びて輝く黒髪を風で揺らし、目を細めて笑う涼佳がいた。

 その笑顔は実年齢よりも大人びていて、瞬きをした次の瞬間には跡形もなく消えていそうな儚さがあり、羽毛のように柔らかそうな長いまつ毛で彩られた、その笑みを構成している目に思わず釘付けになってしまう。

「どうしたの?」

 顔を注視していたからだろう。涼佳はきょとんとした顔で首をわずかに横に傾ける。

「なっ、何かないか考えてたんだよ。……だがあいにく何もない」

 ごまかしついでにあてもなく遠くに視線を向けてみるが、山や古びた住宅、シャッターの下りた個人商店跡くらいしかなく、何もないというより、寂しい光景しかない。

「本当は何もないってことはないんじゃない? 山の上とか眺めが良さそうだし、そういうのとかないの?」

「そんな都合がいいもの観光地じゃあるま…………あった」

 そう、山だ。完全に忘れてしまっていたが、一箇所だけ、そんな都合のいい場所があった。


「わぁ……。きれい」

 涼佳は目を輝かせながら、目の前に広がる景色を見下ろしていた。

 空也と涼佳が今いるのは山頂にある城跡だ。そこは公園として整備されているものの、立てられている看板は黒く汚れており、草刈りも十分とは言えない。

 落下防止のための木の模様の塗装がされたコンクリート製の手すりも、所々色が落ちてしまっていて、この町の財政状況を物語っているようだ。

 だがそこはかつて城があっただけあって、空也が住む町を一望することができた。

 そこから見える景色は横切るように一級河川の太い川が流れていて、そしてそのすぐ横に建ち並ぶ家々は赤茶色の瓦屋根が多いおかげか、その地帯は全体的に茶色に見える。

 そしてその町を取り囲むように山々が連なっていて、白みがかかるほど遠くに視線を移動させても山は続いており、無限に山が続いているのではないかと思わせてしまうほどだ。

 夏ということもあり、山は眺めているだけで視力が良くなりそうな青々とした色をしている。

 空也は風で黒髪を揺らしながら景色を眺めている涼佳の横に立つと、

「この程度で感動してもらっては困る。あれを見ろ」

 川沿いに並び立っている樹木を指差した。それは何キロも続いており、100本は間違いなくあるだろう。

「あれって、木のこと?」

「そうだ」

「何の木なの?」

 その質問をされるのを待っていた空也はニヤリと笑った。

「あれは全部桜だ。春になるとあれらすべてが花をつける。その綺麗さは県外からも沢山の人が訪れるほどだ」

 別に地元愛があるわけでもないのに、つい自慢しているような物言いになってしまう。

「あれが全部そうなの? きっと綺麗なんだろうなあ……」

「まあ、来年の春になったらここに来ればいい。それまでこの田舎の不便さに耐えることができればの話だがな」

 腰に両手を当て、すぐに倒されてしまいそうな悪役のような笑い声を上げる。

「……なんだかんだ言っても須藤くんはこの町が好きなんだね」

 涼佳は町を見下ろしながら微笑んだ。その声はどこか寂しそうに聞こえる。

「なっ……! フ、フン! こんな何もないド田舎なんて好きでもなんでもないわ」

 確かにこの町は好きではない。だが、嫌いにもなれない。自分で田舎っぷりを自虐するのは許せても馬鹿にされると悲しくなってくるし、数少ない自慢ができる場所はこれでもかというほど自慢したくなるし、いいところだねと言ってもらえるとほんのり胸の奥が暖かくなる。

「何もなくないよ。私はここから見える眺め好きだな」

「っ……そっ、そろそろ帰るぞ!」

 そう言った涼佳の横顔についまた見とれそうになり、離れたところに停めてある自転車に向かおうとするが、涼佳は動こうとしない。

「聞こえないのか。帰るぞ」

 自転車にまたがり、風景を眺め続けている涼佳をもう一度呼ぶ。

「せっかく来たし、もうちょっとだけ見させてよ」

 よほどここが気に入ったようだ。手すりに手を置いたままその場を動こうとしない。

「仕方ねえな……あ」

 次の瞬間、空也は涼佳の脚に釘付けになってしまっていた。

 スカートから伸びる黒タイツを履いた脚ってなぜこんなにも美しいのだろうか。涼佳の脚を見ていると、改めて考えてしまう。

 答えはすでに出ている。黒という収縮色が脚を細く見せる、黒という色が脚のラインを際立たさせる。脚が締め付けられることで輪郭が強調される。その辺りだろう。

 だがそんな答えが出ていつつも、「なぜいいのだろう」と感情の高ぶりの代わりに問いかけたくなってしまうのだ。

 やはり眺めているだけではダメだ。もっと近くで見たい。触れたい。膝枕をしてもらいたい。それらがもし叶ったらどうなってしまうのだろう。そんなことを考えずにはいられなかった。


 翌朝。その日も涼佳と一緒に登校した空也は下駄箱にいた。

 昨日の士郎の話を聞く限りでは、自分程度では涼佳と一緒に登校したところで噂になりようがなさそうだ。それがなんだか癪で、もうむしろ噂になってしまえばいいという思いから、今日はもう一緒に教室に入ることにしたのだ。

 涼佳が自分の靴入れから上履きを取り出そうとすると、白い封筒が滑り落ちた。

「ん? なんだろう?」

 封筒を拾い上げた涼佳は、手を捻り表と裏を確認したが、何も書かれていない。

 中に入っていた白い紙を取り出し、そこに書かれている文字を読み始めると、涼佳の表情がみるみるうちに暗くなり始めた。

「どうした?」

 涼佳のただならぬ様子に近寄ろうとすると、

「な、何でもないよ。あっ……」

 すかさず手にしていた紙を体の後ろに隠そうとしたものの、紙は涼佳の指を離れ宙を舞ったあと空也の足元に落ちた。

「見ないで!」

 とっさに涼佳は静止したものの、遅かった。紙を拾い上げると、そこには誰が書いたのか分からないようにするためだろう。直線的な文字で『転校生のくせに調子に乗るな』と書かれていた。線の色は濃く、少なくとも2Bはありそうだ。

「おい、これって」

「……ごめん。なんだか急に体調が悪くなってきたみたい。今日はお休みするね」

「えっ?」

 涼佳は靴入れの戸を開け放したまま、登校してくる生徒たちの流れに逆らうように外へ飛び出していった。ちょうど登校してきた生徒の何人かが振り返り、涼佳を視線で追う。

 追うべきだろうか。そう思ったものの、しばらく外を見ていただけで結局空也はそのまま教室へ向かった。

 教室に入り席に着くと、今日は朝練に行かなかったのだろう。すでに士郎が席に着いていた。

「よう」

「おう」

 いつものように短く挨拶を返し、空也が席に着くと今日も士郎が話しかけてきた。

「今日は来栖は一緒じゃないんだな」

「あっ、当たり前だ。俺とあいつは何かあるわけじゃないんだから」

 下駄箱でのこともあってきまり悪さを感じ、声が裏返ってしまう。

「……」

 士郎は無言で空也を見つめ始めた。

「……何だよ気持ち悪い」

「お前から迷いを感じる」

 突然スピリチュアルなこと言い出した士郎に思わず「は?」と声が漏れてしまうが、士郎の表情は至って真剣だ。

「お前の動き、表情、気、それらに自信を感じられない。本当にこれでいいのだろうか、自分の選択は間違いだったのではないか。そんなことを思っているんだろう?」

 お前は占い師か! と突っ込みたくなってしまったが、士郎の言っていることは事実だ。

 涼佳を追いかけた方がよかったのかもしれない。あんな嫌がらせをされたら誰だって悲しい気持ちになるに決まっている。

 仮に犯人を捕まえたり根本的解決ができなくとも、隣に誰かがいるだけで気持ちはだいぶ楽になる。ましてや涼佳はこの田舎に引越してきて間もないのだ。しかも1人で。

 しかし、涼佳とは知り合ってまだ数日しか経っていない上に、関係としては『ただの』クラスメイトでしかない。自分はよくても、相手は深入りされたくないと思っている可能性もある。その証拠に、「なんだか急に体調が悪くなってきたみたい。今日はお休みするね」と拒絶のサインを示したのだから。

 だが、それでいいのだろうか。確かに知り合って間もないが、田舎の定義を議論したり、田舎を案内したり、一緒に登校したり、決して知らない仲ではないのだ。いや、それだけしていればもう十分『友達』だろう。なのに自分が拒否されるのが怖くて見送ってしまったのだ。

「……なんだか急に熱が出てきた気がするから早退する」

「フッ。そうか。大事にな」

 机の横に引っ掛けたばかりのカバンを再び背負うと、空也は教室を飛び出した。


 空也は自転車に乗り敷地外に出ると、坂道を下った先に視線を向けた。当然だが流石に涼佳の姿どころか、HRがもうすぐ始まる時間ということもあり人影すらない。

 早く涼佳に追いつかなくてはならない。家に帰られてしまったら、呼び鈴を押しても涼佳が出てくれるか分からないし、代わりに真実が出てしまう可能性もある。

 今までは内申のために校則を守って自転車から下りていた。普段先生が見張っているわけではないが、ケガをした場合は校則を破ったことがバレてしまうし、万が一ということもある。

 しかしこの坂道を下りきっているということは、もう随分先まで行ってしまっているということだ。そんな状態で悠長に校則を守ってはいられない。

 迷った末坂道を自転車で下り始めると、ペダルを漕ぐ必要がないどころか、恐怖を感じてブレーキをかけたくなるほどにまで加速していく。

 確かにこの坂道を自転車で下るのを校則違反にするのは正しいな、と思いつつこまめにブレーキをかけながら坂道を下り終えると、ギアを一番上に切り替え、全速力で涼佳を追う。涼佳が違うルートを通ったり、道草をする可能性は考えない。

 汗だくになりながら自転車を走らせていると、前方に自転車に乗った制服姿の少女が見えてきた。背中にまでかかる長い黒髪。間違いなく涼佳だ。

「来栖!」

 息が上がっていて思ったより声が出なかったが、できる限りの声で涼佳の名を呼ぶ。

「えっ……?」

 一瞬後ろを振り向いた涼佳は目を丸くすると、ブレーキをかけて止まった。

「や、やっと追いついた……」

 涼佳と並ぶように自転車を止める。

「どうしたの? もうHR始まってるよね?」

 涼佳の問いに即座に答えようとしたものの、声が出ない。一度深呼吸をして息を整えると、

「な……何を言っている……流石に……あんな状態で1人で帰せるわけあるまい」

 肩で息をしながらなんとか日本語として認識できる声で答えた。

「でも……」

 涼佳の顔が曇る。空也が追いかけてきたことに罪悪感を抱いているような、そんな表情だ。

「いや、ちょうど俺もあのあとすぐに体調が悪くなってきてな。来栖を心配になってサボったわけでは決してないぞ。それに……」

 また一度大きく息を吸い再び呼吸を整えると、

「お隣さん同士仲良くやるものなんだろ?」

 わざと意地の悪い笑みを浮かべ、涼佳が以前言っていたことをそのまま口に出す。

 涼佳は一瞬目を丸くしたものの、

「……じゃあ、しょうがないかな。それじゃ、一緒に早退しよっか」

 観念したようにため息をつくと微笑を浮かべた。


 2人は昨日と同じ山の上にある城跡に向かった。ここならば誰も来ない上に、東屋があるので日光を避けつつ休むこともできる。

 これまた昨日と同じように町を見下ろしていると、唐突に涼佳が寂しそうにつぶやいた。

「……人間関係って難しいね」

「まあ、そうだな」

 空也は小さく頷く。

 人間一人ひとり、考え方や常識が全く違う。だから誤解されたり、相手の認識と自分の認識が違うことで関係が壊れたり、そんなつもりはないのに嫉妬されたりする。

「田舎に引っ越すのはちょっと楽しみだったんだけど、人間関係は不安だったんだよね。田舎の学校って子供の頃からのコミュニティがそのまま続いているでしょ?」

「……確かにな」

 今のクラスの顔ぶれも、6割くらいが小学生の頃からの同級生だ。残りの2割が中学生のからの同級生で、高校生になって初めて知り合ったのは残りの1割だけだ。

 近所には丘高以外の高校はない。隣の市の高校に通おうと思ってもバスや電車といった公共交通機関も本数が少なく、通うのが大変なため結局丘高にしてしまった生徒も少なくない。

「だから上手く溶け込めるように、東京の人と田舎の人の違いを調べたり、ちょっと無理して社交的に振る舞ってみたり。……それであんな手紙を入れられたら、やっぱりなんだか悲しくなっちゃうよね」

 涼佳は弱々しい笑みを浮かべ、それなりにショックを受けていることが見て取れた。

「……やっぱり私はよそ者なのかな」

「あんなもの気にするな。直接文句も言えないような奴のことなど、気にするに値しない」

「うん……」

 知り合って初めて弱音を吐く涼佳を励ましながら、空也は改めて地元のことを考えていた。

 空也の近所には、もう何年も引きこもりになってしまっている男性がいる。空也とその男性には接点はないが、人づてに話が広まり、今では近所のほとんどの人が『あそこの家の息子は引きこもり』だという事実を知っている。

 他にも、以前空也の父親が農作業のために長い休みを取っていたら、いつの間にか近所では空也の父親は会社をクビになったという話になってしまっていたこともあった。

 都会の人間はそうではないとは言わないが、やはり自分の地元は田舎特有の陰湿さがあるのではないか。そんなことを思うと、この地元が嫌になってくる。

 それでもやはり、自分の生まれ育ったこの町を完全に嫌いになることはできない。だから涼佳がいつまでいるのかは分からないにしても、嫌いになった状態で帰って欲しくはなかった。

「な、なあ」

 一度唾を飲み込み、意思を固めると横にいる涼佳に視線を向ける。

「どうしたの?」

「……俺に来栖がクラスに溶け込める手伝いをさせてくれ」

 涼佳に見つめられ、決意が吹き飛びそうになってしまったものの、なんとか言葉を絞り出す。

「それは……」

 涼佳は空也から視線を外し、下に広がる町の景色に視線を向ける。

「ありがたいけど、そこまでしてもらっていいのかな? よく考えたら私須藤くんには色々お世話になってるのに、まだ何もお返しできてないし」

「別に見返りが欲しくてやるわけじゃない。俺が勝手にやりたいと思っただけだ」

「だけど……」

 涼佳は決して嫌というわけではなさそうだが、申し訳なさそうな表情を浮かべる。

 ここでおとなしく引き下がるのは簡単だ。だが、本当にそれでいいのだろうか。何か、涼佳に納得してもらえるような提案が……。

 脳をフル回転させながら視線をさまよわせているうちに、いつの間にか涼佳の脚に視線がたどりついていた。

 黒タイツは太陽の光を浴びてはっきりと輪郭を視認することができ、太ももから膝、そしてふくらはぎから踵へのカーブで出来上がるS字曲線は、その緩やかさとは裏腹に空也の神経の高ぶりを一気に上昇させていく。

「……脚の写真を撮らせてもらう……とかいいよなあ」

 そして気がつけば口から欲望が漏れ出てしまっていた。

「……いいよ」

「まっ、待て! さっきのは何というか冗談というか、心の声が漏れてしまったというか、その……ハッ、ハハ! …………え? は? はああああ!?」

 いざ口に出してしまうと、自分でもドン引きするほどの気持ち悪さだった。慌てて取り消そうとしたところで涼佳が承諾したことに気づき、素っ頓狂な声を上げてしまう。

「ほっ、ほんとに、いいのか?」

「うん」

 改めて確認すると、涼佳は恥ずかしそうに小さく頷き、

「……でも、絶対に誰かに見せたりとかしないでよね?」

 俯いたまま、白い頬をほんのり赤く染めた。


 その日の午後、結局空也と涼佳は午後から登校することにした。

 一通り聞きたいことは聞けたのか、涼佳の周りに集まる生徒も徐々に減っていき、以前からすでに出来ていたグループでそれぞれ盛り上がるようになっていた。

「……来栖のところに行かないか?」

 士郎と話していた空也は、一人教科書を読む涼佳を見ながら立ち上がった。

「……ほう」

 士郎は一瞬目を見開くと、ニヤリと笑みを浮かべる。

「一体どういう風の吹き回しなんだ?」

「て、転校生がクラスに溶け込めるように取り計らうのは当然だろ?」

「フッ。まあ、そうだな」

 士郎はそれ以上何かを言うことはなく、涼佳の元へ向かう空也の後を追って歩く。

「く、来栖」

 名前を呼ぶと涼佳が顔を上げる。

 教室で話しかけるのは、2人で話すときよりも何倍も恥ずかしかった。しかし約束をしたのだ。周りから意外そうな視線を向けられているのを感じつつも話を続ける。

「……こいつ分かるよな? 士郎」

「うん。もちろん。菊池士郎くんだよね」

 涼佳は教科書を机の上に置き、士郎に向かって微笑む。

「そうだ。前々から来栖とは話してみたかったんだが、生憎人混みが嫌いでな」

 士郎は空いていた涼佳の前の席に腰を下ろす。

 美男子の士郎、美少女の涼佳が向かい合っているとそれだけで絵になった。周りからも「あの2人お似合いだよね」というような会話があちこちから聞こえてくる。

 空也も同意見だった。しかし、そんな2人を見ていると不思議と胸が痛んだ。

「あっ、そうなんだね。そういえば菊池くんって須藤くんと仲がいいの? 昨日も今日も2人で話してたし」

「そうだな。コイツは俺の親友だ」

 そう答えると士郎は涼しい顔をしたまま空也と肩を組んだ。

「ちょっ、おい!」

 慌てて士郎を振りほどこうとしたものの、士郎の力は強く、まるで石像に肩を掴まれているかのようにびくともしない。

 中性的な顔つきの士郎だが、触れあっている部分から伝わってくる感触は岩のように固く、こいつもやっぱり男なんだな、とまるでラブコメのヒロインのようなことを考えてしまう。

 それはともかく、士郎は普段こんなことをするキャラではない。故意にこのようなキャラを演じているような、そんな感覚があった。そしてそんなことをする理由はやはり……。

「どうしたのー? 男同士でイチャついちゃってー」

 思考を中断し、声が聞こえた方向に視線を向けると、そこには唯が立っていた。

「私も混ぜてよー。女の子がもうひとりいた方がバランスがいいと思うんだよねー」

 空也の答えを聞くことなく、唯は空也の横に移動する。

「日野さ……じゃなくて唯、ちゃん」

「覚えてくれてたんだー」

 唯は目を細めて笑い、両手を胸の前で合わせた。

「それは、まあ、いろいろあったしね」

 涼佳は唯に向かって目配せをする。

「うんうん。あのときの涼佳ちゃんはかっこよかったよねー」

「……何の話だ?」

 何のことか分からず士郎が話に割り込むと、

「それは女の子同士の秘密だよねー?」

「えっ? ま、まあそうかな?」

「ちゃんと2人で話を合わせてからにしろ」

 明らかに2人の認識が合っておらず、思わず唯にツッコミを入れると、

「唯ちゃんと須藤くんっていいコンビしてるね」

 そのやり取りが面白かったのか、涼佳は口に手を当てて笑い始めた。

「なんたって幼なじみだもんねー」と妙に誇らしそうに唯が胸を張る。

「へえー、そうなんだ」

「うんうん。子供の頃はくーくんとよくかけっこして遊んでたなー。私が必ず勝っちゃうから、何回も『もう一回!』って言ってくるんだけど、何度やっても私が勝っちゃうから最後はすねて帰っちゃうのがかわいくて」

「えっ、かわいい~」

「よっ、余計なことを教えるな!」

 涼佳に教える必要のないことをベラベラと話し始めた唯を慌てて静止しようとしたものの、

「日野、もう少し詳しく」

 士郎が真顔で悪ノリをし始めた結果、唯は空也の恥ずかしい思い出や、空也自身も忘れてしまっていた昔の話を先生が入ってくるまで話し続けた。

 昔の自分の話をされるのは恥ずかしく、短い時間で何度「やめろ」と言ったか思い出せないほどだったが、おかげで涼佳は士郎と唯と打ち解け始めていた。

 そんな涼佳を見ていると、まあいいだろう。と前向きに思うのだった。


 掃除を終えてHR前。再び4人は集まっていた。

「……そういえばみんなって放課後はどこに行くの?」

 涼佳が不意に発した問いに3人は、

「どこもないな」

「どこもないよねー」

「こんな田舎にそんな気の利いた場所があるはずないだろ」

 揃って答えは「ない」だった。

「あー、でもそういえば最近国道沿いにカフェができたみたいだよー。確かカフェなんだけど、ラーメンと唐揚げもメニューにあるんだってー」

 今ちょうど思い出した様子の唯が人差し指を立てながら言う。

「いくらなんでも欲張りすぎだろ……」

 当然だが田舎は人が少ない。よって1つの店で3種類のメニューを提供するのは、集客を考えると理にかなっている。とはいえ、カフェにラーメンと唐揚げというよくばりセットな組み合わせにはツッコミを入れざるを得ない。

「いいなあ……行こうよ!」

 だが、それを聞いた涼佳は、遊園地を前にした子供のように目を輝かせていた。

「えっ……」

「みんなで行こうよ! 唐揚げもラーメンもコーヒーもあるなんて楽しそう!」

 涼佳は唯が困惑するほどの勢いで唯に詰め寄る。

 唯が困惑するのも無理はなかった。涼佳の雰囲気的にはおしゃれなカフェで読書を楽しんでいる方が似合っていて、唐揚げやラーメンに目を輝かせているのはそれはそれで悪くないが、なんだか違う気がするのだ。

「うーん、私もそうしたいんだけどねー……」

 そんな涼佳に対して、唯は煮え切らない態度で苦笑を浮かべた。


 放課後。空也と涼佳は唯が言っていた、『ラーメンと唐揚げもメニューもあるカフェ』の至福珈琲の前にいた。

 士郎と唯は部活で行くことが出来ず、結局2人で来ることになってしまったのだ。

 また来栖と2人か……。空也はふと心の中で発した声に、

「いやちょっと待て!」

 声に出してツッコミを入れていた。

「どうしたの?」

 首を傾げて尋ねてきた涼佳に、

「あっ、いや、ラーメンに唐揚げにコーヒーってほんとに欲張り過ぎだと思ってな! ガハハハ!」

 ごまかし笑いをしながら店頭ポップを指差した。

 プレハブ小屋のような横長の直方体の店の壁には、店名、ラーメン、唐揚げ、そしてタピオカドリンクが書かれた布製の店頭ポップが掲げられている。

 入り口や窓枠には黒が使われており、とりわけオシャレというわけではないが、かといって古臭いデザインでもない、かろうじて飲食店であることが分かる外観をしている。

「本当だね。楽しみだな~」

 涼佳は特に不審に思う様子もなく、面白そうなものを見つけた子供の足取りのように、ポップの前に歩み寄っていく。

 そんな涼佳の後ろ姿を見ながら、小さくため息をついた。

 まだ知り合ってから大して経ってないのにも関わらず、気がつけば「また」と思ってしまうほど涼佳のような美少女と行動を共にしているということを再認識すると、途端に目の前の光景から現実感が失われていく。

 だが、それはそれとして、空也はなんだかんだで現状を楽しんでいた。こんな美少女と一緒に登校したり、2人でカフェに行ったりなんて、そうそう経験できることではない。そう、2人で……。

「これって、デートじゃないか?」

 再び思考が口から漏れ出てしまう。

「何?」

「な、いや、外は暑いしもう入ろうと言ったんだ……い、行くぞ!」

 涼佳に顔を見られないように駆け足で店内に入ると、思いの外内装はまともだった。白を基調としたデザインに大きな窓をしているおかげで店内は明るく、柱の配置が上手いのか開放感がある。

 空也と涼佳が席に着いてしばらくすると、スタッフが注文を取りにやってきた。

「醤油ラーメン大盛りと、唐揚げ定食ご飯大盛りで唐揚げは倍量、アイスコーヒーセットはこのフルーツサンドをお願いします!」

「……アイスコーヒーをお願いします」

 当然のごとく本当に食べ切れるのか聞いてきたスタッフに、涼佳は「大丈夫です!」と元気よく即答したのだった。


 10分後。

 涼佳の前には醤油ラーメン(大盛り)、唐揚げ定食(ご飯大盛り+唐揚げ倍量)、アイスコーヒーとフルーツサンドが並んでいた。そしてそれぞれの香りが混ざり合い、サービスエリアを彷彿とさせる香りが辺りを漂う。

 涼佳は「いただきます」と手を合わせるやいなや、空也が手にしたグラスを持ったまま固まってしまうほどの勢いで食べ始めた。

 呆然としている空也をよそに、涼佳はラーメンと唐揚げを交互に平らげていく。

「……それで夕飯も食べるんだよな?」

「うん」

 そう答えると涼佳は再びラーメンと唐揚げを交互に口にかっこんでいく。

 食事中の涼佳は本当にいい顔をする。普段のクールな涼佳から一転、行儀が悪いわけでもないのにどこか子供っぽい印象があり、そのギャップが魅力を際立たせるのかもしれない。

 とてもデートという雰囲気ではないが、そんな涼佳を見ていると、来てよかった。空也はそう思うのだった。


「はぁ……おいしかった」

 ラーメン、唐揚げ、フルーツサンド、それらをすでに食べ終え、涼佳は満足そうにコーヒーを飲んでいた。

「……よくそんなに食べられるな」

 アイスコーヒーしか飲んでいないのに、何故か空也は胸焼けを起こしていた。

 それにしても、いくら運動部だったとはいえ、脅威の食欲だ。そこで1つ疑問が生じる。

「……そういえば、東京では運動部入ってたって言ってたけど、こっちではやらないのか?」

「丘高にはないんだよね」

 涼佳は一口コーヒーを飲むと、コースターの上にグラスを置く。

「……未練とかないのか」

 確かに丘高は部活の数は少ない。とはいえ、あまりにもあっさりとした態度の涼佳に、尋ねずにはいられなかった。

「別にないよ」

 涼佳は笑っていたが、その表情からは「それ以上は聞いてこないで」という壁が感じられ、流石にそれ以上踏み込む気にはなれず、2人の間に沈黙が訪れる。

 まだ知り合ってから数日しか経っていないのだから、こんな態度を取られるのは仕方がない。そう自分に言い聞かせたものの、胸の奥に寂しさを感じていると、涼佳がカバンを持って立ち上がった。

「……私、先帰るね。お金ここに置いておくから」

「道、分かるのか?」

「うん、大丈夫」

 涼佳は机の上にお札と小銭を置くと、足早に店を出ていった。

 何か声をかけるべきだったのかもしれない。少なくとも、「道分かるのか」なんて間抜けなことしか言えなかったのは0点だ。

 しかし、涼佳が出ていった後にも何もふさわしい言葉が思いつかず、窓越しに自転車にまたがり去っていく涼佳を見送ることしかできなかった。


 その日の夜。浴室を出た涼佳は居間に向かっていた。

 入浴直後ということで、Tシャツにジャージといういうラフな格好だ。自慢の長い黒髪は乾かしてあるものの湿り気を帯びており、シャンプーの香りを漂わせている。

 居間に入ると、「お風呂上がりましたよ」と晩酌をしている真実に声をかけた。

 畳部屋の居間には昭和から使われていたと思われるちゃぶ台があり、真実はその前に足を崩して座っている。

「はぁ~い」

 缶ビールを手にした真実は涼佳に体を向けると、オーバーな身振り手振りで返事をした。

 涼佳は真実と向かい合って腰を下ろす。すでにおばあちゃんは寝てしまっており、かつては6人住んでいた家の居間に2人は広すぎて寂しさを感じる。

 真実は黒のノースリーブブラウスを着ており、真実にはこの上なく似合っている。自分も真実と同じ年になる頃には、このような服も似合う女性になれるだろうか。そんなことを思う。

 真実がこの家に帰ってきたのと、涼佳がこの家にやってきたのはほぼ同時期だが、示し合わせたのではなくたまたまだ。しかも2人は親戚と言っても顔を合わせたことは一度もなく、最初は上手くやっていけるか心配だった。

 しかし涼佳も真実も東京に住んでいたという共通点があり、真実も好意的に接してくれたことから、意外とすぐに打ち解けることができた。

 真実からは東京の会社をやめ、帰ってきたと聞かされている。今も特に仕事はしていないようだが、その割には突発的に車を買ってきたりと羽振りは良さそうだ。

 働いていた会社が高給な代わりに激務だったから貯金だけはあったのだろうか。だが、それにしても1年程度で、しかも新卒でそこまで貯められるとは思えない。一体どこでそんなに真実はお金を稼いでいたのだろう。何か良くないことで稼いでいたのだろうか。

 涼佳は一瞬真実に視線を送る。

「どうしたの〜?」

 視線に気づいたのだろう。上機嫌な声で真実が尋ねてきた。

「い、いえ、何でもないです。そのブラウスかわいいなーと思って」

「でしょー! ありがとう。涼ちゃん」

 真実は左手を頬に当て、表情をほころばせる。

 まだ知り合ってから数日しか経っていないが、食事中や晩酌の間、真実とは東京ではどの辺りに住んでいたとか、メイクや服の話など色々な話をした。年齢は少し離れているもの、波長が合うのか話しやすく、好感が持てる女性だ。

 だからこそ、真実が悪いことでお金を稼いでいるだなんてとても思えない。

 しかし、人間他人には言えないことが一つや二つはあるものだ。涼佳も真実に伏せていることがある。お互い様だ。真実の収入源についてはいったん考えることをやめることにした。

「そういえば、学校で友達はできたの~?」

 気持ちよく酔いが回ってきたのだろう、真実が間延びした声で尋ねてきた。

「あ、はい。須藤くんのおかげで須藤くんの友達の菊池くんと、幼なじみの唯ちゃんと仲良くなれました」

 それを聞いた真実は表情を曇らせたものの、

「よかった~。まあ涼ちゃん人付き合い上手だと思うから別に心配してなかったんだけどね」

 そんな顔を見せたのは一瞬で、缶に残っていたビールを一気に呷る。

 しまったと思った。真実と空也の間には過去に何かがあったということを忘れていた。

 この手のことにはあまり触れない方がいいものだ。しかし、真実の収入源について考えるのをやめたせいか、2人の間にあったことが何なのか涼佳は気になり始めていた……。


 翌日の放課後。空也が帰ろうとすると、涼佳が空也の席にやってきた。

「何だ?」

「この後城跡に行かない?」

 近くにそんなものはないが、この後ゲーセンにでも寄ってかない? というノリで話しかけてきた涼佳に、思わず空也は渋い顔をした。

 標高はあまり高くないとはいえ、山の上に向かうためには当然だが坂道を登らなければならず、この時期に何度もあそこに行くのはなかなか辛いものがあるからだ。

 断ろうとすると、「誰にも聞かれたくない話だから」と涼佳は神妙な表情を浮かべる。

 人があまり来ない場所で、しかも誰にも聞かれたくない話ときた。そんなはずはないと自分に言い聞かせたものの、どうしても心の奥で期待が芽生えてしまう。

「そっ、それならまあ、よかろう」

 空也は悩んだ末結論を出したかのように頷くと、涼佳とともに教室を後にした。


 唯はカバンを左肩にかけると、立ち上がった。

 今日はグラウンド整備のため部活はお休みだ。始業前に放課後や日によっては土曜日、そして長期休暇でも部活があるため、休みは貴重なのだ。

 せっかくだから空也と至福珈琲に行ってみよう。そう思い空也の席に向かおうとするとすでに空也の姿はなく、涼佳と教室を出ていこうとしているところだった。

 2人は今日も朝一緒だったはずだ。いくら家が隣同士とはいえ、流石に距離が近すぎる。2人は付き合っていると思っているクラスメイトも何人かいるほどだ。

 だが、幼い頃から空也を知る唯からしてみれば、それはありえないと断言できた。空也のような奥手が、涼佳のような美少女をたった数日ものにできるなんてありえない。

 2人の間には何があるのだろう。そう思いながら2人を見送っていると、

「まさか須藤くんが来栖さんとくっついちゃうなんて、なんか意外だよね」

 クラスメイトの勝部香が唯に話しかけてきた。勝部は太り気味で、お世辞にも可愛いとは言えない風貌の女子だ。士郎と空也の仲がいいこと快く思っていないようだが、空也自体は別に嫌いでもないようだ。

「えっ……ホ、ホントだよねー」

 誰かから話しかけられるとは思わず声が裏返ってしまったものの、心を落ち着けながら笑みを浮かべる。

「須藤くんって女の子に奥手そうなイメージあったけど、人は見かけによらないもんだね」

「うんうん。私も信じられないけど、幼なじみとして鼻が高いというか」

「……唯、ホントによかったの?」

「よかったも何も、私とくーくんはただの幼なじみだよー?」

 急に真剣な態度で尋ねてきた勝部に、唯は首を傾げて笑う。

「だけど須藤くんを入れた男子何人かで盛り上がってるところに、須藤くんと話すために1人突撃してたりしてたじゃない。私はちょっとできないかな」

「私にとってはくーくんはそれくらい気兼ねなく話せる相手だってことだよー。それによく言うでしょ。付き合いが長いと男として見られなくなるって」

「う〜ん、そういうものなのかな?」

 唯の言うことに納得したわけではないが、まあ分かる、と言った様子だ。

「そういうものなの」

 唯は勝部から視線を外すと出口に視線を向け、断言した。


「今日もいい眺めだね」

 山頂にたどり着くと、涼佳は手すりに歩み寄り、そこから見える景色を見渡し始めた。

 空はバケツツールを使って着色したかのような青一色の快晴で、山々は新緑で鮮やかな黄緑色に染まっている。

「……それで俺に用ってのは何だ」

 空也も涼佳から1メートル離れたところに立ち、本題を切り出すと、

「あ、うん」

 涼佳は歯切れ悪くモジモジし始めた。

「……えっと、そのね」

 下を向き、二の句を継ごうとしない涼佳に、空也は自分の都合の良すぎる予想が実は当たっていたのではないかと思い始めていた。

 知り合ってからまだ数日しか経ってはいないとはいえ、一緒に登校したり、2人で放課後にカフェに行ったりとそれなりの交流はある。短いかもしれないが、不十分ということは決してないだろう。

「あ、ああ」

 そう思うと急に心臓の鼓動が強く鼓動を刻み始め、うっかりおかしなことを言ってしまわないようにあえて短く返答する。

「須藤くんは……」

 須藤くん『は』と来た。ここは『は』ではなく、『の』の方が自然ではないかなと思ったものの、『は』でもまだ繋げられる言葉はいくらでもある。

 じれったいと思ったものの、急かしては逆効果だ。無言で涼佳の次の言葉を待つ。

「……昔真実さんと何かあったの?」

「……は?」

 想定外の言葉が飛んできたせいで間抜けな声が出てしまった。

「前に須藤くん真実さんから逃げちゃったでしょ? 真実さんは真実さんで、須藤くんの名前を出すと寂しそうな顔をするし」

「いや、別に、何もない」

 本当はある。自分が幼稚で子供だった故にしでかしてしまった、なかったことにしたい過去。

「ねえ」

 涼佳に呼ばれ視線を涼佳に向けると、

「正直に答えたら、私の脚の写真を撮ってもいいよ?」

 涼佳は空也を見たまま上体を前に傾け、脚を見せつけるように左膝を曲げた。その動きで背中にかかっていた後ろ髪がするりと前に落ちる。

 膝を曲げたことでタイツが引き伸ばされて脚に張り付き、太ももの透けが変化する。より足の輪郭が強調され、思わず生唾を飲み込んでしまう。

 涼佳の脚を写真に収めたいと思っていたのは本当だが、その対価が自分の恥ずかしい過去となると流石に躊躇する。

 だが、今の所以前涼佳と約束した『クラスに溶け込ませる代わりに足の写真を撮らせてもらう』はまだ士郎と唯と自分を交えて話せるようになっただけで、先は遠い。

 そう考えると、自分の恥ずかしい過去と引き換えなんて安いものではないだろうか。

 一度深呼吸して心を落ち着け、決意を固める。

「その、おね……ま、真実さんとは子供の頃よく遊んでもらっていたんだよ。それで、いつしか真実さんのことを好きになって告白したんだけど……振られてしまった」

「うん」

 話すと決めたとはいえ恥ずかしいことに変わりはなく、スムーズに言葉が出て来ない。だが涼佳は茶化すことなく、真剣な表情で相槌を打つ。

「その後は気まずくなって遊びに行くこともなくなって、ある日真実さんが東京に行くからってうちに来たんだけど、『勝手にどこでも行けばいいんだよ』って冷たく突っ返してしまった。今となってはなんてひどいことを言っちゃったんだと思ってる」

 いざ話し始めると、溢れるように言葉が口から出ていく。躊躇していたのが嘘のようだ。

「……須藤くんはどうしたいと思ってるの?」

「謝りたい。だけど、いざ『お姉ちゃん』の顔を見ると、どうしたらいいか分からなくなって逃げてしまうんだ」

「なるほどね……」

 涼佳は下唇に手を当てて何か考えているような仕草をすると、「じゃあ、私が仲直りできるように手を貸すよ」と自信ありげに微笑んだ。

「……いや、いいよ」

 それに対し空也は、涼佳とは対象的に元気のない声で返す。

 確かに真実と仲直りはしたい。しかし涼佳に手を借りるのは、ありがたいの前に申し訳ない気持ちが来てしまい、抵抗を感じてしまう。

 だがそこで涼佳は引き下がらなかった。

「真実さんと仲直りしたいんだよね? いつまで真実さんもこっちにいるか分からないし、また真実さんが東京に戻っていったら、もう会えないかもしれないんだよ。その時に須藤くんは後悔しないと言い切れる?」

「……!」

 涼佳の言うとおりだった。現在進行系で後悔しているというのに、このままでは更に後悔を重ねてしまう。それに、涼佳が手伝ってくれれば上手くいくかもしれない。

「……分かった。協力してくれ」

「オッケー。じゃあ、決まりだね」

 空也の言葉に涼佳は満足そうに頷くと、手すりから手を離し、

「さてと、じゃあ帰ろっか」

「あれ? その……写真は?」

 停めてある自転車に向かって歩き始めた涼佳を呼び止める。

 このタイミングで言うのは抵抗はあったが、涼佳が忘れていそうだったので尋ねると、

「真実さんと仲直りできたらね」

 流石に覚えていたようだ。振り返ってフッと微笑むと再び前を向き、自転車のところまで歩いていってしまった。その後ろ姿を見ながら、涼佳が約束を忘れていないことに安堵しつつも、同時に少し残念と思ってしまう。

 だが、ここまで来たらもう写真のことは抜きで仲直りするしかなさそうだ。空也は息を吐くと、涼佳の後を追った。


 日曜日の夕方。涼佳が空也を迎えにやってきた。

 迎えに来たと言っても家にやってきたのではなく、空也の家に続く私道で2人は合流した。空也が涼佳に家に迎えに来てもらうのは断固拒否したからだ。

 田舎は情報が伝わるのが早いので、おそらく両親も涼佳が隣のおばあちゃんの孫だと知っているだろう。しかし、それでももし両親に見られてしまった場合、あれこれと詮索される危険性がある。

「こんばんは」

「お、おう……こんばんは」

 涼佳に挨拶を返し、彼女の姿をひと目見た瞬間、自分の選択は間違っていなかったと別の意味で確信した。理由は思わず涼佳に見とれてしまったからだ。

 涼佳は白のレースのワンピースに、パンプスのようなサンダルという姿だった。そして例のごとく黒タイツ(推定80デニール)も忘れていない。

 涼佳の黒髪ロングストレートに白ワンピースという組み合わせは清楚さを際立たせ、スタイルの良さも相まって、まるでどこかのお嬢様がお忍びで避暑地に訪れているかのようだ。

 綺麗という感情を抱く前に、何か幻のようなものを見ているような感覚を空也は抱いていた。

「……どうしたの?」

 すっかり見とれてしまっていた空也は涼佳の声で我に返り、

「そっ、そんな格好するやつ本当にいるんだって思っただけだ。い、行くぞ!」

 大股で砂利を踏み鳴らしながら涼佳の横を通り抜け、隣のおばあちゃんの家に向かう。

 涼佳はスカートを翻してくるりと回ると、空也の隣を歩き始めた。

「都会だと浮いちゃいそうだけど、田舎だったら似合うかなと思って」

「逆だ逆。田舎でそんな格好する奴なんて見たことないわ」

 涼佳の服装を見てつい突っ込んでしまう。

 確かに涼佳の着こなしは完璧だが、こんな田舎ではコスプレにしか見えない。

 そもそも、涼佳の美貌ならば東京を歩いていても、いい意味で浮いてしまうのではないだろうか。それほどまでに涼佳は魅力的だった。

「でも、男の子ってこういう女の子が好きなんじゃないの?」

「はぁ!?︎」

 図星を突かれてしまい、反射的に大声が出てしまう。

「じゃあ嫌いなの?」

「きゅ、急に変なこと言うんじゃない」

 慌てて顔を背けるが、横から涼佳の笑い声が聞こえる。完全に遊ばれていると理解し、頬が熱くなるのを感じた。

 いたたまれなくなり、駆け足気味で隣にあるおばあちゃんの家に向う。

「ちょっと待ってよ」という涼佳の声を無視してそのまま家の前まで走る。

 空也の家と涼佳の家は50メートルも離れていないため、すぐに玄関の前までたどり着いてしまった。

 昔ながらの、縦格子の引き戸だ。昔は呼び鈴も押さずに家に上がっていたのに、ここ数年は遠巻きから眺めるだけで、近寄ることもほとんどなかった。

 あらかじめ涼佳から聞かされていた作戦はこうだ。涼佳、真実、おばあちゃん、空也の4人で食卓を囲む。そしてギクシャクさが軽減されたところで涼佳とおばあちゃんは席を外し、2人で話し合い仲直りをする。というものだ。

 作戦と言えるほど論理的なものではないかもしれないが、確かにテーブルを囲むのは心理的距離を縮めるには有効だし、1人でなんとかするよりは何倍もマシだ。

 とは言ったものの、やはり怖い。この家の中に真実がいると思うだけで胃が痛くなってきて、まだ暑いのにも関わらず冷や汗が滲んでくる。

 それでもなんとか家に上がろうと、引き戸に手をかけようとしては戻すを繰り返しているうちに、涼佳が追いついてきた。

「大丈夫……?」

 空也を気遣うような声で、涼佳が横顔を見ながら言う。

「だ、大丈夫に決まってるだろ」

 大丈夫ではないが、いつまでもこうしているわけにはいかない。手を無理やり動かし引き戸に手をかけようとしたところで、内側からから引き戸が開けられた。

「空也くん……?」

 そこには、目を丸くして空也を見る真実が立っていた。

「っ……」

 反射的に逃げ出したくなったものの、体に力を入れてその場に留まろうとする。涼佳に頼んだ手前、帰るわけにはいかない。だが無理をしているせいか心拍数が上がり始め、胃に締め付けられるような不快感が生じ始める。

「あ、真実さん、言ってた『友達』連れてきました」

 空也に気を使ってのことだろう。涼佳は、不自然さのある朗らかな笑みを真実に向ける。

「あ……ありがとう。涼佳ちゃん。友達って、空也くんのことだったんだね……」

 真実は苦笑を浮かべる。

 涼佳の物言いと真実の反応から察するに、誰かを連れてくる、としか伝えていなかったようだ。

「真実さんこそどうしたんですか? もう夕飯ですよ?」

「あ、うん。お酒もうないから買いに行こうかなと思って」

「でもおばあちゃんのチキンカツ冷めちゃいますよ? もし無くなったら私とおばあちゃんが買いに行って来ますから」

「うーん……確かにそうかも。そうするね」

 真実は少し悩んだ様子を見せたものの、結局は踵を返し家の中に戻った。

「ほら、須藤くん入ろう」

「あ、ああ……」

 涼佳に促され、空也は一度うなずくと玄関に足を踏み入れた。

 

 10分後。

 空也、おばあちゃん、真実、涼佳の4人は、居間で時計回りに食卓を囲んでいた。

 居間の中心にはちゃぶ台があり、部屋の端にはテレビが設置されている。壁の一面は障子戸になっていて、そこを開けると廊下がある。さらに外に面したサッシを開け放つと、縁側のような状態になる。昔ながらの日本家屋といった間取りだ。

 それにしても気まずい。ずっと避けていた真実と夕飯を食べているというだけでも気まずいのに、真実は別として、涼佳とおばあちゃんは気まずさなどまるで感じていなさそうというギャップが、気まずさをさらに加速させる。

 ちゃぶ台の上にはおばあちゃんが作った料理、そして畑で育てた野菜が、4人前にしては明らかに多すぎる量並んでいた……のだが、

「おばあちゃんのチキンカツおいしい~」

 涼佳がどんどん平らげていくため、すでに4人前ならば適正、くらいに減りつつある。

 食欲があまり湧いてこないが、空也もソースをつけて一口かじる。サクっというたまらない音が口の中で鳴り、鶏肉を使っているおかげで難なく噛み切れる柔らかさで、「うまっ」と思わず口に出してしまう。もっと食べたくなり、残りを一気に口の中に放り込む。

「よかったよかった。そういや、空也がうちにくるのも随分と久しぶりだねぇ」

 おばあちゃんは目を細めながら湯呑にお茶を入れる。

「昔はよく来てたんですか?」

 涼佳は取皿に載せたチキンカツを食べようとしていたが、箸を止めて尋ねる。

「そりゃもうしょっちゅう。ここの子供になる! なんて言って、真実が『またおいで。だから帰ろう?』となだめるやり取りを何度見たか」

「かわいい……」

「……そんなこともあったね~。懐かしい」

 缶ビールを片手に、独り言のように真実が遠い目でつぶやく。

 昔話をされるのは恥ずかしい。3人の話が耳に入らないようにするべく、目の前の料理を食べることに集中する。

 箸休めにおばあちゃんが自分で漬けたたくあんを一切れかじると、塩辛さと糠の香りが口の中に広がる。物心ついた頃からこの味が好きだった。スーパーで売ってるものとは違って色はくすんでいるものの、味はこちらが何倍も上だ。

 二切れ、三切れとたくあんをかじっていると、

「たくあんおいしいか?」

 おばあちゃんは空也の前に、麦茶の入ったグラスを置いた。

「……随分久しぶりに食べたけどうまい」

「そうかそうか」

 満足そうに目を細めて頷くおばあちゃんは、最近明らかに若返ったように見える。

 以前はくたびれたような、寂しそうな表情を浮かべていたことが多かったが、今は上機嫌に笑みを浮かべている。やはり孫が2人もいて嬉しいのだろう。

 そんなことを考えていると、

「須藤くんほら! 野菜おいしいよ」

 涼佳が野菜が載った取皿を空也に渡してきた。

「あ、ああ」

 皿の上にはきゅうりやトマトなど、夏に食べたくなる野菜が載っている。箸でつまみ、口に運ぶ。

 水分が多く、主張の強くない食べやすい味だ。すると今度は脂っこいものが食べたくなってくるのでチキンカツを食べ、そうすると今度はさっぱりしたものが食べたくなってくるので野菜を食べる。

 涼佳ほどではないとはいえ、空也も健康な男子高校生だ。みるみる食が進み、茶碗のご飯がなくなってしまった。

「ばあちゃん、ご飯もらうよ」

 茶碗を手に立ち上がろうとすると、

「くーくん、私がよそおうか? ビール取ってこようと思ってたし」

 真実が空也の表情を伺うように言う。

「あっ……」

 いつまでも真実を避けている訳にはいかない。今日は真実と和解するためにきたのだから。

 だが、喉が潰れてしまったかのように声が出ず、口をパクパクさせていると、空也の右腕を涼佳が突っついてきた。

 反射的に横を向くと、涼佳が微笑みながら小さく頷く。

「……うん、頼む」

 一度息を吸うと、不明瞭だがなんとか声を出すことが出来た。

「うん」

 立ち上がった真実は空也から茶碗を受け取ると、台所に向かって歩いていく。

 真実を見送った後、涼佳に視線を向けると再びチキンカツを食べ始めていたが、目が合うと目配せをしてきた。

 姿勢を変えたくなり上体を後ろに倒し、それを両手で支える姿勢に移行すると、思わずため息が出る。短いやり取りではあったが、久しぶりに真実と会話をすることができた。

 流石に前段階として一言も話すことなく、いきなり話し始めて仲直りが上手くいくはずがない。一言でも話すことが出来たのは涼佳のおかげだ。

 昔とまるで変わらない天井を見上げながら、達成感と、涼佳への感謝の念を抱いていた。


 食事が終わるとおばあちゃんが緑茶を入れてくれた。真実だけは相変わらず缶ビールを飲んでいる。また一缶飲み終え、真実は冷蔵庫に向かっていったものの、手ぶらで戻ってきた。

「おばあちゃん、もうビールないみたい」

「そんなに飲んだらおじいさんみたいなお腹になってしまうよ。今日はもうやめときなさい」

「大丈夫大丈夫。うちの家計の女性は太らないみたいだから。ほら、涼ちゃんもあんなに食べるのに全然太ってないでしょ?」

「ちょっと、真実さん」

 ちゃぶ台の前に座っている涼佳は、湯呑みを両手に持ったまま顔を赤らめる。指摘するまでもなく誰が見ても大食いだと思うのに、大食いだと言われるのは恥ずかしいようだ。

 真実は涼佳の元へ歩いていき、しゃがむと涼佳の二の腕を揉み始めた。

「涼ちゃんホントに細いね~。肌も真っ白でうらやましいな」

「え、ちょっと、何してるんですか?」

「ふふ、いいじゃないの。女同士なんだから~」

 恥ずかしそうに身をよじらせる涼佳に構うことなく、今度は真実は脚を揉み始めた。

「ど、そこ触ってるんですか!」

「やわらかくてあったか~い! だけど弾力もあるからこうしてると膝枕してもらいたくなっちゃうな~」

 足取りもしっかりしていたし、顔も言われてみなければ分からない程度にしか赤くなっていないが、どうやら見事に酔っ払ってしまっているようだ。

 そんなふうにじゃれ合う2人に、なんとも言えない居心地の悪さを感じつつも、空也は気がつけば2人から目を離すことができなくなっていた。

「あっ……くすぐった……やっ」

 真実は涼佳の脚を揉むだけではなく、さすったり突っついたりしている。

 手が黒タイツの上を滑るたびに、滑らかさが分かる摩擦音が聞こえ、指が太ももに沈み込んでいくのを見るだけで、ただ柔らかいだけでなく、弾力もあることが分かる。

 真実がいる方向にはなるべく視線が行かないようにしていたにも関わらず、今は視線をそらすことができなかった。

「涼ちゃんって前は陸上やってたんだよね。だからこんなに揉み応えのある脚になるのかな?」

「そっ、それはあるかもしれませんけど……あっ……」

 空也の目の前で、涼佳のふくらはぎと太もものあたりを往復するように、ゆっくりとしたペースで撫で回す真実。それに対して涼佳はされるがままになっている。

 そしてそんな2人をお茶菓子に、おばあちゃんは満足げに緑茶を飲んでいる。

 なんとも目に毒な光景だが、真実が「陸上」と言っていたことを聞き逃さなかった。確かに長距離選手はいくら食べても太らない体質になると聞いたことがある。涼佳の体つきにはその特徴が出ているということだ。

 それにしても、脚をマッサージされているときの声が、普段の涼佳の声とあまりにも違っていて、そのギャップのおかげで聞いてはいけないものを聞いているような気がしてならない。

「そういえば涼ちゃんっていつも脚を隠してるよね。寝間着も長ズボンだし」

 真実が発したその一言で、涼佳の雰囲気が変わった。どこか不自然な笑みを浮かべ、

「……それより真実さん、アイス食べたくないですか?」

「アイス? うーん、たしかにそうかな」

「おばあちゃん、アイス買いに行かない? ついでに真実さんのお酒も買ってこよ?」

 涼佳の態度には明らかな白々しさがあった。夏に食べるアイスはたしかにおいしいが、それにしたって脈略がなさすぎる。

「そうねえ。涼ちゃんがそういうなら」

「やった。おばあちゃんありがとう!」

 どっこいしょとおばあちゃんは立ち上がると居間を出ていき、涼佳はその後を追い、空也と真実が残された。

 何とも強引な流れだが、真実と2人になることが出来た。きっとこれが涼佳の作戦だったのだろう。

 しかし、ギクシャクさを軽減させてからという話はどこにいったのか。あの後結局真実とは話せていない。明らかに準備不足だ。

 だが、こんなふうに真実と2人で話せるような機会はそうそうない。今がその時なのだ。

 真実はグラスに入れた水を飲みながらテレビのリモコンを操作していたが、結局テレビを消してしまい、一気に部屋の中が静かになる。聞こえてくるのは虫の鳴き声だけだ。

 話しかけるなら今しかない。そう思ったものの、声が出ない。

「そこ、開けるね」

 空也が迷っているうちに真実は障子を開け廊下へ出ると、網戸を残してサッシを開けた。

 長い夏でもすでに日は沈んでいて、街灯もろくに無いため外には闇が広がっている。空を見上げると星空をはっきりと視認することができた。

 外からの空気が居間に流れ込んでくる。昼間よりは気温は低いものの、冷房の効いている室内の空気と比べると熱気のようだ。しかし今はその自然な空気が心地よく思えた。

「ずっと冷房の効いた部屋にいると、外の空気が気持ちよく感じるな〜」

 真実は廊下に腰を下ろし、外を眺め始めた。

 この行動の意図はなんだろう。やはり真実も2人でいることに気まずさを抱いているということだろうか。

 それはともかく、いつまでも真実の背中を見ている場合ではない。ぼやぼやしてると涼佳とおばあちゃんが帰ってきてしまう。涼佳が作ってくれたこの機会を逃すわけにはいかない。

 意を決し立ち上がると、真実から3人分距離を取って腰を下ろした。あとは何でもいいから話を振るだけだ。だが、いざ口にしようとするとその先が出てこない。

 そもそも真実に対して、どのようにアプローチすれば良いのか分からないのだ。今まで散々避けられていたのだから、急に仲良くしようとしても受け入れてくれないかもしれない。

 空也が何も言えずにいると、真実が先に口を開いた。

「……昔は夏になると家の前で花火をしたよね」

「…………そう……だな」

 話しかけるのは全く出来なかったのに、返事は何とかすることができた。

『話しかける』という能動的行動より、話しかけられてそれに答えるという受動的な行動の方が心理的ハードルは低い。真実のやさしさに甘えているようで不甲斐なさを覚える。

 このままではいけない。自分から話を振らなければ仲直りするなんてできっこない。何でもいい。とりあえず話すんだ。

「っ……その……」

 なんとかギリギリ声として認識できる声を絞り出す。

「なに?」

 真実が横を向き、優しい眼差しを向ける。

 とりあえず声を出すことはできた。しかし、その次に出す言葉がまるで思いつかない。

 過去にひどいことを言ってしまったのだから、直接ごめんと言えばいいのだろうか。それとも、その前に何でもいいから雑談を始めて、自然な流れで謝罪に持っていけばいいのだろうか。前者は突拍子がないし、後者はとてもできる気がしない。

「俺は……」

 黙っていても埒が明かない。喋りながら考えることにした。

「その、あなたが……す……好きだった」

「…………うん」

 それを聞いた真実は小さくうなずく。

「俺といるときの……その、あなたは、本心を隠さずに素の自分を出しているように見えて、楽しそうだったから……同じ気持ちだと思っていた。だから、告白して断られたときは訳がわからなかった」

 昔のように「お姉ちゃん」とは今更呼べないし、「真実さん」も今の2人の距離感からして違う気がするが、消去法で選んだ「あなた」もなんだかナルシスティックな気がしてしまう。

 しかしもう今さらどうしようもないので、このまま呼び続けることにした。

 それよりも、語彙力がなくて自分の気持ちを上手く表現できないのがもどかしい。

「……ごめんね。私は一人っ子だったから、『空也くん』のことは可愛い弟みたいに思ってたんだよね。もちろん、空也くんのことは好きだったけど、それは恋愛感情ではなかった」

 真実は外に視線を向けながら言う。その視線の先は外にある何かではなく、きっと空也との思い出なのだろう。

「弟、か……」

 なんだか悔しかった。きっと意味はなかっただろうが、お姉ちゃんなんて呼び方しなきゃよかったなとつい思ってしまう。

「でも、小さい頃からの付き合いだったから、あんまり深く考えることなく手をつないだり、膝枕してあげたりしたのは私も悪かったかな」

「そうだよ。7つも離れてれば俺のことは子供にしか見えなかったかもしれないけど、その行動にどういう意味があるかくらいは分かる」

「うん。ごめんね」

 そう答えた真実の声は寂しそうで、しまったと思った。

 今日は謝りに来たはずなのに、なぜ逆に真実に謝罪をさせてしまっているのだろう。

「……なんであなたが謝るんだよ」

 自分がそう誘導させたはずなのに、そんなことを言ってしまう。

「悪いのは私だから」

 違う。悪いのはガキだった自分だ。

「悪いのは俺だろ!? 自分で勝手に気まずくなって、別れの挨拶に来たあなたにひどいことを言ってしまった、この俺だ! なんであんな酷いことを言っちゃったんだろうってずっとずっと後悔してて、謝らなきゃってずっと思ってたのに、いざ『お姉ちゃん』が帰ってきたら気まずくてまともに口も利けなくて……」

 胸の内を吐露し続ける空也を真実は優しく抱きしめた。真実の体は柔らかく、そして懐かしい匂いがした。あれほど荒れ狂っていた感情が驚くほどに萎んでいく。

「私こそ、ごめんね。空也くんも男の子だって分かっていたのに、私の理想の弟像を空也くんに押し付けてしまって、そのせいで空也くんを苦しめてしまったよね。本当にごめんなさい」

 真実はより強く空也を抱きしめる。

 一方的に自分が悪い。空也はそう思っていた。しかし実際は真実も真実で罪悪感を抱いていたのだ。

「いや、それだと」

 事実はどうあれ、お互い相手に対して罪悪感を持っている。では、どうすればいいのだろう。

「昔みたいに……とはいかないだろうけど、また仲良くしてくれたらうれしいかな」

 真実は抱きしめたまま、ささやくように言う。

 もちろんそうしたい。しかしそれを明言するのは恥ずかしくて、

「その、俺は……もう高校生なんだからさ」

 当てつけるような物言いになってしまう。

 しかし真実もその発言は拒絶ではなく、承諾の意だと声色から分かってくれたようだ。

「そうだったね」

 真実は手をほどきゆっくり空也から離れると、空也の頭を愛しいものに触れるように、優しくなでた。

「ちょ、ちょっと!」

「あ、ごめんね。つい。もう『高校生』だもんね」

「そ、そうだよ」

 恥ずかしくて、真実から目をそらしてしまう。

「ふふ」

 真実は空也のすぐ隣に並んで座る。

「……それにしても、大人になったね。抱きしめたときにガッチリしててびっくりしちゃった」

「当然だ。もう17なんだから当たり前だろ」

「あ、照れてる。かわいいー」

 真実は空也の頭に手を伸ばしたものの、その手を引っ込めた。きっとまた頭を撫でようとしたのだろう。

「……また頭撫でようとしたな」

「ごめんごめん。ついね」

 相変わらず子供扱いされているようでしゃくだったが、昔はこうやってよく頭を撫でられていた。少しずつ、昔のような関係に戻れていると思うとそんなに悪い気分ではない。

「もう、子供じゃないんだからな」

「うん。そうだね」

 真実は素直にうなずいた。

「……空也くんが高校に入ってからのこととか聞かせてほしいな」

「特に面白いことは起きてないけどな」

 口ではそう言いつつも、話したいことはいっぱいある。

 涼佳とおばあちゃんが帰ってくるまで、2人は他愛もない話をした。真実がいなくなってから地元がどんな風に変わったか、いつの間にかおばあちゃんと涼佳が意気投合してた話、東京の暮らしはどんな感じかなどなど……。


 買い物から帰宅した涼佳が目にしたものは、縁側で何かを話している空也と真実だった。後ろ姿でも2人が打ち解けているのが分かる。どうやら上手くいったようだ。

「……よかった」

 それを見て、涼佳は安堵の微笑みを浮かべた。


 翌日。月曜日の朝。

 この日も空也は涼佳と一緒に登校していた。

「真実さんと仲直りできてよかったね」

「ああ、ありがとう」

 改めて感謝の気持ちを伝えると、

「まあ……正直のところ、これ上手くいくかな? って思ってたんだけどね。私の想定だと、もう少し須藤くんが真実さんと話せるようになってから二人っきりにしたかったんだけど、あそこしかもうチャンスがなさそうだったから」

 涼佳は空也から視線を外し、気まずそうな笑みを浮かべる。

 どうやら準備不足感があったのは気のせいではなかったようだが、涼佳を責めることはできない。何事もすんなり事が運ぶとは限らないし、最終的には涼佳のお膳立てで上手くいったのだから。

「そんなことだろうと思ってたよ。だけど、その……これで脚を撮らせてくれるんだよな?」

 ためらいがちに涼佳に尋ねる。

 昨晩は完全に忘れてしまっていたが、約束は果たした。このタイミングで切り出すのも気が引けるが、早めに言わなければどんどん言いづらくなってしまう。

「あ……そういえばそうだったね……」

 しかし涼佳の反応はなんだか煮え切らない。

「もしかして、やっぱり無理なのか?」

「そうじゃなくて、その、どこで撮ればいいのかなって」

「あ」

 そう言えばそうだった。撮ること自体しか考えてなくて、どこで撮るかを全く考えていなかったが、こういうときは案外すぐに思いついてしまうものだ。

「そうだな……」


 放課後。空也と涼佳は空き教室に来ていた。

 空き教室がある区画は、今も使われている教室から離れたところにあり、雨の日は吹奏楽部が使っていることもあるが、それ以外生徒が出入りすることはほとんどない。

 現に今も遠くから運動部の掛け声が聞こえては来るものの、室内は静まり返り、夏にも関わらず思いの外涼しい。

「へえ、こんなところあるんだ」

 所在無げに涼佳は教室を見渡した。掲示物は何もなく、椅子と机と古い教壇しかないため、全体的に赤茶色く見える。

「な、なあ……本当に撮っていいんだよな?」

 空也は教室の引き戸を閉めると、念を押すようにもう一度尋ねた。

「う、うん……」

 さっきまでは平然としていた涼佳だったが、両手を後ろで組み、恥ずかしそうに視線を落とすと、

「その、あくまで脚だけで……それ以外はダメだからね?」

 そんな反応をしている涼佳を見ていると、誰もいない教室で2人という舞台効果も相まって、良くないことをしているような気になってくる。

「も、もちろんだ」

 なんだか恥ずかしくなってきた。早歩きで教室の前方に向かい、

「それじゃ、この机に脚を投げ出すように座ってくれないか」

 最前列一番左側の机を叩き、涼佳に指示を出す。

 涼佳が机の上に座ると、ポケットからスマートフォンを取り出し、下半身にレンズを向ける。

 画面上には涼佳の膝周辺が表示されており、それを見た瞬間、不思議な気分に襲われた。

 謎の世界に迷い込み、そこで出会った人にカメラを向けているような、そんな感覚だ。

「じゃ、じゃあ、撮るぞ」

 シャッターボタンを押すと、部屋が静かなせいか普段よりシャッター音が大きく聞こえた。

 何度か同じ構図で撮影し、スマートフォンから顔を上げると、スカートを握りしめ、はにかんだ笑みを浮かべる涼佳がいた。

「その、オッケーしといてなんだけど……恥ずかしいね」

 ツリ目で、シミ一つ無い雪のような肌のおかげでクールな印象を与える涼佳だが、今は頬をほんのり赤く染め、恥ずかしそうな笑みのおかげで年相応の少女に見えた。

 そんな涼佳を見て、改めて思う。

 かわいい。脚で頭がいっぱいになってしまっていたが、来栖涼佳という少女は否定する余地なしの美少女である。そんな美少女の脚だけ撮るってもったいなくないだろうか?

 しかし脚だけだという約束だし、頼んでみても拒否されるだけだろう。

 結局頼むこともできず、スマートフォンを手にしたまま固まっていると、

「私にも写真見せてよ」

 涼佳は机に座ったまま、空也に手を伸ばしてきた。

 どんなふうに撮れたか気になるのは当然で、被写体本人は確認する権利がある。

 いやらしい写真を撮ったわけでもないのに、後ろめたい気持ちを抱きながら涼佳にスマートフォンを渡した。

 涼佳はしばらく自分の脚の写真数枚を行ったり来たり、拡大縮小しながら見た後顔を上げ、「……私の脚ってこんなに綺麗だったんだね」と空也にとっては今更なこと言ったかと思うと、

「違うポーズでも撮ってみない?」

 先程まで恥ずかしそうにしていたのが嘘のようだ。

「いっ、いいのか?」

 もちろん大歓迎だ。他にも撮ってみたい構図はいくらでもある。

「いいよ。ちょっと面白そうだし」

「じゃ、じゃあ……」

 膝を大きく曲げてもらったり、足を組んでもらったり、ポーズだけでなく横や後ろから、手を添えてもらったりしながら、思いつくありとあらゆる構図から写真を撮りまくった。

 黒タイツというのは、脚に張り付き引き伸ばされていることもあり、脚を曲げたり組んだりするだけで、透け感が増えたり減ったりと大きく表情を変える。

 そしてその変化は脚のラインを強調したり、女性の脚が持つ丸みを際立たせ、色気を醸し出したりなど、ただの布とは思えない働きをするのだ。

 空也がポーズを指定すると、涼佳は「こうしたらどうかな?」と提案をしてくるので空也はそれに応える。それを繰り返しているうちに、気がつけば30分が経過していた。

「ふう……」

 テンションが上がっていると、それが収まった時にドッと疲れが出るものだが、なんだか心地よい疲労感だ。

「そろそろ終わりにするか」

 空也がポケットにスマートフォンをしまおうとすると、誰かが教室に入ってきた。慌てて隠れようとしたが、もちろん手遅れだ。

「あれー。2人ともこんなところで何してるのー?」

 入ってきたのは唯だった。部活中なのか練習着姿で、額には汗が滲んでいる。

「いや、その……」

 涼佳の足の写真を撮っていた、なんて正直に言えるはずがない。

 しかし人気のない空き教室で2人きりなんて、恣意的にどうにでも取れる状況だ。いつまでも黙っているのもいい選択肢とは言えない。どうするべきか。

「須藤くんに写真を撮ってもらってただけだよ」

 涼佳は机の上に座ったまま、こともなげに答えた。

 正直に言うやつがあるか!

 涼佳に思わずツッコミを入れそうになってしまったが、唯は特に驚かなかったようで、

「そうなんだー。てっきりイチャイチャしてると思ったよー」

 口元に手を当て、わざとらしくニヤニヤと笑う。

「そ、そんなことするわけ無いだろ! 大体お前部活中だろ?」

「ちょっと休憩中に校舎内ウロウロしてただけだよー。まあ、いいモデルが見つかってよかったね。じゃ、先生に見つからないように気をつけてね」

 唯は2人に軽く手を振ると教室から出ていった。

 危なかった。大きなため息をつき、心を落ち着ける。

 一難が去り心が落ち着いてくると、一つの疑問が脳裏をよぎった。

 どうして唯はここに来たのだろう?

 唯は陸上部だ。教室内をウロウロしていると言っていたが、わざわざ空き教室しかないこの辺りに来る理由はない。一体何のために……。

 しかしそこで空也の思考は一旦中断させられることになった。廊下から誰かが咳をする音が聞こえたからだ。

 先程聞こえたのは、大人の男特有の音の大きい咳だった。教師の誰かが見回りに来たのかもしれない。

「か、隠れるぞ」

「う、うん」

 涼佳は机から降り、空也と一緒に教室内を見渡すが、こういうときに定番の掃除用具入れは撤去されてしまっている。

 しかしもう一箇所隠れる場所があった。黒板の前に置かれている教壇だ。

 空き教室に置かれている教壇は足元まで隠せるタイプで、サイズも大きいため体を寄せ合えばなんとか2人隠れることができそうだ。

 空也は自分ごと涼佳を押し込んだ。涼佳は体育座り、空也は立膝の姿勢だ。

 もし教壇の後ろまで回り込まれてしまったらバレてしまうが、今はここしかない。

 息を潜めていると、教室に誰かが足を踏み入れた音が聞こえた。

 体をうっかり動かしてしまわないよう細心の注意を払い、聴覚に意識を集中する。

 ふと、視線を横にズラした瞬間、空也は思わず声を出しそうになってしまった。至近距離に涼佳の顔があったからだ。

 ここまで涼佳の顔を近くで見たことは今まで一度もない。吐息が顔に当たるほどの距離で、宝石のように輝く目や、シルクのようなきめ細やかな肌、桃色の唇に目を奪われてしまう。

 そして涼佳から漂う甘い香り。視覚だけでなく嗅覚も刺激され、音で隠れているのがバレてしまうのではないかと思うほど、心臓は激しく鼓動を刻み始める。

 深呼吸をして心を落ち着けたかったが、この状況では少しでも音が出る行動は避けたい。

 不快さを誤魔化すためわずかに体を動かすと、膝の上に乗せていた手が滑り落ち、涼佳の脚の上に着地した。

 涼佳は一瞬体をビクっと動かしたものの、声を出すことは避けられたようだ。

 80という高デニールだからだろうか、ポリエステルと綿の半々のような手触りと、涼佳の体温が手に伝わってくる。

 もっと触りたい。こんな状況にも関わらず、欲望に負けてしまい、手を動かし始めた。

「きゃっ」

 突然の刺激に涼佳が声を出してしまい、慌てて手を止める。

 まずい。聞こえた足音からいって、教室の中央くらいまで入ってきている可能性が高い。

「誰かいるのか?」

『誰か』が空也たちに向かって呼びかける。声の主に空也は聞き覚えがあった。担任教師の真野だ。

 一歩、二歩と足音が聞こえる。このまま見つかってしまうのだろうか。

 そう思った瞬間、外から運動部の掛け声が聞こえ始めた。そういえば休憩中だったからだろうか、気がつけばしばらく外が静かだった。

「……外の音か」

 真野はそうつぶやくと、そのまま教室を出ていってしまった。

 徐々に真野の足音が遠くなり、聞こえなくなったのを確認すると、

「ああ~」

 ため息をつきながら空也は床に座り込み、涼佳も教壇から這い出ると立ち上がり、スカートを手で払った。

「危なかったね~」

 床に座ったままの空也に、涼佳が頭上から声をかける。

「その、すまん……」

「別にいいよ。それより、撮った写真を見せてよ」

 怒られるかと思ったが、それより写真が気になるようだ。

 スマートフォンを渡すと、再びピンチイン・アウトを繰り返し、一枚一枚をまるで鑑定士のように丹念に見ていく。

 そして最後まで見終えたのだろう、涼佳が顔を上げると、予想外のことを口にした。

「私の脚、もっと撮らない? できればもっといいカメラで」

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