60デニールは薄すぎる
アン・マルベルージュ
1.新たな出会い
7月初頭の夕方。
高校2年の須藤空也は、自宅に向かって自転車を漕いでいた。
夕方に差し掛かっても相変わらず日は高く、走り始めてからまだ10分しか経過していないにも関わらず、空也の背中には汗で制服のワイシャツが貼り付いている。
目にかかるほど伸びた前髪は汗で額に張り付いており、無意識のうちに手で横に払う。
暑さのせいで、ただでさえ三白眼のおかげで目つきが悪いというのに、更に悪くなってしまっていた。
空也が住む町は、中国地方の片田舎にある山に囲まれたところにある。高い建物は一切なく、街灯も少ないため夜になると町は天然のプラネタリウムになる。
町には横切るように川が流れており、川上を上にすると左側に沿って国道が作られている。
その国道脇を走っていた空也は横断歩道の前で止まると、額の汗を拭った。家に帰るためには反対側に渡る必要がある。
目の前の片側一車線の国道では車が途切れることなく走り抜けていくが、歩道に人影はほとんどない。子供の数は減っていく一方だし、大人は基本的に車を使うからだ。
川には氾濫を防ぐために河川敷が作られており、堤防の天端には桜の木が2kmに渡って植えられ、市や町はここを桜の名所として猛プッシュしている。
川のさらに外側には、赤瓦の古びた家々や個人商店が集まり小さな町を形成し、それらを囲うように山々がそびえている。何千回と見てきた風景だ。
自分が田舎に住んでいる、というのを嫌でも実感しなければならないこの風景が、空也はあまり好きではなかった。
それにしても今日は特に暑い。夏の風物詩である蝉の鳴き声が体感温度をさらに上げている。7月頭でこれでは8月は酷暑になりそうだ。
信号が青になると横断歩道を渡り、橋を渡って空也の家がある右側の道へ移る。3/4ほど橋を渡ったところで、視界の左端に人影が見えた。
川のすぐ横を誰かが歩いている。花見の時期ならいざしらず、1人で何をやっているのだろうと思い人影に視線を向けた瞬間、思わず空也はブレーキをかけていた。
そこにいたのは、10代後半と思しき少女だった。
風で流れるように揺れる黒髪は背中にかかるほど長く、清冽な川の流れのように風に揺られている。
フリルのついた薄いピンクのノースリーブのブラウスに、膝が見える長さの白い花柄のスカートという、男心をくすぐる服装だ。
もちろん服装に惹かれたというのもあるが、空也の視線が吸い寄せられてしまった原因は別にあった。
「80デニール……すばらしいな」
空也は研究者が研究対象を見るような目でつぶやく。
目の前の少女は、夏だと言うのに黒タイツを履いていた。
それだけではない。足の太さのバランス、脚が描く曲線が、空也の中ではこれ以上ないほどの理想形だった。
そう、空也は黒タイツを履いた脚をこよなく愛しているのだ。
ふともも外側の膝に向かう内側へのなだらかなカーブは、両手でそのラインをなぞりたくなってしまうし、膝から外側へ、そして再び内側に向かうS字曲線は、貞淑さと艶めかしさ、どちらも併せ持っていた。もしその比率がわずかでもどちらかに傾くだけで、評価点は大きく変わってしまうだろう。
音を立てないよう自転車から降り、手すりから体を乗り出す。
彼女との距離が縮まり、さらにはっきりと目視できるようになったことで、空也の興奮は高まっていった。
黒はもともと冠婚葬祭などでも使用される、上品な色だ。しかしその黒という色のおかげで脚の輪郭が強調され、艶めかしい印象を与えてしまう。黒タイツとは上品でありながら、艶めかしさという相反する属性を併せ持つ、奇跡の存在なのだ。
ただでさえ黒タイツはそのような魅力があるのに、彼女は理想的な脚をしているのだ。この時点ですでに完成形と言っても過言ではないのにも関わらず、彼女はそれだけでは終わらなかった。全体的に薄い色の衣服を身に着けていたため、黒タイツの黒さがより引き立てられていたのだ。
まさに『鬼に金棒』ならぬ、『謎の彼女に黒タイツ』といったところだろう。
一体彼女は何者なのだろうと最初は思ったものの、気がつけばそんな些細なことは頭の中から消えてしまい、ただひたすら彼女の脚に見とれていたが、そんな至福のひとときは長くは続かなかった。
「こんにちは」
想像より低めだが、上品そうな印象を与える声が空也の耳に入る。
彼女は明らかに空也を見ていた。遠目からでも分かる、形の整ったツリ目だ。
夢中になるあまり、見つかるという可能性をまるで考慮できていなかったため、「げっ」と間抜けな声が漏れてしまう。
慌てて自転車に飛び乗ると立ち漕ぎで一気に加速をつけ、後ろから「ちょっと待って!」という声が聞こえたような気がしたものの、振り返ること無くその場をあとにした。
空也が帰宅すると、玄関に見覚えのない靴があることに気がついた。
玄関を上がってすぐのところにあるリビングから母親の声が聞こえてくるので、母親の友達かなと思ったものの、それにしては若い女性が履いていそうな靴のデザインだ。
「……それにしても、キレイになったわね。東京っておしゃれな人ばっかりなんでしょ?」
母親の声色は、親しい人を相手にしているものだと分かる。
「そんなことないですよ〜。別にみんな普通ですよ」
空也は相手の声に聞き覚えがあった。
だが、なぜ今ここにいるのだろう。今は東京にいるはずなのに。
きっと声が似ているだけの別人だろう。そう思ったものの、もし本人だったらと思うと顔を合わせたくない相手と対面することになってしまう。
しかし、のどが渇いた。冷蔵庫はリビングの中にある。背に腹は代えられない。意を決し引き戸を開けて空也がリビングに入ると、
「空也、真実さんよ。東京から帰ってきたんだって」
空也に背を向けて座っていた母親が後ろを向き、空也を見る。
母親の向かいには、20代前半と思われる女性が座っていた。髪の色を明るくし、長い髪の毛を後ろで1つにまとめている。フィッシュボーンと呼ばれる髪型だ。
首元が開いたニットを着ていて、2つの大きな膨らみによって内側から押し上げられていることにより、縫い目を思わず視線でなぞりたくなるような曲線を作り出している。
昔とは雰囲気が変わっているものの、多少のことは笑顔で流してくれそうな優しげな垂れ目は確かに空也の知る真実だ。
「空也くん……久しぶりだね」
真実は目を細め、空也に控えめな笑みを向ける。
「っ……」
空也はリビングを飛び出し、2階にある自分の部屋へ向かうため階段を駆け上がった。
「空也!」
後ろから母親の声が聞こえたものの、無視して部屋に入りドアを勢いよく締める。
「……子供の頃は毎日お姉ちゃんお姉ちゃんって遊びに行ってたのにねえ」
「まあ、年頃の男の子ですから、久しぶりに会って照れてるんですよ」
廊下で話しているため、ドアを締めていても2人の声が空也にもよく聞こえた。
空也は自室に入るとドアを強く引いて締めるとかばんを床に放り投げ、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。背中が濡れていて気持ち悪いが構わなかった。
「なんでいるんだよ……?」
天井を見上げながら、思わず独り言が漏れてしまう。
真実は東京の大学に進学し、東京の企業に就職したと母親から聞いていた。
夏休みにはまだ早いし、となると仕事をやめて戻ってきたのだろうか。もしそうだとしたら、真実の家は空也の家の隣だ。そうなるとこれから何度か顔を合わせることは避けられないだろう。
「……どうすりゃいいんだ」
二度目の独り言が出てしまうが、当然誰も答えてくれる者はいなかった。
翌朝。HR(ホームルーム)前。空也の席の周りには4人の男子生徒が集まっていた。
「これが最新作、『ブラックタイツ・コンピレーション』だ」
空也は歴史的価値のある古文書を取り扱うかのように、一冊の写真集を机に置いた。
「ほう……」
4人の中の1人、菊池士郎が顎に手を当てながら、感心したように声を漏らす。士郎は隣の市の出身で、高1の春に空也から話しかけて以来よく話す仲だ。
表紙にはローアングルから撮影された黒タイツを履いた脚の、太もも中間部からふくらはぎにかけての部分がアップで印刷されている。女性的な曲線がフェティシズムを抱かせ、至近距離で撮影されているため、タイツの繊維まではっきりと視認することができた。
「分かるか? このやや濃い目の80デニールは透け感は控えめになるが、だからこそ上品さを醸し出し、この写真集は芸術的なものだと暗に示しているのだ。つまり……!」
「分かったから、とりあえず見せてくれ」
そんな空也に水を差すように、士郎がページを開こうと手を伸ばした。
「おっ、おい待て! まだ話の途中だ!」
慌てて空也は写真集の上に手を置く。
空也たちがいる高校は田んぼや古びた住宅に囲まれた丘の上に建っている。
そんな立地のためか、高校名には『丘』という字は使われていないにも関わらず、昔から地元の人にも、通っている生徒たちからも、『丘高(おかこう)』と呼ばれている。
近くにはかつて空也が通っていた中学校があり、田舎ではよくある話だが、そこの生徒の9割は丘高に進学する。
すでに期末試験を終え、教室内にはゆるい空気が漂っていた。
「もううんちくはいいから見せてくれよ〜」
別の男子生徒の1人も、士郎に続いて空也を急かす。
「昨日やっと手に入れた黒タイ子の写真集だぞ? そう簡単に見せられるか!」
黒須タイ子。ネット上に黒タイツを履いた自分の脚『だけ』を公開している、名前とは裏腹に、SNSでは20万フォロワーを超える人気者だ。
空也が今回購入した写真集も、例に漏れず腰より上は一切写っておらず、黒タイツにフェチズムを抱く者たちの欲望の結晶のような一冊だ。
ただ、昨日読んだときに、以前より彼女の脚に熱中できなくなっていたことに気づいた。きっと河川敷で見かけた謎の黒タイツ少女のおかげだろうが、芸術点は間違いなく黒須タイ子の方が上なはずだ。
「そういえば、なんで紙の本なんだ? だいたい電子書籍版があって、そっちの方が安いだろう?」
隣の自席に座った士郎は机に頬杖をつき、気だるげな目で空也を見た。
顎が細く、切れ目で中性的な風貌の士郎はそうしているだけで絵になる。校内イケメンナンバーワンを決めるとしたら、2位と圧倒的な差をつけて士郎が1位になるだろう。
「お前は何も分かっていない!」
空也は真っ直ぐに腕を伸ばして士郎を指差すと、
「デジタルだとディスプレイによって色が大きく変化してしまう。しかし紙ならば作り手が表現したかった色そのものを表現できる。よって通ならば紙以外ありえないのだ!」
空也の声には熱が入り、教室で演説しているかのようだ。そんな空也に教室内の女子生徒たちは迷惑そうな視線を送る。
ちなみに空也は決して見てくれが悪いわけではない。だが、三白眼による目付きの悪さと、無駄に大げさに振る舞う、という2点によって致命的な減点を受けてしまっているため、女子からの人気はいまひとつだ。
「また菊池くんを巻き込んでいる……」
女子生徒の1人、勝部が離れた席から空也を呆れたような目で見る。
空也と士郎の仲がいいことをクラスの女子たちからは快く思われていない。しかし、空也は特に気にしていなかった。
「とりあえず見せてくれよ。先生来ちゃうし」
「うむ、確かにそうだな……」
士郎の冷静な指摘に空也は渋々頷き、写真集を机の上で開いた。
直後、「……なんかすげえな」と男子生徒の1人が声を漏らす。
ページは黒一色だった。膝の後ろ側を至近距離で撮影した写真だ。
次のページはソファに横たわった脚の写真で、例に漏れず黒タイツを履いている。
胸のような分かりやすく性的興奮を抱きやすい部位は一切写っていない。だが、男というのはこのような間接的なものに興奮する生物であり、ただでさえ多感な時期の男子高校生には十分毒だった。
読み始めてからは誰も軽口を叩くことなく、写真集に見入る。
「どうだ、この芸術的な写真の数々! 黒須タイ子さんこそ、まさに現代のミロのヴィーナスなのだ!」
空也はダンサーがポーズを取るかのように両腕を45度の角度に伸ばし、大仰に笑った。ただし誰も話を聞いていない。
盛り上がる空也たちの元に、1人の女子生徒がやってきた。
「あー、またくーくんが変なもの見てるー」
その声に全員が顔を上げ、声の主に視線を向ける。
声の主は、空也の幼馴染でクラスメイトでもある日野唯だ。
髪の毛を肩にかからない程度まで伸ばし、大きな垂れ目がチャームポイントだ。身長151センチと小柄で、誰とでも親しく接することから、クラスのマスコットのような扱いをされているが、陸上部長距離走のエースという意外な一面がある。
唯がやってきたことで、男子生徒たちは気まずそうに視線をあちこちへそらす。
「変なものではない! 芸術作品だ!」
対して空也は、机の上に置いていた写真集を拾い上げると、唯の目の前に突きつけた。
「うわー、なんだかすごいねー」
唯は目を丸くして、いつものように若干鼻にかかった高めの声で言う。
「そうだろうそうだろう。黒一色でしかない黒タイツが人の脚によって伸ばされると濃淡の移り変わりができ、その神のいたずらとしか思えない複雑な模様の美しさと言ったら……」
「それはともかく、別にそんなに気まずそうにしなくてもいいよー? 見せられないようなものを見てるわけじゃないんでしょー?」
唯は目を細めて微笑むと、腕を組みしみじみと頷く空也を無視して、気まずそうにしている男子生徒たちに唯がフォローを入れる。しかし全くフォローになっていない。
「それより何の用だ? まさか俺たちの憩いの一時を邪魔しに来たわけではあるまい?」
いくら幼なじみの唯とはいえども、流石に一緒になって騒ぐわけにはいかない。
「昨日部活で疲れててすぐ寝ちゃったから、数学の宿題を写させてくれないかなーって。朝急いでやったんだけど、流石に全部はできなくて」
「……まあ、いいだろう」
唯は放課後だけでなく、朝練もしている。やむを得ない。空也がノートを取り出すと、空也の周りにいた男子生徒たちは唯の場所を空けた。
「ありがとー! さすがくーくん! ちょっとごめんねー」
唯は手にしていたノートを机の上に広げ腰を落とすと、空也の隣で写し始めた。空也と唯の肩が触れ合うほどの至近距離だ。
「それにしても、随分濃い芯を使っているんだな」
唯のノートに書かれている文字は空也のに比べて濃く、太い。
「HBとかだとつい筆圧が強くなっちゃうからいつも2Bなんだよねー……うん、ありがとー」
唯はそう答えながら写し終えると腰を上げ、そのまま立ち去るかと思いきや、
「ところで、生足も悪くないと思うんだけどなー」
左膝を上げると視線を落とし、ふとももを手で擦る。
その一言のせいで、男子生徒たちの視線が自然と唯の生足に吸い込まれていく。陸上で鍛えられた唯の脚はまさに『健康的』の一言で、これまた男子高校生には抗うことのできない引力を作り出している。
「ほらー、やっぱりみんな生足の方が好きみたいだよー?」
勝ち誇った表情で空也に向かって膝を突き出す唯に、
「やめろ、みんなを誘惑しようとするんじゃない!」
友人たちをダークサイドに落とされるのを防ぎたかったというのもあるが、本人が狙ってやったとはいえ、幼なじみに無遠慮な視線が向けられるのが嫌だった。
「はいはい。じゃあまたねー」
唯は手を振ると今度こそ空也の前から去り、他の女子グループの会話に加わった。
「やっぱ生足もいいよな……」
1人は心変わりしてしまったようで、唯の脚をぼんやりとした表情で眺めている。
「待て。お前は唯の術中にはまっているだけだ! 冷静になれ」
空也はうつろな目になっている男子生徒の肩を揺すった。
「それにしても、相変わらず日野と仲がいいな。本当に付き合ってないのか?」
「当然だ。あいつをそんな目で見るなんて考えられん」
士郎に尋ねられ、空也は即答する。
空也の母親と唯の母親は仲がよく、幼い頃から空也と唯は一緒に遊んでいた。思春期に入り流石に一緒に遊ぶことはなくなってしまったものの、性別を意識することなく軽口を叩き合える関係だ。
だからこそ、いくら体つきが女性らしくなろうとも、先に忌避感が起こり、1人の女性として見ることはできなかった。
「なるほどな。てっきり日野が生足派だからだと思っていたんだが」
「ちっ、違うわ! さっきも言ったが唯は……ん?」
登校したときには気づかなかったが、横5×縦7で配置されている机に付け足すように、一番後ろの右端に机が置かれていた。空也のクラスは35人で、昨日は置かれていなかったはずだ。
「そういえばこのクラスに転校生が来るらしい。しかも女子だ」
士郎も同じように机に視線を向けると、空也が知りたかったことを教えてくれた。
「こんな時期にか?」
「まあ、大方何か事情があるんだろう。夜逃げしてきたとかな」
士郎は首を右に傾けると、口元だけに笑みを浮かべる。言ってることはしょうもないが、士郎のような美形が言うと逆に絵になってしまう。狙ってやっているのか、素でやっているのかは分からない。
それにしても確かにもうすぐ夏休みという、変な時期に引っ越してきたものだ。と思ったところで、心当たりがあることに気づいた。
「まさかな」
さすがにありえないと鼻で笑ったものの、その予感はHRで的中することになる。
「東京からやってきました、来栖涼佳(くるすりょうか)です。一日でも早くクラスに馴染めたらいいなと思っているので、よろしくお願いします!」
挨拶を終えると、教室内に拍手が鳴り響く。自己紹介中は緊張した様子だったが、安心したように笑みを浮かべ、その笑顔は空也を含めたクラスの男子生徒ほとんどの心を奪った。
涼佳は遠目で見たときも思ったが、近くで見てもやはり整った顔つきをしている。肌は白く、ほくろやアザのようなものは一切見当たらない。大きなツリ目は長いまつ毛で縁取られ、形が整っているためか、きつい印象を与える前に『綺麗』と思わせてしまう魅力と愛嬌があった。
そして脚。今日も推定80デニールの黒タイツを履いている。膝まわりが透けている以外は真っ黒で、空也の視線はブラックホールに吸い込まれるように釘付けになってしまう。
そんな涼佳に空也は違和感を抱く。古びた教室という背景に対して浮いているような、異国の人が丘高の制服を着ているかのような、そんな感覚だ。
言ってみれば、東京から遠く離れた田舎に住む空也にとって東京は『画面の向こう側にある遠い世界』で、そこからやってきた涼佳はある意味異邦人だ。おかげでそんなことを思うのかもしれない。
そのような感覚を抱きつつも、涼佳の脚の魅力に抗うことが出来ず、視線で追ってしまっていた。やはり彼女の脚は全てにおいて黒須タイ子を上回っている。
芸術点は黒須タイ子の方が上だと思ったのは、単に追い続けていた彼女の脚よりも、突如現れた少女の脚が上だというのを認められなかったから。それだけのことなのだろう。
それはともかく、今は右から、左から、後ろから涼佳の脚を堪能したい。そう思ったものの、 担任教師の真野は、一番後ろの右端、前から8番目に置かれている机を指差した。
空也の席は一番前の窓際の席だ。これ以上涼佳を視線で追おうと思った場合、後ろを向く必要があるが、流石にそれはできない。
「くっ……」
どこかで絶対にあの脚を至近距離で拝んでみせる。そう思いながら空也は机の下で拳を握りしめた。
1限目が終わり、休み時間がやってきた。
クラスメイトたちの大半は先生が出ていくなり席を立つと、涼佳の元へ向かっていった。
涼佳は美少女で、しかも東京という田舎の高校生憧れの地からの転校生だ。そうなってしまうのも無理のない話だ。
他のクラスからも東京からの転校生をひと目見ようと集まってきている。
昔と比べて都会でなければ手に入れらないものが減ったとはいえ、やはり東京でなければ得られない体験がある。涼佳の周りに集まった生徒たちは涼佳に質問攻めし始めた。
「やっぱり東京って電車めちゃくちゃ混んでるの?」
「芸能人に会ったことある?」
「スカイツリーって行ったことある?」
涼佳は嫌な顔をせずに丁寧に1つ1つ答えていく。
背筋を真っ直ぐ伸ばし、明瞭な声だ。所作やその見た目と相まって、育ちの良さを感じさせる。
もちろん全員が全員涼佳の周りに集まっているわけではないが、何を話しているかは気になるらしく、遠目から見ているのが分かる。
空也も遠目から見ているその1人だ。ポケットからスマートフォンを取り出すと、盛り上がっているクラスメイトたちを視界の端に入れながら、ブックマークに入れている黒須タイ子のページを開いた。
『お知らせ』というタイトルの新規記事が投稿されている。嫌な予感を抱きながら本文を表示すると、今後の活動を無期限に休止するという内容が書かれていた。
「なんだって!?」
思わず大声を上げてしまい、教室内にいた全員が一瞬空也に視線を向ける。
黒須タイ子の投稿する黒タイツ写真は、空也にとっては生きる糧だった。夜遅くまで彼女の写真を眺めて過ごしたのは一度や二度ではない。
空也がショックのあまり硬直してしまっていると、教室に戻ってきた士郎が右隣の自席に座り、空也に声をかけた。
「お前はあそこに加わらなくていいのか?」
「今はそれどころじゃない……」
がっくりと肩を落とし、視線を落とす。
「本当にいいのか? 転校生と仲良くなるチャンスじゃないか」
「うるせえな……俺は人混みが苦手なんだよ。そもそもあんな風に群がられてたら話しかけられないだろ。お前こそ行かなくていいのかよ?」
なぜか妙に涼佳の元へ行くことを勧めてくる士郎に、空也は質問で返す。
「俺も人混みが苦手だし、あそこに加わったら主役が俺になってしまうからな」
「その余りある自信が羨ましいわ」
「そうか。まあ、褒め言葉として受け取っておくことにしよう」
士郎は目を細めて笑みを浮かべる。女子たちからの視線を感じた気がするが、きっと視線の先は士郎だろう。士郎の笑みは、男の空也でもたまに心が揺らいでしまうほどだ。
涼佳の名前を出されたことで、空也は頭の中で昨日今日と網膜に焼き付けた涼佳の脚を思い返し始めていた。
80デニールという、一番好きな厚さのタイツというだけでもポイントが高いのに、描く曲線、膝と脛のバランスは言うに及ばずだ。しかも肉が程よくついており、見るからに張りのあるあの脚で膝枕をしてもらったら、どのような天国が待っているのだろうか。頭の中が涼佳の脚でいっぱいになっていく。
「あー、くーくんが来栖さんに見とれちゃってるー」
いつの間にか自分の世界に入ってしまっていた空也は、いつの間にか目の前にやってきた唯の声で我に返った。
「お、俺はそんな不埒なことはしていない! あくまで網膜に焼き付けたメモリーをだな」
「いや、完全に見ていたぞ」
「うんうん。完全に見てたよー」
すかさず否定しようとしたものの、士郎と唯に否定を却下されてしまった。どうやら無意識のうちに視線で追ってしまっていたようだ。
どれだけ魅了されてるんだ俺と空也が内心驚いていると、視線の先では涼佳が教室を出ていこうとしていた。
見えない糸に引かれるように、空也は立ち上がると、
「……トイレに行ってくる」
生暖かな視線を背中から感じつつ、涼佳のあとに続いた。
職員室を後にして廊下を歩く涼佳から距離を取り、空也は涼佳の脚を観察していた。念願の後ろからだ。
黒タイツの魅力の1つに、脚によって黒タイツが引き伸ばされることによって素肌が見えるようになり、表面にグラデーションが発生する、一般的に『透け』と呼ばれるものがある。これは脚を曲げたり伸ばしたりすることで状態が変化し、姿勢によって表情を変える。
不規則に何か意思を持ったかのように変化する『透け』が描く模様は、さながら日本刀の刃文のように好事家の目を奪ってしまうのだ。
涼佳の後ろを歩く空也も、涼佳の太ももからふくらはぎにかけて発生している『透け』に心を奪われていた。
80デニールは後ろから見ると透けの範囲は狭いものの、黒い部分が多いことで脚の形を強調し、それが艶めかしさを抱かせる。
このふくらはぎを手で擦ったり、頬ずりをしたらどうなってしまうのだろう。
涼佳の脚を見ていると、どうしてもそんな妄想をし始めてしまう。無論そんなことをしてしまったら高校にいられなくなってしまうので、妄想で留めるしかない。
黒須タイ子の脚が空也にとって頂点であり、彼女に取って代わる存在なんてまずありえないと思っていた。しかし涼佳の脚は、脚で商売をしていた黒須タイ子の脚を過去のものにしてしまったのだ。
最初は涼佳の脚への称賛は心の声で留めていたものの、溢れる情熱を抑えきれず、うっかり「どうしてそんなにいい脚をしているんだ!」と独り言にしては大きい声を出してしまった。
「えっ?」
後ろをつけていることを気付かれないようにしていたのに、その声で涼佳は立ち止まり、振り返った。
まずい。どう考えても怪しい奴だ。思わず空也は顔に飛んでくる見えない何かを両手で防ぐようなポーズとともに、後ろに一歩下がった。
涼佳は一瞬警戒するような目で空也を見たものの、
「あ、昨日河川敷にいた! 同じ高校だったんだね」
警戒を解き、教室で見せていたような友好的な笑みを見せたものの、
「えっと……」
すぐに困惑しているような表情に変わった。
「……須藤空也だ。一応同じクラスなんだがな」
一応クラス全員で簡単に1人ずつ自己紹介をしたのだが、どうやら気づかれていなかったようだ。少し寂しいが、両手を腰に当てたポーズを取り、平然を装う。
「えっ! ホントに? ごめん、気づかなくて……」
「ま、まあ、35人もいれば、見落としてしまうのも仕方あるまい」
涼佳からしてみれば、自分はどこにでもいるような顔なきモブの1人だ、と言われているような気がして、ついふてたような物言いになってしまう。
「ホントごめんね」
「い、いや、俺も昨日逃げてしまったからな」
涼佳のような美少女に何度も謝罪されていると、逆に悪いのはこちらなのではないかと思い始めてしまう。自分にも非があることあることを伝え、涼佳の罪悪感を軽減させようとした。
「ううん。川を眺めてたのに、急に私が声を掛けたからびっくりしちゃったよね? ゴメンね」
涼佳は首を横に振って、頭を下げてきた。本当は川ではなく脚を眺めていたとはとても言えない。
「いやいや! 帰って勉強しなきゃいけないのに気乗りしなくて川を眺めていたから、ちょうどよかったぞ! ハハハ!」
再び涼佳に謝罪をされてしまったので、その場で思いついた言葉でその場を切り抜ける。流石にこれならもう謝罪されることはないだろう。
「それならよかった……のかな?」
どこかしっくり来ていないようだが、とりあえず涼佳は納得したようだ。心の中でため息をついた次の瞬間。
「それで、私に何か用?」
「それは……」
正直にあなたの脚を見ていましたなんて言えるはずがない。
「それは?」
涼佳は首をかしげる。狙ってやっているのだろうか。そんな些細な仕草でもつい見とれてしまい、気が遠くなりそうだ。
「そっ、そうだ。背中! 背中に糸くずがついていたのだが、なかなか言い出せなくてな! ハハ!」
本日2度目の嘘でその場を切り抜ける。
「本当? じゃあ取ってくれないかな?」
涼佳は180度回転し、空也に背中を向けた。遠心力で黒髪が舞い上がり、シャンプーなのか、香水なのかわからないが、ほのかに甘い香りが漂ってくる。
「え……? おっ、おう」
オットセイのような声で返事をして涼佳の背中に手を伸ばそうとしたものの、その姿勢で固まってしまった。
「……? どうしたの?」
空也の視線の先には、涼佳のふくらはぎがあった。至近距離なので、黒タイツの網目や、遠目ではよく見えない膝の後ろ側の『ひかがみ』と呼ばれる部分の凹凸、そして女性特有のふくらはぎの『反り』を間近で堪能することができる。
「ああ……」
たまらず空也は感嘆のうめき声を漏らしてしまった。
「えっ、大丈夫?」
反射的にだろう。涼佳は振り返ると、
「わっ」
即座に驚きの声とともに体を一瞬震わせた。
空也は感動のあまり拳を握りしめ、歯を食いしばり顔を震わせていた。
「大丈夫……?」
「なんで……」
「え?」
問いに答えること無く、不明瞭な言葉を発しただけだった空也に涼佳が尋ね返すと、
「なんでそんなにいい脚なんだ!」
「きゃっ。な、何?」
突如大声を出した空也に驚き、涼佳は距離を取る。そんな涼佳に空也はお構いなしに涼佳の脚を指差すと、「脚!」と一言言い放った。
「脚……?」
何のことかさっぱり分からないであろう涼佳は、困惑した表情で同じ言葉を繰り返す。
「来栖! お前の脚は素晴らしい! 筋肉も、脂肪も、これ以上は付いてはいけないギリギリのラインを突いていて、太ももから膝への傾斜、そして膝からふくらはぎの反りは健康的と艶めかしさのバランスは理想的な45:55だ! そしてその完璧な素材を80デニールの黒タイツが調理することで生み出される透け感、シルエット……あああ、今すぐにでも顔を埋めて両手でその手触りを堪能したい!」
空也が大げさなボディランゲージとともに涼佳の脚を語り終える頃には、涼佳の顔は凍りついており、その反応を見た空也も凍りついた。
やっちまった!
空也は心の中で叫んでいた。称賛するにしても、言葉を選べば涼佳の反応ももう少し違ったものになっただろうに、あろうことか心の声をそのまま発してしまった。こんなこと言われてドン引きしない女の子なんて、この世にいるはずがない。
空也にとっては気が遠くなるほどの時間に思えた沈黙が数秒訪れた後、チャイムが鳴った。
「じゃ、じゃあ……私行くね?」
「聞かなかったことにするね」と言わんばかりの引きつった笑みを浮かべると、涼佳は早足で空也の前から去っていった。
「や……やっちまったあ!」
残された空也は、両手を頭に当て天井に向かって叫んだ。あわよくば仲良くなって脚の写真を撮らせてもらうのはおろか、こうなってしまってはまともに口を利いてもらうことすら困難だろう。
チャイムが鳴ったにも関わらず、空也はしばらくその場で自問自答を続け、次の授業を遅刻した。
その日の放課後。
空也は昨日のことがあったので飲み物を買うべく、高校のある丘を下ってすぐのところにある個人商店、『丘省堂(きゅうせいどう)』に向かっていた。
2年前に初めて高校近くにコンビニができたのだが、ここは老後の道楽でやっているためか、丘高生はコンビニより安く売ってくれる丘省堂をよく利用する。そんな理由のためか、きっと大した利益は出ていないのだろうが、今も閉店することなく続いていた。
屋根や看板には所々サビや色あせがあり、昔ながらの個人商店といった『昭和』を感じさせる見た目の店の前に自転車を止めようとすると、すでに1台自転車が止まっていた。泥除けに丘高のステッカーが貼られているので、どうやら同じ丘高の生徒のようだ。
立て付けが悪いらしく、開けっ放しになっている引き戸を通り抜けて店内に入ると、背中にまで伸びた長い黒髪が視界に入った。
「げ」
反射的に声が出てしまい、慌てて自分の口を手で押さえる。
先客は涼佳だった。あの後何度か教室内で視線が合ったものの、全て気まずそうに視線をそらされてしまっていた。
今のところ、空也には気づいていないようだ。
涼佳に気づかれないうちに店の外に出よう。そう思ったものの、目の前の光景に空也は思わず足を止めてしまった。
涼佳が今にも零れ落ちてしまいそうなほどのお菓子を抱えていたからだ。
「3,640円ね」
店の奥で椅子に座ったままレジ打ちを終えると、店の主人であるおばあちゃんが無愛想に言う。
「あの、PASMOって使えますか?」
パスケースをカバンから取り出しながら涼佳が尋ねると、
「え、何だって? うちは現金しか使えんよ」
耳の後ろに手をかざしながら、おばあちゃんが大声で答えた。耳が遠いだけで別に怒っているわけではないのだが、知らない人には怒っているようにしか見えない。
「分かりました。えっと……あ、ない」
女の子らしいデザインの小さな財布を開き中を見た涼佳は、後ろ姿でも落胆しているのが分るほどに肩を落とし、ため息をつきながら頭を前に倒した。
その仕草は、大人びた雰囲気の涼佳にしては子供っぽくて、たかがお菓子が買えなかっただけでなぜここまで落ち込んでいるんだ? と空也は思わずにはいられなかった。
「すみません……その、お金が足りないので……」
よほどお菓子が買えなかったのがショックだったようだ。学校にいるときは常に伸ばしていた背中を丸めたまま、弱々しい声で言うと台に置かれているお菓子を手に取った。その光景がなんだか見ていられず、
「……いくら足りないんだ?」
「えっ……?」
頭より先に体が先に動いていた。空也は涼佳の横に立つと、カバンから財布を取り出した。
「未だに駅員にきっぷを渡して穴を開けてもらう駅があるような県だぞ? そんなハイテクなものがこんな店で使えるわけがあるまい。ほら、いくら足りないんだ?」
「そんな、悪いよ」
「誰もおごるとは言ってない。後で必ず返してもらう。で、いくら足りないんだ?」
涼佳は空也とお菓子に視線を何度か行ったり来たりした末、
「……2,000円くらい」
何とか聞き取れる声で答えた。
財布には1,000円札1枚と、500円玉が2枚入っていた。ギリギリ足りそうだ。空也がトレイに1枚と2枚を置くと、涼佳は財布から1,000円札1枚、500円玉1枚、100円玉2枚を取り出し、同じようにトレイに置いた。
「はー、なんだい。この子あんたの『コレ』かね?」
さっきまで無愛想な表情の店主のおばあちゃんだったが、急にニヤニヤと笑い始めた。
丘高と丘省堂の間に空也が通っていた中学校があるため、中学生の頃から丘省堂を利用していた。そのため、空也とおばあちゃんは顔見知りなのだ。
「ちっ、違うわ。こいつは俺のクラスの転校生だ。それ以上でもそれ以下でもない。それより会計!」
恥ずかし隠しに、お金の乗ったトレイを前に押し出す。
「あら、あんた転校生かね。どこから来たんだい?」
妙に上機嫌になったおばあちゃんは顔を上げ、涼佳に尋ねた。
「えっと、東京です」
「東京! どうりでハイカラな身なりしてると思ったら」
「ハイカラ……」
聞き慣れない単語が出たからか、困惑したように涼佳が繰り返す。
「ばーちゃん、今どきそんな言葉使わないから」
「いいかい? こういう何でもすぐ否定から入る男は絶対にやめときな」
空也を指差しながらおばあちゃんが芝居がかった声で言うと、
「……はい! 分かりました!」
意外にも涼佳はノリ良く答える。
「うん。よろしい。あなたいい子ね。何て名前なの?」
「来栖涼佳です」
「へえ、名前もハイカラな感じねえ。ここに引っ越してきたのはお父さんの仕事の都合?」
「えっと……」
涼佳は一瞬硬い表情をしたものの、
「はい! そうなんです。いつまでここにいるかは分からないんですが」
すぐに笑みに変わった。
「こんな田舎に引っ越してきて大変でしょう?」
「いえ。自然も多くていいところだと思います」
「いい子だねえ。3,500円に負けてあげるわ」
どうやら涼佳を相当気に入ったようだ。
「本当ですか? ありがとうございます!」
おばあちゃんは頭を下げる涼佳を満足そうに見ると、
「いいかい? お前も涼佳ちゃんを見習うんだよ?」
急に話を空也に振ってきた。
「はいはい、分かりました!」
やけくそ気味に店内に響き渡る声で返事をすると、
「よろしい。もし態度が悪かったら、今まで負けたぶんを全部払ってもらおうと思ってたからね」
笑みを浮かべながら、物騒なことを言い放った。
空也は涼佳に誘われ、国道沿いにある東屋にいた。以前空也が涼佳と初めて出会った橋を渡ってすぐのところだ。
東屋は上から見ると長方形の作りになっていて、4辺に沿うようにベンチが4つ置かれ、真ん中にはテーブルがある。
相変わらず気温は高いが、屋根が日差しを防いでいる上に風が吹いているのでそこまで体感温度は高くない。
空也は涼佳から見て左斜前のベンチに座った。
「どれにしようかな……」
涼佳は自分のすぐ横に買ったお菓子を山積みにし、まるで宝の山を前にしたかのように目を輝かせている。
「……まさかとは思うが、これ全部食べるつもりか?」
流石にそんな訳はないよな、と思いながら空也が尋ねると、
「うん。そうだけど?」
涼佳はさも当然のように答えるとポテトチップスの袋を開けた。
飲み物も含まれているとはいえ、3,500円相当のお菓子は夕飯前に食べる量ではない。
つい「夕飯が食べられなくなるぞ」と母親みたいなことを言ってしまう。
しかし涼佳は「大丈夫。私大食いだから」と笑い、早くも次のお菓子の袋を開けようとしている。
こんなに日頃から食べているのであれば、ブクブクに太っていて当然……なのだが、涼佳はどう見ても太っているどころか、やや痩せ気味に相当するだろう。
そんなことを考えながら涼佳の頭から足先へ視線を動かし、そして膝周辺に視線が戻る。
涼佳は脚を組んでいた。黒タイツを履いた状態で脚を組むと、タイツが伸び、上に来る膝の外側から膝がより透けるようになり、さながら日差しを浴びているような模様に変化する。
しかも涼佳が上に持ってきているのは左脚だ。スカートが短いため、ランガードが見えるか見えないかのところまで、お尻と太ももの中間部分が見えてしまっている。涼佳は黒いローファーを履いているため視覚効果でより足が長く見え、健全な男子高校生の視線を吸い寄せ捕らえてしまう甘い香りを放っている。
空也も気がつけば香りに吸い寄せられる哀れな虫になってしまい、涼佳の脚を凝視してしまっていたが、
「須藤くん」
「ぐへっ!? な、なんだ?」
不意に名前を呼ばれ、間抜けな声を漏らしてしまった。
脚を凝視してしまっていたことを咎められるかなと思ったものの、
「ありがとね。まだお礼言ってなかったよね」
食べかけのお菓子を脇に置き、空也に微笑みかけた。
涼佳に見つめられ、気恥ずかしさから視線を外す。なぜか顔だけが飛び抜けて熱い。
「そ、それより、忘れずに金返せよな。あとそんなにお菓子を買うなら財布の中をちゃんと見ておけ」
「大丈夫。ちゃんと返すから。あとね」
涼佳は脇においていた袋を再び手にすると丸い形のコーンスナックを1つ取り出し、
「東京も現金しか使えないお店はまだ結構あるよ? 須藤くんは東京を神格化しすぎだと思うな。東京にだって田舎はあるしね」
そう言い終えると口に入れ、幸せそうに目を細める。
「何言ってる。東京に田舎なんてあるわけないだろ。田舎っていうのはここみたいなところのことを言うんだ」
空也には聞き捨てならない一言だった。弧を描くように腕を振って、この町の風景を見るように促す。
「うん。田んぼがあって、山があって、その間を川が流れてるようなところならあるよ」
涼佳はスポーツドリンクを一口飲むと、はぁとため息をつく。
「どうせ2時間も電車に乗ってれば都心に出られるんだろ?」
「そうだね」
「では田舎ではないな!」
ベンチに背中を預けながら、腕を組み、自信満々に否定する。2時間で日本の中心である都心に出られるような場所を田舎扱いなど笑止千万だ。
「うーん、でもその場所自体は田舎だよね? それに2時間も電車に乗ってなきゃならないんだよ?」
「いやいや、電車が通っていて、しかも2時間あれば都心に出られるようなところが田舎なわけがあるまい!」
「それじゃあ、東京の『そういう場所』のことはなんて呼べばいいの?」
なんて呼べばいいのだろうか。空也は腕を組んだまま少し考え、
「過疎地……?」
疑問形で答えた。
「あれ、過疎地って田舎のことだよね?」
「あっ……」
空也は言葉を詰まらせた。確かに過疎地が都会なはずがない。
「ふふっ、私の勝ちだね」
涼佳は得意げに笑うと、また一口スナック菓子を口に運ぶ。
「ぐぬぬ」
当然空也も納得したわけではないが、言い返す言葉が思いつかない。悔しいが、降参するしかない。
「俺の、負けだ……」
「私の勝ちだね。勝利を噛み締めながら食べるお菓子はまた格別な気がするな」
涼佳は棒状のビスケットにチョコレートがコーティングされたお菓子を、一気に4本ハムスターのようにポリポリと食べていく。
気がつけばお菓子の山は徐々に減りつつあった。今この瞬間にも早送りをしているかのようにお菓子の袋を開けては空にしていく。空也も少食なわけではないが、そんな涼佳を見ていると胸焼けがしてくる。
「それにしても、よくそんなに食べられるな」
丘省堂で買ったスポーツドリンクを一口飲み、尋ねた。
「私東京では運動部に入ってたから、いつの間にかたくさん食べるようになっちゃったんだよね。あと、お父さんもお母さんも家にいないことが多かったから、お金渡されてこれで食べなさい。って言われることも多くて……ついついお菓子をたくさん食べる習慣がついちゃって」
最後は少し恥ずかしそうに言う涼佳だったが、これはあまり深堀りしない方がよさそうだなと判断した空也はそこで話を打ち切り、沈黙が訪れる。
「……そういえば、須藤君は部活やってないの? クラスのみんなはだいたい入ってるみたいだったけど」
沈黙を破ったのは、最後の一袋を手にした涼佳だった。
「学生の本分は勉強だ。都会の強豪校ならまだしも、田舎の高校の部活なんて入ったところで時間を浪費し、ただ疲れるだけで何の意味もない。それならば家で勉強した方が何倍も有益だ」
事実、空也は帰宅するとすぐ机に向かっている。
「そんなに勉強してどうするつもりなの?」
「東京の大学に進学して、こんな田舎から出ていくためだ」
涼佳は最後のお菓子を食べ終えると袋を潰し、
「そんなに東京っていいところかな? ここは自然があって、のんびりしているいいところだと思うけどな?」
空也の背後に視線を向けた。そこには町から人々が出ていくのを阻むかのように、山々がそびえ立っている。
「まだここに来て大した経っていないんだろ? 今はまだ観光客目線でこの町を見ているんだ。しばらく経てば、そんなこと思わなくなるはずだ」
確かに自然はあるし、のんびりした空気が流れていることは否定しないが、逆を言えば、
何もないことにより生活の選択肢は限られるし、時が止まってしまっているとも言える。同じ日本に住みながら、都会の人と比べて周回遅れの生活を強いられてしまう。涼佳の言うことを肯定する気にはなれなかった。
「うーん、そうだね」
涼佳は毛先をいじりながら何か考えている様子を見せると、
「須藤くんはこの町の悪いところばかりを見つけようとしてるから、そんなふうに思うんじゃないかな? 私は早速いいところを見つけたよ」
得意げに、流し目で空也を見る。
「何だ。言ってみろ」
「丘省堂のおばあちゃんは面白いし、須藤くんは最初変な人だなーと思ったけど、意外と親切なところ」
「なっ……」
それは町のいいところじゃないだろ、と突っ込みたくなったものの、人も町の一部でしょと返されそうな気がして言葉を引っ込めた。それにしても、そうやって臆面もなく褒められるのはなんだか恥ずかしい。
「も、もう食べ終えたなら帰るぞ」
空也は涼佳の顔を見ないように立ち上がった。
「うん。付き合ってくれてありがとね」
2人は東屋のすぐ横に停めていた自転車に乗ると、走り出した。
「私東京では電車で通学してたから、自転車通学って憧れてたんだよね」
空也と涼佳は、空也が車輪1つ分前に出た状態で並んで走っていた。
「ハッ。てっきり毎日送り迎えしてもらってると思ったら、庶民的なお嬢様だな」
東屋では主導権を握られっぱなしだったおかげでつい憎まれ口を叩いてしまう。
「そんなことないよ? そもそも私お嬢様じゃないし、普通の家だから」
「その普通は俺からすると絶対普通じゃないな」
「そうかもね。さっきも『田舎』で揉めたくらいだし」
少し間があったものの、涼佳はあっさり認めた。言い負かされるのも悔しいが、こうも簡単に認められてしまうのも面白くない。
空也と涼佳は川沿いにある脇道に入った。視界に入るのは家と山と田畑ばかり、家は田畑の間に点々とあるくらいで、どれも随分昔に建てられたのがひと目で分かるデザインをしている。
「というか、なんで俺についてきてるんだ?」
空也の家までもう5分とかからないところにまで来ている。
「? 私は家に向かってるだけだけど?」
「本当か?」
「うん」
「……言いたくなければいいんだが、家族で引っ越してきたのか?」
空也は自分の家の周辺の風景を思い浮かべながら尋ねた。空也の家のあたりには集合住宅はなく、住もうと思った場合は必然的に家を建てるか、空き家に引っ越してくることになる。
しかし記憶が正しければ空き家はなく、どこかで家を建てていた記憶もない。どこかの家に居候するにしても、東京の女子高生が単身田舎に、なんてことは考えにくい。
そもそも丘省堂で涼佳は「引っ越してきたのは両親の仕事の都合」と言っていた。このあたりには子供が全員出ていってしまい、配偶者も亡くなり、1人で広い家に住んでいるお年寄りはそこそこいる。つまり涼佳はどこかの家の孫で、今は家族で一時的に戻ってきたという可能性が高い。
空也が頭の中で推理していると、
「ううん。こっちに引っ越してきたのは私1人だよ?」
「なんだと? どこの家だ?」
まさかの初っ端からありえないと思っていた回答が返ってきた。ということは、丘省堂での発言は嘘だったということになるが、おそらく追求を避けるためと考えれば納得がいく。
「ここを道なりに進んでいったら左側に川を渡る橋があるでしょ? そこを渡って左のところだよ」
「……俺の家の隣じゃねーか」
まさかのお隣さん。現に起きているにも関わらず、こんなことあり得るのかと思わずにはいられない。
「え? ホントに?」
さすがの涼佳も、この偶然には驚いた表情を見せる。
「左側じゃなくて右側に黒い屋根の家があるだろ。そこがうちだ」
「確かにあった……」
涼佳はまだ引っ越してきたばかりなので、違う場所を指している可能性もあったが、どうやら本当に隣のようだ。
確かにあそこの家はおばあちゃん1人で住んでいた。つい最近までは。
急に帰ってきた真実もあそこの家のおばあちゃんの孫で、あの家に住んでいると母親から聞いていた。つまり、涼佳と真実は従姉妹で、今は3人で住んでいるということだ。
そこで1つの謎が生まれる。
「俺子供の頃よく隣のおばあちゃん……来栖のおばあちゃんの家にはよく遊びに行ってたけど、俺と同い年の孫がいるなんて聞いたことないぞ?」
「私のお母さんがおばあちゃんの娘なんだけど、実家に寄り付こうとしなかったから、私が生まれたこともずっと話してなかったみたい。私も詳しいことは知らないんだけど……ごめんね」
つまり、隣のおばあちゃんの子供は男女1人ずつのきょうだいで、男の方が真実の父親。女の方が涼佳の母親で、昔東京に出ていってしまってから実家と連絡を取ることがほとんどなかった。そのため、空也は涼佳のことを知らなかったということだ。
ちなみに真実の父親は2年前に若くして亡くなってしまい、真実の母親は一緒に住む理由が無くなったということで家を出ていってしまった。おじいさんはもっと以前にこの世を去っており、そのためおばあちゃんは1人では広い家に住み続けていたのだ。
そのせいか、家の前にある畑で畑仕事をしているおばあちゃんを見かけると、以前より一気に老けてしまったなという印象を空也は抱いていた。
そうこうしているうちに、空也と涼佳の家へと繋がる道が見えてきた。
「あれだろ」
「うん」
念の為に空也が尋ねると、涼佳は即頷いた。美少女転校生が隣の家に引っ越してきたなんてまるでラブコメみたいだな。そんなことをつい思ってしまう。
道へ入ると一旦止まり、
「じゃあな」
一言告げて空也が家に向かおうとすると、見慣れないスポーツカーが重低音を上げながら道に入ってきた。
入ってきたのは赤の三菱ランサーエボリューションX。数年前に生産が終了された、ファイナルエディションを別とすれば実質的なランサーエボリューションの最終モデルだ。
一体誰が乗っているのだろうと思っていると、空也たちの前で車が止まり、運転手側のサイドウインドウが開いた。
「空也くん、涼ちゃんおかえり」
乗っていたのは真実だった。
「っ……!」
「あっ、須藤くん!」
涼佳が呼び止めたものの、空也は振り返ることなく挨拶を無視してその場を立ち去った。
残された涼佳は空也を目で追った後、迷ったように目を伏せたかと思うと顔を上げ、
「……この車どうしたんですか?」
寂しそうな表情で去っていく空也を見ていた真実に尋ねる。
「車屋さんでいいのないかなーと思ってたら、この赤が可愛くて一目惚れしちゃった」
「一目惚れって……」
「そんなことより、今日は涼ちゃんの歓迎会をするから」
真実は助手席に置いていた食材の入ったレジ袋を掴むと、涼佳に見せるように顔の高さにまで上げる。
「……分かりました。先に車入れちゃってください」
「りょ〜か〜い」
運転手の声とは対象的な重低音を響かせながら、真実は車を家の前に進めていく。
「……」
涼佳は何か考え事をしているような表情を浮かべながら、真実に呼ばれるまで車のテールを見ていた。
その日の夜。涼佳は自分の部屋で通話をしていた。
「……こっちでもちゃんとやるから大丈夫。それじゃあね」
通話を切ると、何も表示されていない画面をしばし見つめる。画面に反射して映っていた涼佳の表情は、どこか思い詰めているようだった。
翌朝。
「はあ……」
家を出た空也は涼佳の住む家を見てため息をついた。
どうしても真実を避けてしまう。逃げ出したところで罪悪感が増していくだけなのに、彼女を前にするといたたまれなくなって逃げ出さずにはいられないのだ。
お隣さんの真実に対してこのような態度を取るのはいいことではないが、そんなにすぐに彼女への態度を改められるのなら、悩んだりはしない。
一旦真実のことを考えるのをやめ、自転車を漕ぎ始める。昨日真実と出くわした道に差し掛かったところで、道端に涼佳が自転車にまたがって立っていた。今日も空也の見立てでは80デニールの黒タイツが日光を受け、艶かしく黒光りしている。
「おはよう」
「……え? ああ、おう」
「こんなところで何をしているのだろう」という空也の脳裏によぎった疑問は、涼佳がすぐに解消してくれた。
「一緒に学校に行こうよ」
「……は?」
空也は思わず固まってしまった。脳が耳に入った言葉を違う意味で認識したのではないかと疑い、頭の中で涼佳の発言を反芻するが、何度繰り返しても確かに「一緒に学校に行こうよ」と言っていた。
健全な男子高校生ならば女の子と一緒に登校というシチュエーションには憧れるもので、空也も当然憧れはある。しかも涼佳はこんな田舎には場違いなほどの美少女だ。
しかし田舎というのは噂がすぐに広まってしまうもので、自分はともかく、涼佳におかしな噂が立ってしまうのは流石にまずい。
涼佳は東京からの転校生だから、もしかしたら東京ではこれくらい当たり前なのかもしれないとしても、ここは田舎だ。噂が広まってしまう可能性があることを涼佳に告げるべきだ。しかしそんなことを言えば、自意識過剰と思われてしまうリスクがある。
朝から頭を抱えたくなっていると、涼佳の家の勝手口からおばあちゃんが現れた。水玉模様のフードに手袋、そして長靴というまさに農作業のための格好だ。
涼佳の家の畑は橋へ続く道路の左側に面しており、空也が今いる場所は畑のすぐ前だ。
おばあちゃんは早足で空也に近づいてくると、
「空也! こっちこい!」
近頃のおばあちゃんを知っている空也には信じられないような大声で名前を呼んだ。
「なんだよ、ばあちゃん……」
自転車を押しておばあちゃんの元へ向かうと、
「まさかとは思うが、ワシの可愛い孫置いて一人で行くとか考えとりゃせんよな?」
「拒否したらタダでは済まない」というのが本能的に分かる低い声で空也に耳打ちした。
「い、いや、それは……」
おばあちゃんは空也の知るおばあちゃんとは別人のようだった。以前は腰を曲げしょぼくれた表情で黙々と農作業をしていたのに、今は背筋も若返ったようにシャキっとしていて、顔色も以前とは別人のようだ。
「まだこの辺に慣れていない涼佳に何かあったら、責任は取れるのか?」
空也が口ごもっていると、おばあちゃんはさらに追撃してくる。
「あーもう、分かったよ分かった! 一緒に登校すればいいんだろ!」
「そうそう。素直が一番だわ。ただでさえ女っ気ないんだから!」
やけくそ気味に承諾すると、空也の背中を叩きながらガハハと豪快におばあちゃんは笑った。
「はいはい、分かったよ」
おばあちゃんから逃げるように自転車に飛び乗り、涼佳の元へ戻ると、
「い、行くぞ」
涼佳の顔を見ずに言った。
「うん」
涼佳も自転車に乗ると、学校へ向かって走り始めた。
道路に出て目に入るのは田畑と古びた家ばかりで、それらを左右から挟むように、天狗でも住んでいそうな山々がそびえている。この景色は数十年前とはほとんど変わっていないだろう。
「のどかだね……」と辺りを見渡しながら涼佳がつぶやく。空也にとっては幾度となく見てきた、何の感慨もない風景だが、涼佳にとってはのどかさを感じる景色のようだ。
最初は気温と気恥ずかしさ、二重の意味で暑(熱)さを感じていたものの、しばらくすると空也はそのどちらも気にならないほどに一点に意識が集中していた。
それは涼佳の脚だ。もちろん前を見ずに自転車を漕ぐのは危険なので、前と涼佳の脚を交互に見つつ、前方の安全確認は自動運転のようなイメージで、涼佳の脚への意識を多めに向ける。
自転車を漕ぐ足の動きに合わせて変化する黒タイツの模様。伸び、縮み、伸び、縮む……。
「こんなのもありか!」
黒タイツという芸術の可能性の広さに、独り言にしては大きい独り言が漏れ出てしまう。
「何?」
「いっ、いや! 何でもない!」
涼佳の脚に意識が行っているときは全然平気なのに、涼佳本体へ意識が向くと途端に挙動不審になってしまう。
「そう。それにしても、風が気持ちいいね」
程よい横風が吹き、涼佳は風を顔全体で味わうように表情を緩ませ、長い黒髪が流れていく。
まるで青春時代をテーマにした映像作品のワンシーンのようで、思わず一瞬見とれてしまうが、勢いよく首を前に戻し、頭を振って心を落ち着ける。
しばらくはこうやって涼佳と一緒に登校することになるのだろうか。もし他人からそんな話を聞かされたらうらやましいと思うのかもしれないが、当事者になってしまうと、どうやら心から喜ぶことはできないようだ。思わずため息が出る。
しかし、この退屈な日常に訪れた新たな刺激に、空也は心の奥で期待感に似た何かを抱いていた。
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