泣きたくなる香りにしないで。
潮未帆乃花
1
「それ、なに」
塗装の剥げかけている青いベンチに座って友人の帰りを待っていたら、男性に声をかけられた。声のした方に顔をあげると、上質そうな布で出来た黒ハット、黒縁メガネの向こうにある奥二重が、確かに私に向けられていた。顔の情報はマスクのせいで、それぐらいしか得られないけれど、左耳のフープピアスが太陽に反射して、嫌でも視界に入った。
「これは、バックです」
「それはわかってるよ、俺が気になってるのは、これ」
無駄な肉がついていない、男の人にしては手入れされた人差し指は、持ち手の根元にぶら下がったキーホルダーを掬い触った。これは、なんだったっけ。膝の上で抱えているこのバッグは麻衣のもので、麻衣の推してるアイドルのキーホルダーで、確か、名前は。
「『バニラ』のキーホルダーです」
私は、信じる、ということが苦手だ。というより、その行為が複雑で軽んじて行えることではないと思っている、といった方が正しい。信じる、にはリスクがつきものだ。裏切られる可能性だって決してない訳ではないし、一度宣言してしまえば簡単に覆せるものではない。だから、苦手だ。できれば信じる、という選択肢は避けたい。もしくは、限りなくローリスクであることを証明した上で行いたい。信じる、とは酷で、重労働で、精神をすり減らすものだ。
転じて、恋愛も苦手だ。赤の他人を信じて、恋人という関係性を結ぶことができない。学生の時に付き合った唯一の彼氏は思いを告げられて、その思いの強さを信じて付き合うことにした。カフェ、大学、旅行先、さまざまな場所でたくさんの時間を共に過ごし、もちろんベッドの上で普段見せないような部分をひけらかし合った。なのに、相手は別の女の子にもひけらかし合っていた。
あの時の真っ直ぐに私を見る真剣な瞳、緊張で固く結ばれた握り拳、脳内で何度もシミュレーションしたであろう告白文から総合的に考えてローリスクと判断して、信じたのに。
わかってる、こんなの世の中では当然のように起こることで、誰もがそれを乗り越えていることぐらい。時間が経てば解決してくれるものであることぐらい。でも、私にはできない。あの日からずっと大人に、なりきれない。
『バニラ』は、最年少の
私が麻衣のバッグを持って座っていたのは、その『バニラ』のロケ地巡り、通称聖地巡礼とやらに付き合っていたからだ。今回のロケ地は、山の中にある有名な神社。芸能の神様が祀られているところで、彼らも参拝に訪れていた。(ここに向かうまでの電車で観させられた)神社周りの土地も観光地として整備されていて、お土産屋さんや飲食店が軒を連ねていて、私も聖地巡礼関係なく、観光として楽しめている。そして麻衣はというと、最後に彼らが訪れたアイスクリーム屋さんに並んでいた。麻衣と同じようなファンがお店に行列を作っていたのを見た瞬間「私だけ並ぶから、
「『バニラ』ね、俺も好き」
彼は間隔を大きく空けて座った。会話をしているはずなのに、まるで停留所でバスを待つ他人同士の距離感。
「そうなんですね」
「誰が好きなの?」
「誰、とか特にないです」
話しかけてくる割に、目線が合わない。ナンパ目的ではなさそうだ。なぜなら目線は観光客でにぎわう歩道か、ところどころ穴の開いたアスファルトを行き交うばかり。目を見て話すことが苦手な私にとって、好都合だ。
「箱推し?」
「は、はこおし?」
麻衣との会話を思い出せ、脳内でオタク用語を検索する。はこおし、は『箱推し』のことで、確かグループ全員が推し、という意味だったはず。
「いや、そういうのでもなくて」
「そうなんだ、スカートが青色だったから深瀬くん好きなのかなって勝手に思ってた」
そうだ、深瀬くんのメンバーカラーは青色だった。今日の麻衣のロングワンピースは、空良くんのメンバーカラー白を基調としたふわふわ素材のもの。以前、光嶋くんの映画を観に行った時は、黄色のトップスをメインにしたコーディネートで待ち合わせ場所に現れたのを思い出した。
「このスカートはお気に入りで、この間似合うって褒められたから」
「うん、すごく似合ってるよ」
よかった。やっぱり私に、このスカートは似合うんだ。
「誰か待ってるの?」
スカートを眺める私とまだ会話を続けるつもりのようだ。ここまでの会話で大きな害はないので、今の状態を簡単に伝えた。
「じゃあ、その子が戻ってくるまでお話付き合ってもらっていい?」
「はい、私でよければ」
「話聞いてる感じ、『バニラ』のこと少し知ってるみたいじゃん。俺も好きだからさ、いろいろ話そうよ。聖地巡礼中みたいだし」
強いて言うなら、誰が好きなの。この問いに対して、私はいつもこう答えていた。
「みんな良いところがあると思うんですけど、深瀬さんかな」
「へぇ、どこが好きなの?」
「えーっと、ちょっと考えるんで、先に話してください」
「なにそれ、まぁ、いいけど。そうだなぁ、空良は天使みたいな見た目で、ハタチ過ぎてから大人の色気みたいなのがついてきて、そういうバランスが良いと思う。夏弥は普段静かでクールな感じなのに、笑った時の可愛さが異常だよね。あれは犯罪級にヤバイ。深瀬は、そうね、お兄さん的な。近所にいそうな感じがするよね」
彼の話す、好きなところは麻衣がよく言っているものだった。たぶん、ファンの共通認識というか、知らない人に推しの話をするときに使う常套句だ。分かりやすいセールスポイント。
「はい、次はお姉さんの番」
目だけ私へと向ける。せっかく考える時間をもらったのに、好きなところを思い出せなかった。いつもそうだ。自己紹介の場面で、『好きなものを教えてください』と言われても、何も出てこない。その時は確かに好きなのに、誰かに自分を知ってもらうために話す状況になると、てんで出てこなくなる。だから、テンプレートみたいに『好きな食べ物はいちごです』とか『趣味は読書です』とか、面白みもなければ嘘でもない、当たり障りのない答えを出すことでその場を乗り切ってきた。でも、それで良い。誰かに興味を持たれても、応えられる自信も、気力もない。
この時も、『そうですね、お兄さん的なところが良いですよね』なんて、相手の言ったことがまるで私も同じでした、と言わんばかりに便乗しようと思った。
「私は、普通なところが好きです」
出てきた言葉が、思っていたのと違う。
「普通?」
ほら、深堀りされる。なんて説明しよう。
「近所のお兄さんというか、どこか近くにいそうな感じというか、あと、テレビで見てるとどんな人とも仲良く話していて、人当たりの良い、そういう安心感というか優しさが垣間見えて、そういうのって誰もが理想とする普通というか」
「でも、普通ってつまらなくない?」
「私たちの思う普通って、きっと理想と同じぐらい素敵なものだと思います」
「そっか、お姉さんはそう思ってるんだね」
彼はうんうんとどこか満足そうに頷いていた。脊髄で話した割には筋道通して話せたようだ。顔が熱い。手で扇いでも意味がないとわかっていながらも、そうすることしかできなかった。アイスクリームが恋しい。
「面白い話聞けてよかった、俺、そろそろ行くわ」
ほら、あれ友達じゃない?
指差された方を振り向けば、両手にアイスコーンを持った麻衣がこちらに小走りで向かってきている。
「ごめんね、結構待たせたよね」
「ううん、大丈夫」
バニラアイスを受け取っていたら、いつの間にかベンチの左側はぽっかりと空いていた。風がふわりと残り香を連れてきて、冷たいアイスクリームを食べながら、この甘い香りはなんだったかと、しばらくそのことで頭がいっぱいだった。
泣きたくなる香りにしないで。 潮未帆乃花 @shiomi_fff
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