08 騎士道精神?

 店内の客たちのほとんどが、自発的に姿勢を落として低くなっていた。その中心で、男が女性をつかまえたまま、ナイフを振り回しながら周囲をぐるぐるとにらみつけている。カウンターの向こうでふたりの従業員が、かばんに札束を押し込んでいるが、これはおそらく非常時のマニュアル対応で、時間稼ぎの目的もあるのだろう。こうした中で、すたすたと歩み寄る麗人れいとの姿は、誰からも奇異に見られたに違いない。さすがにこの日はタキシードではなかったが、高校生にしては洗練された着こなしのシャツとスラックスに、整った顔には人好きのする笑みを浮かべ、十分に注目を集める力がある。


「寄るんじゃねえ!」

 男のナイフの先が、麗人に向いた。向けられた方は、たじろぎも見せない。

「人質、オレとチェンジしません?」

 誰もが耳を疑う提案を、麗人はしてのけた。

「あぁあ?」

 男は目出し帽の内側から、かみつくような声を上げた。

「ほら、見ての通り、危ないものはなーんにも持ってないでしょ? 女性がそーゆー目に遭うのって、ちょっと見てられないのよね。オレ腕っぷしもないしさ。だから、その人を放してあげてよ」

 麗人は両手をひらひらさせる。


「なんだてめえ」

「ご覧のとおり、通りすがりの軟弱な美男子よぅ」

 犯人の喉から異音がもれた。どうやらあやうく失笑してしまうところだったようだ。フロアには微妙な空気が流れた。このときすでに、麗人の意図を察した黒川くろかわは、吹き出すのをかみ殺しながらさりげなく移動している。


「……いいだろう、こっちへ来い」

 つい応じてしまったことが、犯人の致命的な失敗となった。なぜ応じてしまったのだろうか。後日、余村よむらの設定した聞き取りの席で黒川は、しらけてしまった空気が一因だろうなと述懐している。余村もなんとなく想像がついて、内心でおおむね同意した。


 麗人がゆっくり近づくと、犯人は止まれと合図し、後ろを向くよう命じた。麗人は両手を上げたまま、素直に回れ右をして、犯人に背を向けた。さきほどから呆然としていた客も従業員も、この期に及んで驚いていいのかどうかわからなかった。その若者は、自分の命を危険にさらしていながら、なお微笑を保っていたのだから。


「1歩こっちへ来い、そのままでだ」

 犯人が命令した。麗人は後ろ向きのまま、右足のかかとを犯人の方角へ踏み入れた。直後、犯人は女性を粗雑に突き飛ばし、空いた左腕を麗人の喉にからみつかせ、素早くナイフをつきつけた。

「いたたた、苦ひい、苦ひい、お手柔らかにー」

「うるせえ、黙れ。金はまだか!」

 犯人のいら立ちのボルテージが跳ね上がった。凍りついていた銀行員がはじかれたように、忘れていた現金の詰め込みを再開するが、これも時間稼ぎの一環なのか、鞄をひっくり返して落としてしまい、詰めなおしを余儀なくされていた。ひとまずの危難から床へと突き転ばされた女性は、起き上がろうとして、麗人と目が合った。涙の浮かび上がったきらめく瞳が4つ出会い、麗人は精一杯ウインクしてみせた。もっとも麗人の方で涙をにじませていた理由は、感情的なものでなく、喉を絞められた苦痛による生理現象だったのだが。


 ――さあ、最大の危機はとりあえず切り抜けた。こっから先は余興のオマケよ、はるかちゃん。

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