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「可哀想に。まだ若かったのにねえ」


 叔父の葬儀のため、赤の氏族集落を訪れた八歳のターリクは、悄然とした心地で眼前の灰色を眺めていた。


 一度掘り起こされて、変色した砂の中。叔父の肉体は熱砂に覆われて、次第に砂へと還ってゆく。精神は、天に還る水に乗り、そろそろ水神マージの御許みもとへたどり着く頃合いか。


 叔父が、興奮した駱駝から落ち、頭部を打ち付けて意識を失ったと耳にしたのが、昨日の早朝。ターリクは、母の駆る青き砂竜さりゅうの背に同乗し、昼夜問わず砂丘を駆け抜けた。


 砂漠には砂竜と共に暮らす氏族が四つあり、ターリクは砂漠東部を治める青の氏族で生まれ育った。叔父は南方赤の氏族長の弟であり、彼が事故に遭ったのも、赤の集落近郊であった。


 ターリクが暮らす集落から、叔父がせる南方まで、ほとんど休みなく砂竜を走らせても、丸一日かかる。南方赤の集落に着いた時には、叔父はもう息を引き取っていたのであった。


 生前と変わらぬ、穏やかな表情だ。眠っているだけなのだろうと思い、何度も揺すってみたし、何度も呼びかけた。何度も何度も何度も。


 しかし叔父は指先一つ動かさず、どんどん青白くなっていった。


 砂漠が灼熱の陽光に焼かれる時刻が近づいた頃。ターリクは叔父から引き離されて、少し離れた灌木かんぼくの陰から、大人たちが叔父の身体を砂の中に横たえるのをぼんやりと眺めた。


「このままじゃあ叔父さん、息ができなくなっちゃうよ。出してあげて」


 思わず伯父である赤の氏族長に縋りつくのだが、彼は顔を歪め、唇を噛み締めて、しかし涙は零さずにきっぱりと言った。


「ターリク、おまえの叔父さんはもう、水に還ったのだよ。あとは身体を砂に還してあげないと」


 砂漠の民にとって、水に還る、砂に還る、という言葉は死の婉曲えんきょく表現である。幼いターリクも理解していた。


 伯父の口から明言されてやっと、ターリクは全てを理解する。敬愛していた叔父はもう、死んでしまったのだと。



 丸一日、環境の過酷な砂漠を横断してきたので、ターリクと母は赤の集落にしばし滞在し、旅の疲労を癒すこととなった。


 薄暗い天幕の中、一人で悶々と過ごす。時々叔父の姿が脳裏を過り、涙が溢れた。


 きっとその涙は天に還り、叔父の元へとたどり着くだろう。もっと泣いて、どれだけあなたを敬愛していたのかを、水になった叔父本人に伝えたいと思った。


 叔父は、ターリクの唯一の理解者であった。


 ターリクは幼少期より、弱視に悩まされていたので、友人や周囲の大人たちと同じように、羊を追ったり駱駝を駆ったりすることはなく、毎日物静かに書物を読んで過ごした。弱視、といっても極度の近視であり、時間をかければ手元に置いた書物の文字を追うことは可能であったのだ。


 父や母はそんなターリクをどのように育てるべきか、思い悩んでいた。


 砂竜族は、勇敢であるべし。部族全体に浸透した価値観である。しかし目が見えぬとなれば武勇を求めるのは酷であり、次第にターリクは集落のはみだし者となってゆく。そんな時期、所用で青の集落を訪れた叔父と出会ったのだ。あれは、過去と現在の全てを知る水神の導きだ。きっと、運命というものなのだろう。


 叔父の葬儀の二日後。泣き疲れて微睡まどろみの中にいたターリクの耳に、女たちの噂話が届いた。


「リダーがね、もう昨日から一口も食事をとらないの」


 リダー。確か、叔父の砂竜の名前だ。女たちの話を総合すれば、リダーは、相棒であった男の死に衝撃を受け、憔悴しょうすいし食事を拒んでいるのだという。


 僕も同じ気持ちだ、と思った。気づけばターリクは天幕から滑り出て、砂竜リダーの元へと向かっていた。


 久方振りに薄闇から出ると、激しい陽光に目が眩む。ただでさえ視野が悪いのに、いっそう景色がぼやけて見えて、ターリクは目を擦った。


 眼前に広がる色彩が落ち着いた頃合いで、ターリクは砂竜の群れが暮らす囲いへと足を向ける。リダーがどの個体なのか、すぐにわかった。彼女は群れの端、柵の陰で蹲り、ただ目を閉じていた。


「リダー」


 反応はない。脇腹が膨れたり萎んだりしているので、呼吸はしているのだろう。もう数回呼びかけて、とうとう赤銀色の首に触れた。砂竜はやっと瞼を上げた。


 真っ黒な瞳が、ターリクを見上げる。その視線が、寂寞せきばくを訴えかけているかのように見え、ターリクは「うん」と頷いて腰を下ろした。


「わかるよ、僕も寂しい。僕は叔父さんが大好きだった。叔父さんは、僕に生きる目標をくれたんだよ……」


 砂竜に話しても伝わるまいとは思ったが、自然と唇からは、叔父との思い出話が零れ落ちた。


 六つの歳に再会してから、二年しかなかったけれど、その間叔父は、何度もターリクに会いに来てくれた。時には希少本を贈ってくれて、「無駄遣いだわ」とターリクの母から呆れられていた。


 一つ一つ、大切な思い出が砂に染み込んでいく。優しくて強くて、少し騒がしかった叔父さん。きっとリダーも同じように、その胸にたくさんの思い出を秘めているのだろう。


 大切な記憶を砂粒一つほども取り落としたくなくて、ゆっくりと噛み締めながら、叔父の物語を紡ぐ。リダーは時折鼻を鳴らしながら、寄り添っていてくれた。


 もうこれ以上語ることがないと気づいた時、大きな喪失感を覚えた。それと同時に、叔父がどれだけ自分を案じていてくれたのか、腹にすとんと納まった。


 叔父はいつも、ターリクが幸せに生きられるようにと願っていた。泣いてばかりいては、きっと彼は悲しむだろう。そしてリダーが餌である砂を食べず、衰弱していく様子にも、胸を痛めるはずだ。


 ターリクは腰を上げ、柔らかな砂を両手いっぱいに集めてリダーの口元へと運ぶ。嫌がるように顔を背ける砂竜。しかしターリクはもう一度、砂を鼻先に押し付けた。


「死なないでくれよ。叔父さんが悲しむでしょう。それに僕も……これからも君と、叔父さんの思い出を分かち合いたいなあ」


 リダーの黒い瞳がじっと砂を見つめている。やがて、おずおずと口を開く。リダーが砂を食べたのは、二日振りだったという。


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