Episode8.授業開始

凍りついた温度の中で、頭の中に現実が反芻していた。

『記憶が…なくなる?別の人生が自分の人生になる…?』

混乱する頭の中でただ、ひとつだけ確かなのは、自分がとんでもない世界に入ってしまったことだけ。

この才能の代償はあまりにも、大きすぎる。

私たちの混乱した空気の中に先生の明瞭な声だけが、響く。

感情が世界に追いついていなかった。

ただ、自分が頭を必死に動かして、まるで別の世界にいるように客観的な世界だけを切り取る。


「それじゃあ、教室を紹介していこうか」


先導されるままに、教室のドアを開けるとそこは一気に学校とは離れた場所。

この廊下を歩いている時には、誰もドアの向こう側に未知の世界を教える教室があるとは思わない。

建物の端にあるエレベーターから地下2階まで降りると、

HR教室の前の廊下より天井の高い廊下が広がっていた。

開放的ながらも心もとないような廊下を小さな幅で歩くと、

HR教室のドアと同じく、重厚な雰囲気のシックなドアが並ぶ。

1番エレベーターから遠いドアを手元のIDで先生が開けた。

ドアを開いた途端、視界に入ってきたのは重厚なドアには似合わない一般的な理科室。

異様に天井が高いことを除けば、普通の理科室だ。

ガタンと重くドアが閉まり、鍵の閉められる音が聞こえた。

見知らぬ部屋に取り残された私たちは、合わせ慣れない顔を合わせる。

顔中に浮かぶ混乱が空気を支配していた。

ガチャンと盛大な音が鳴り、肩が大袈裟にはねる。

音がした正面からドアにぶつかりながら、

出てきたのは汚れた白衣にキシキシと音の鳴りそうな髪の毛を伸ばし切った年齢不詳の恐らく女性。

丸くて、目立たない縁のメガネがエヘヘと笑いを提げながら歩いてくる。


こんにちはぁ…


焦ったように小走りでこちらに来る白衣の人の声は思ったよりも可愛らしく、若い。

ジタバタと落ち着きがなく、小動物のような印象だ。

ふぅ…と息をついたその人はギリギリ聞き取れる早口で話し出す。


ここは化学室。我が学校は2年間を6学期に分ける特殊な6学期制ね。

1〜3学期、つまり最初の一年で高校3年までの化学基礎カリキュラムを終えて貰う。

1学期では週に4コマ。

その後は科学クラスの2人は、化学応用を選択して学習して貰う形よ。


相手が慌てていると自分が落ち着くというのは、本当らしい。

この人が関係者であるということは、理解できた。


「いや、誰だよ?」


誰かがそう呟くと女性はまた、あたふたと訳もなく動いて、私たちにぶつかりそうなほど近くに来る。

ペコペコと頭を下げながら、私たちに微笑んだ。


私は第27代卒業生の中間なかまはなです。皆さんの教科の理科科目4つを担当します。

出身クラスは科学専門クラス専攻。よろしくお願いします!


どっちが歳上かも分からないこの状況下でやけに意志だけは強く、圧倒される空気。

これが、この世界を生き抜いていく人なのか。と思った。


おもむろに先生がIDを操作すると、重い機械音が聞こえてきた。

四方の壁がパックリと開き、壁一面に大量の何かが置いてある。

右側の壁には恐らく、実験で使うであろう道具。フラスコなんかが見えた。

左側には、大量の瓶が置かれている。

正面の扉にも大量の瓶が置かれていた。

鳴り止まない音の中で天井も開き、今度は大量の本が降りてくる。

唖然と情けなく口を開いている私たちの前で、絶妙に空気を読まずに話を進める。


ここの化学室では、いろんな実験が行われるから、危険な物質も沢山あるの。

だから、万が一ここで爆発が起こったとしても他の部屋に被害が及ばないようにしてある。

右手側にあるのは実験なんかで使う道具。

左手側にあるのは、基本的な世界中にある物質たち。正面もそう。

天井から降りてきている本は文献。化学に関係ある本は、ここにほとんどあると思ってくれて構わない。

この部屋の中で大体の授業は完結するから。


煌めいた瞳で部屋中を見渡す先生の空気感に圧倒されていた。

そんな中で嫌悪に満ちた表情が目立つ。科学クラスの2人は、睨みつけるように部屋を眺めていた。

自分の過去と向き合うと決意しても、すぐに自分の中で割り切ることが出来るとは限らない。


そこの自己嫌悪に染まってる2人。君たちはこの2年1番ここに通うことになるからね。

そんな自己嫌悪に染まってる時間はないよ。

さっさと割り切って、前に進め。

化学は確かに今まで、非人道的な使い方をされてきた。

この組織に入ったからには、人を殺す兵器を作らなければいけない日が来る。

でも化学なしではこの世界は始まらなくなった。歴史を進めてきた。


鋭い言葉が2人の脳天を貫く。威圧を放つ雰囲気の変わった中間先生は、前を向いた2人に笑う。


それが出来るのは君たちだけよ。

口調を和らげて、2人に手を差し伸べる。2人はまだ、スッキリした顔はしていない。

それでも前を見る勇気だけは出たらしかった。


人は変わっていく。時代も変わっていく。不変なものは、ない。

だから人は進化を強いられる。

そしてその変化は時に大きすぎる過ちにもなる。ああ、この話は社会の先生がするわね。

でも、一歩を踏み出す人がいなければ、時代に人が追いつけなくなる。

その先頭を歩く人間こそ、科学者なの。

時代の先導者になるためには、まずあなたたちが世界に追いつくのよ。

全て背負って、時代の先に立ちなさい。


バシンと痛々しい音の鳴った2人の背中。曲がっていた背中が少しだけ、地面の垂直になった。

押されるがままに思いドアの向こう側に出される。

ヒラヒラと可愛らしく手を振る女性は、この一瞬で私たちの先生となった。

白衣は綺麗に整えられているように見える。

閉じられたドアの先に、少しだけ明るい自分達の未来を見た気がした。


「顔が変わったな」


橋本先生の声に我に帰る。

中間はああ見えて、仕事が出来るからなぁと満足げに言いながら私たちを言葉なく先導する。

隣の部屋のドアが開いた。

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