Episode2. 空気の読める男


ほぼ人生初めての電車だ。

仕事をしていた頃は移動は基本車だったし、があってからは人混みを避けていた。

最寄りの六本木駅から日比谷線2番ホームの各停東武動物園行に乗り込む、切符の値段は170円。

乗り換え駅の霞ヶ関駅でおり、丸ノ内線2番ホームの各停茗荷谷行で終点まで。

そこからは少し歩けば学校に到着だ。

言葉では簡単に言える。

でも行動できるかは別だ。

これだけ念入りに調べても普通のことを経験したことのない私には難解な迷路のようだろう。

もう後何年も足を踏み入れないであろう空っぽの自室を眺めた。

ここには「片桐なな」に押しつぶされた「仲下綾華」が生きていた。

そして、この狭い部屋から私は自由になるのだ。片桐ななをこの部屋に置いて、出ていくのだ。

「仲下綾華」に届いた推薦状を握りしめて、私は小さく息を吐く。

私は逃げられないのだと悟っていた。それでも、「仲下綾華」でありたいと願った。

「私」に背を向けて、ドアをパタリと閉める。階段を歩いて降りると両親は仕事へ行っていた。

親までも「仲下綾華」に関心はないのか。ははと下手になった演技で笑って予定より早く家を出た。


計画性のおかげか世の中の利便さのおかげか。さほど迷わずに霞ヶ関駅まで来れた。

朝早いおかげか人も少ない。

マスクをつけてメガネをかけている私が、片桐ななだとわざわざ思う人はいないはずだ。

このまま平穏に学校に着くことを望んでいた私の僅かな希望が、粉々に砕かれたのはホームに降りた時だった。

周りに急激に人が増え、同じ制服を着ている学生が所狭しに並んでいる。

くらりと頭が重くなった。大丈夫。自分に意味もなく言い聞かせながら、丸ノ内線のホームへ行く。

ここで倒れでもしたら、目立ちたくないどころの騒ぎではない。

大丈夫。ななの時に普通を演じることを何よりしてきたはずだ。簡単な演技をすれば…。

電車に揺られる脳が気持ち悪さと震えを大きくする。私の体は、目の前の棒に支えられていた。

「ねぇ?あの人、片桐ななに似てない?」

ギリギリ聞こえるような位置で、私とは異なる制服を着た生徒が私を見て言った。

ヒュと喉が情けなく鳴る。

演技だ。演技。ななじゃない私を演じるんだ…。

後ろの女子高生に見えないように顔を隠しながら、ただ普通であることを唱えた。

次の駅が茗荷谷駅になり、到着と同時にふらりと空気を吸いに出る。

壁際により、時計を眺めると時間に余裕があった。暫くここでジッとしようと俯く。

怪訝な目が脳天に刺さった。

ああ、こんな目は苦手だ。本当に…苦手だ…。どくどくと心臓がしつこく鳴る。

怖い…怖い…怖い!

理由のない恐怖が言葉を失わせて、身体中の機能を奪う。神経が尖っていた。


「ヒッ!?」

自分の手首に、知らない体温がある。思わず顔を上げると目の前に青みがかった瞳。

心の底を見られたように身動きできなかった。

「人混み、苦手なんだよね?こんなところにいたら悪化するよ」

模範通りに笑った顔が、私を幼い子供のように宥める。

何で、そんな事がこの一瞬で分かったんだ、この人…?

気持ち悪くなって、身を引くと掴んだ腕を引かれる。

舐めるように見ると彼が同じ学校の制服を着ていることに気付く。

ああ、頭がいいから。私が分かりやすかったし、状況から推理したのか。

妙に納得すると警戒心が薄まっていった。

ん?待て。

もし彼が特別クラスの生徒じゃなかったら、私は隠れて教室に行かなきゃいけないのにどうする?

彼はこんな状況下でも人に声をかけられる、優しくて過干渉な人間だ。

絶対教室まで着いてくる。どうする…言い訳、どうする?

「大丈夫です!私、行くところがあるんで!」

バッと身を引いて不器用に笑うと、彼は面を食らったような顔をしてから破顔した。

ゆっくりと耳元に顔を寄せ、低い声で囁いた。

「君も、特別クラスなんだろ?慌てなくてオッケーだよ。一緒に行こ。あと同級だからタメ語ね」

大人。そんな印象のある彼は私の目を逃さぬように見ている。

私は無意識に彼の横に立っていた

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