第4話 過去2

 履き慣れない草履でつんのめり、藁にもすがる思いで伸ばした手が誰かのスーツに触れた。続いて、アップにした頭が誰かのネクタイにぶつかる。

 今日は大学の卒業式。生まれて初めて着た袴は扱いづらく、なのにまたもや終電を逃がしてしまって、私は研究室でフラフラになっていた。

 慣れない日本酒を同期から強要されたせいか、少し眩暈がする。でも、どこの誰とも分からない人にいつまでもしがみついているわけにもいかないから、漸く顔を上げようとしたその時、肩に衝撃を受けて再びよろめいた。笑い声がすごい勢いで遠ざかって行く。どうやら、走り抜けて行った酔っ払いの学生にぶつかられたらしい。

 嵐が去って我に返ると、ほとんど抱きかかえられるようにして支えられていた。相手の心臓の音さえ聞こえるくらいに密着している。

スーツに包まれた腕から視線を移し、今度こそ、自分の頭一つ上を見上げた。

くっきりとした眉に縁取られた、意志の強そうな目に射抜かれたようになって、すがっていた手に思わず力が入った。喉がつかえてお礼の言葉が出てこない。

 息を吸って、吐いて、吸って…お礼を言おうとしたのに、転がり出たのはとんでもない台詞だった。

 ずっと言わずに我慢してきたことだったのに…。墓場まで持って行きさえすれば、この後何年もため息なしに桜を愛でることができたかもしれないのに…。

 あの瞬間のことは、今でも鮮やかに脳裏に浮かぶ。

「まあ、あれだな。…何て言ったらいいのかな。」

抑圧され続けて、遂には溢れ出てしまった私の本音を聞いた後、先輩は眉間に皺を寄せて考え込み、そしてこう言った。

「…そうだな。」

思案する先輩から色よい返事など期待できないと分かっているのに、それでも私は祈るようにして次の言葉を待った。待つしかなかったから、ただひたすらに。

「愛しさなんて、かみ殺していれば、すぐに忘れられるから。」

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