第2話 過去
当時私は研究室から電車で一時間の所に住んでおり、研究発表の前などは実験が深夜まで終わらず、当然のように終電を逃しては研究室に泊り込むこともしばしばだった。
その日も御多分に漏れず、研究室のソファで仮眠を取っていたら、不意に近くで人の気配がした。パッと目を開くと、すぐ側に先輩の横顔があった。なぜか、地べたにPCを置いて一心不乱に論文を書いているようだ。
視線に気づいたのか、先輩はPCを睨んだまま、刺すように言い放った。
「何。」
邪魔するつもりはなかったんだけど…と、少し怖くなった私は口をつぐみ、毛布を目のすぐ下まで引き上げた。
私のチラチラ恐々送る視線に観念したように、先輩は漸くPCの画面から目を離して
「どうしたの、こっち見てないでさっさと寝ろよ。」
と若干軟化した口調で尋ねてきた。しかし、あくまで面倒くさそうだったから、私は
「さっきまでは御自分の机で仕事しておられたのに…。」
と呟くのがやっとだった。
そうなのだ。立派な机と椅子があるにもかかわらず、この人はなぜ遠く離れたソファの前で小さくなっているのだろう。
すると先輩は困ったように微笑みながら、無防備な私の心へ無造作に手榴弾をポンッと放り込んできた。
「お前がいると気が散るんだよ。」
これは…こたえた。普段から毒舌で鳴らしている先輩ではあったが、遠くから眺めている分には害がなく、密かに思慕していただけにこれは辛かった。
思わず涙目になったのを隠すため、毛布を頭からスッポリかぶった途端、しかしそれは問答無用で引き剥がされてしまった。
「ごめん、ごめん。」
そう言って先輩は私の頭を乱暴に撫でた。
「説明が足りなかったな。」
何の説明が始まるんだろう、とソファの上に身を起こそうとした私を手で制すると
「お前、寝てるにしてはあんまり静かだからさ、ひょっとして息してないんじゃないか、死んでるんじゃないかって気になって…、だから近くに来たんだよ。」
と言って、これで説明は済んだとばかりにすぐにPCに戻っていってしまった。
そういうことならと安心した私はすぐに眠りに落ちた。目が覚めたのは教授、つまり当時の准教授が出勤してきた時のことだった。
「君たち、何やってるの! 」
相当ビックリしたような声にパッチリ目を開けると、目の前に先輩の顔があった。息がかかりそうなほど近くでも、欠点一つ見当たらない完璧な顔立ちに私は思わず見入ってしまった。しかし先生は、そうして眠り込んでいる先輩を無残にも叩き起こすと、ちょっと冷やかすような、半分心配しているような表情になって問うた。
「夜這い? 」
「…え。」
寝ぼけ眼の先輩はぼんやりと先生を見上げた。先生はさりげなく私達の間に割って入ると、何でもないような口ぶりで続けた。
「研究室内でレイプとかはやめてね、洒落にならないから。」
「あ、それはないですよ。」
あくび交じりで、しかし間髪入れずそう答えた先輩の視線が、一瞬私の方へ漂ってきたものだから
「こんな女、襲いたいって酔狂者はこの研究室はおろか、地球上に一人もいませんから。あ、宇宙にならいるかも。」
とでも言われるのかと身構えたが、次に打ち出された台詞は、そんな予想よりもはるかに深く私の心をえぐった。
「俺、彼女いますから。」
その後、自分が何と言って退室したのかはもう覚えていない。顔洗ってきますとでも言ったのかもしれないが、要するにいたたまれなくなってトンズラしただけだった。この時刺さった先生からの同情的な視線は、今もまだ私の背中に芯を残し、その傷は風化することなく、むしろ更に奥にまで浸透していっている気がする。
恋人がいるかもしれないと薄々思わないではなかった。でも、できれば知らずにいたかった。これで、遠くから先輩に憧れることさえ許されないんだなあと思うと、胃に石が詰まったように全身がずっしりと重くなった。
もっとも、失恋した相手と毎日顔を合わせなきゃいけなくて辛かった、というそれだけならほろ苦い青春の一ページにもなりえたのだが…。
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