ある研究室の追憶
市井味才
第1話 現在
教官室から見える絶景の桜並木に私は思わず知らずため息をついていた。断っておくが、これは感嘆のではない。むしろ、落胆のため息と言った方が相応しいだろう。
勿論、私とて大多数の日本人に洩れず、桜は好きだ。しかし、毎年この時季になると、狂いそうなほどに気が塞がる。なぜなら、嫌でも思い出してしまうからだ。永遠に失ったもののこと、もう決して戻らない時のことを。
先輩を見送ったあの年の春も、今と変わらぬ満開の桜がこの研究室を彩っていた。そして、その咲き誇っていた桜が散り、爛漫なツツジの季節がきても、別離の悲しみは少しの減衰もなく私を打ちのめした。もう隣にいないあの人が別天地でとうの昔に私を忘れ去っていることを、嫌というほど理解していたから。
「先生、そろそろ花見に移動しようと思うんですが…。」
遠慮がちに顔を覗かせた学生の声に、とめどとなく広がりかけていた私の追憶は、はたりと途切れた。
「…ありがとう。今、行く。」
空間的にも心理的にも閉ざされた教官室から、私は一歩足を踏み出した。そしてふと振り返った時、奇妙な既視感の波に翻弄され、ここがいつなのかさえ分からないような、心許ない想いが私の胸を打った。
ああ、私もかつてはこの教官室をオドオドしながらノックしたものだった。丁度さっきの学生のように。あの学生は…何て名前だったかな。もう忘れてしまった。いや、自分の本音を探ってみれば、初めから覚える気などないのかもしれない。
しかし、それさえもどっちだっていい。あの子もどうせすぐにいなくなるのだから。私の時代でさえ、博士課程まで残る学生は稀だった。ましてや、博士としての未来に夢を描けない昨今の情勢では、学士の一年間で研究室を去る者も決して珍しくはない。
学生とともにエレベータを待つ。
所在なさげに佇んでいるのが配属されたての学部四年生。内部亀裂などおくびにも出さず、仲良さそうに笑いさざめいているのが修士一年生。枯れた様子でぐったりふらついているのが修士二年生。これが、私が准教授として預かる研究室のメンバーだ。博士課程の学生は今のところ、私の代を最後に一人も輩出されていない。
そんな彼らを見るともなしに眺めていると、上等な方の教官室が勢い良く開いた。迫りくる扉の衝突を何とか回避した学生が、後方不注意で私にぶつかる。慌てて振り返って詫びて来る学生に、私は気にするなと首を振る。悪いのは君ではなく、明らかに…。
「元気にしてる? 」
あなたが一番元気ですよね、と突っ込みたくなるような声量で無差別殺人の如く学生に話しかけ始めた、このお方である。と、思っていたら
「教授~。勘弁して下さいよ。この扉硬いんですから、ぶつかったら洒落になりませんって。」
と、さっき私にぶつかった学生がキッチリ抗議してくれた。
ありがとう。私は声には出せなかったものの、心の中で彼に対して感謝を述べる。私にとっては直属の上司なので、言いにくいことを代弁してもらったようなものだ。
すると、教授はどんな天女の羽衣よりもなお軽い調子で詫びた後
「でも、そのおかげで研究室のアイドル・准教授ちゃんに最接近できたんだから、僕に感謝してくれても良いくらいじゃない? 」
と意味不明な発言をして例の学生を赤面させた。
ちなみに、この研究室恒例の花見は私がまだ学生で、この教授がまだ准教授だった時には既に年中行事と化していたほど、歴史が古い。
花見と言いながら私は桜をろくに見ていなかった。私が見ていたのは別の花、長くても三年、短いとたった一年しか留まらない研究室の学生たちだった。と言うのは何も
「学生時代が花だよ。就職すると大変なんだから。」
などと上から目線がしたいわけではない。そんな破廉恥な発言は学生時代に苦労しなかった者、もしくはその苦労を幸運にも健忘してしまった者の特権であり、私はその恩恵にあずからないからだ。
私が言いたいのは、研究室在籍中の六年間が私にとっての青春時代だったということだ。なんだ、学生時代至上主義という点では結局同じじゃないか、と言われるかもしれないが、それも違う。もし私が件の至上主義者なら、青春時代ではなく黄金時代と言っただろう。
青春。それは、思い返せば良いこともあったが、真っ只中にいる時は辛いことの方が何十倍も多く、自分の無力さ、不甲斐なさ、全部ひっくるめてにっちもさっちもいかなくなって、何度でも死にたいと思わずにはいられなかった時期を指すのではないだろうか。事実、当時の私の想いは
―戻りたい昨日も、突進すべき明日もなく、
ただ耐えるだけの今日がある。―
という具合だったからだ。耐えられなくなって眺めの悪い屋上に漂い出たことも一度や二度ではない。眺めが悪いのだから、何をするためか…とは言うだけ野暮だろう。
私の場合、青春時代の良い部分は学問や人との出会いであり、その他を占める苦痛はその出会いの継続にあった。学問の継続を苦痛として懐古するのは、好きで選んだ研究テーマでも同期と比べて成果が出なければ、焦り苛立つこともあるというように特筆すべき珍事ではないだろう。しかし、青春の重要な部分を占めるほどの、ある人との出会いが苦痛に転じてしまったことには、少々注釈が必要かもしれない。
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