第一章 人間の街で頑張る幼ナーガ

第5話 帰りたい幼ナーガ


 穏やかな森の中に温かい木漏れ日が注いでいる。


 清涼な空気は命を洗うようで、天の届ける祝福のように小鳥の囀りが響く。

 散歩をしたら自然と鼻歌が零れるような陽気である。


 しかし竜人は土の上にどっかと胡坐をかいて眉を顰めながら一人唸っていた。 


「人間どもは何故この愛らしさが分からぬ……!」


 竜人の緑眼を向けられた先では蛇尾族ナーガの少女が草の茂るしっとりした地面に横たわって、浮かない顔色で彼を見つめている。


 少女は時折尾っぽをくねくねさせながら白い肌を土に擦りつけてはなんとも言えない残念そうな表情を見せる。ぬかるんだ泥の肌触りを恋しがっているらしい。


 最後の沼地楽園を失って数日後。


 竜人らの住んでいた所は幸運にもそれほど人間の暮らす土地と離れていなかったので、二人は早速領土の境を越えて人の街へ向かって、向かったはよいものの街へ入ることすらできずに戻って来たところだった。


 璧門が開かれることはなく、降り注ぐ矢に追い立てられながらこの森中まで後退してきた。


 衛兵達は彼らの姿を視界に認めるなり敵襲がやってきたと早合点したらしく、竜人が何を叫んでも聞く耳を持たない。

 少女は飛んでくる矢に怯えてぷるぷる固まって動けない様子で、危なっかしいことこの上なかったから竜人は少女を抱えてすたこら逃げ去ったという訳である。


 少女は早くも死を悟りかけた。しかしこれに懲りて竜人も無謀な試みを諦めてくれるかもしれない。

 と思ったら、彼は何やらぶつぶつと穏やかならぬ事を口走り始めた。


「……いっそ軟弱な壁門如き力づくで破砕してしまおうか」


 少女は肝を冷やした。

 剣や弓を携えた大勢の人間に囲われる光景を頭に思い描けば、それだけで刻一刻と寿命が縮んでゆくようであった。


「ガレディア」


 少女が小さな声で竜人の名を呼ぶと、彼はきょとんとして少女に目を向ける。


「む? どうした?」

「お腹空いた」


 少女はすべすべ柔らかいお腹を両手で抱えて、空腹そうな顔で男に訴えた。


「そろそろ昼餉の頃合いか。側に川がある。其方の苦手とする清流だが魚は豊富に捕れる。川へ向かおう」

「うん」


 少女はほんのり喜色を浮かべて頷いた。

 半分は演技だった。


 川まで歩いたり、ご飯を食べたりしている間に竜人の気が変わってくれるようにと運頼みに祈るのだ。抵抗と呼ぶにはささやかだが、少女にとっては大真面目の一手だった。


 お腹が空いているのも半分は本当である。少女の頭の片隅ではこの森の川で捕れるお魚はどんな味がするのだろうという好奇心が少しずつ膨らんでゆく。


 二人が歩き始めようとした時、竜人が唐突に動きを止めた。鋭い眼光でじっと一方向を睨む。後ろにくっつく少女が前に出ないよう片手で制する。

 木々の向こうから何かくるらしい。


 人と魔族の領土を分けるこの森はどちらの領域とも判然としない中立地帯だった。


 人のフラノスの側では明るく穏やかだが、夜のノクティスへ近づくにつれて暗く鬱蒼とした魔の領域へ変じてゆく。やって来るのは魔物かもしれないし、人間かもしれない。

 先の件を受けて人間が追っ手を仕掛けてきた可能性もある。


 姿を見せたのは人間の若い女だった。


 輝くような金の髪を後ろで一つに結って、柔和な顔立ちだがダークブルーの瞳の奥には気の強そうな光を宿している。


 灰色の肌着に若緑のエプロンという出で立ちで、人の街が寄越した刺客という風体ではない。背丈は竜人の胸程であろうか。



 女は口元に微笑を浮かべて尋ねてきた。



「困っているんじゃありませんか? 璧門の前では災難でしたね」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る