第4話 戦慄する幼ナーガ


 男が肉を噛みながら呟いた。

 

「しかし困った」

「どうしたの?」


 少女が泥塗れの腹と胸を仰向けて男を見上げる。

 綺麗な瞳の中に不安が過る。


 男は腕を組んで眉を寄せた。


魔族我らの領域に其方の好む沼地がもうない」


 二人はこれまで王軍に発見される度ごとに住処を変えて難を逃れてきた。

 これまで暮らしたことのある地は監視の目があるから戻れない。しかし未だ王の目を知らぬ秘境はここで最後だった。


「沼のお魚、もう食べられないの? いっぱい捕って来るって約束したのに」


 少女が悲しそうに問いかけると、男は難しい顔で返した。


「まあ待て。其方はいつ何時もその美しい肉体を維持するべくよりよき環境に生きねばならぬ。今どうにかする術を考えている」


 男はうんうん唸って何事か思案し始めたので、彼女は男の言葉を待つことにした。いずれにせよ少女にできるのは男の方針に従うばかりである。


 少女が愛するものはいつだって茶色く淀んだ沼と、お魚の山と、ひんやりした泥と、それから、少女を傷つけない、安心して側にいられる誰かだった。


 それだけあれば少女はこの上なく幸せだった。他に何もいらなかった。ものの美醜など心底からどうでもよかった。少女の生きているうちで経験した出来事は、美しさなど呪いそのものであると信じたくなるようなひどいことばかりだった。


 しかし男は少女が美しくあることを喜んだ。少女の美しさの為に死ぬるなら名誉だと宣った。男は他に何も求めなかった。


 だから、少女はせめて男の讃える美しさを呪わずに生きたいと願った。

 せめて、男の寿命が尽きるその時までは――――


 男が唐突に顔色を変えて叫んだ。


「名案が浮かんだぞ!」

「めいあん?」


 少女が不思議そうに尋ねると、男はかつてなく調子のいい声音で宣った。


「うむ! 最早万事は解決したと言っても過言ではない!!」


 一体どんな策を思い付いたのか少女には想像もつかないが、男がこれだけ自信に満ちて言い切るのだからよほど素晴らしい案に違いないと、少女は信じた。


 男は瞳を輝かせて言った。



人の地フラノスへ行こう!!」



「え」


 少女の形相が凍りつく。


「か、隠れてこっそり暮らすの?」


 少女が努めて平静に尋ねると、男は冗談だとでも言いたげに笑った。


「ふ。謙遜するでない。其方は俺が見初めた童女である! 魔王我らの王にさえ求められるこの始末! やたら数ばかり多い下賤な人間どもが斯様な幼子の愛くるしさにひれ伏さぬはずがないではないか!」


 男は何の根拠もない己の考えに酔っていた。少女を溺愛するあまり時折滑稽な考えに至るところは男の欠点である。


 しかしこれは竜族に生まれた者を等しく苛む病気のような性に因のあることであるから同族であれば笑う者はいない。哀れなのはそんな実情を全く知らぬ少女である。


「よいかセレン。人の土地に行けばまだまだ泥と川の楽園はいくらでも見つかろう。夜の地ノクティスの外なら我らが王もおいそれと手出しはできぬ。其方はそこへ行って己が美で未だ本物の可憐を知らぬ哀れな人間どもを篭絡し築いた親衛隊をこき使って美しき上位種に奉仕する尊さを噛みしめさせてやるのだ!」


 意気揚々ときっかいな計画を語り始めた男の言葉は今や少女の耳に入らなかった。


 少女はすっかり恐ろしくなって、小さな声でささやかな抵抗を試みる。


「でも、人間の土地に踏み入ったら、ゴウモンされて殺――――――」

「丁度良い機会だ! この際である! 其方のいとけなき美貌を全人類に知らしめてやろうではないか! 我ながら冴えているぞ俺! ふふふふ、はっはっはっはっは!」


 男は完全に己が世界で悦に浸っていた。


 真っ青になって震えあがる少女の心中など露知らず男は高らかに笑うのであった。



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