第3話 食欲少なめの幼ナーガ
*
そこここに緋色の槍が突き立っている。
炭のような匂いが鼻を突く。
見渡せば男の巨躯を優に三倍は超える巨大な飛竜の死骸がちらほらと聳え、燃え盛る幾本もの紫炎が沼地を焦熱地獄のように焼き焦がしている。
それらに隠れて見つけにくいが、ぬかるんだ泥に半ば埋もれるようにして鎧に身を包んだ魔物達の遺骸が無数に転がっている。
男は立ち込める煙の中を血塗れで一人歩いている。
足取りは確かだ。
背後には泥の深く沈み込んだくっきりと大きな足跡が続いている。
空を見上げれば引き返してゆく王軍の騎兵隊が遠くの方で黒い塊になっている。少しずつ霧が戻ってそれも薄ぼんやりとしてくる。
男は泥水の流れる川まで赴くと、懐から一本の短刀を取り出した。石の柄から少女の爪と同じ素材で作られた刃が伸びている。
男はそれを川中に投げ込んだ。短刀は急流に沈んですぐに見えなくなる。
わずかの後、ばしゃりと音を立てて少女が水の中から顔を出した。少女は待ちかねた様子で、男の血塗れなのに気付いて顔を歪めた。
そうして少女は震えていた。
男は尋ねる。
「大事はないか?」
「うん」
「なによりだ」
男が安堵の顔色で言うと、少女の方が男を見つめて心配そうに呟く。
「血、出てる」
「む? 常から聞かせているであろう。俺は武人である。傷は武勲だ。この程度ではそれにも至らぬ。其方の絹の如き柔肌や金銀財宝にも劣らぬ美麗な鱗に傷の一つでもつこうものなら、そちらの方が余程の不幸である」
男は真っ赤な液体に染まった体で淡々と語る。
「そんなことより、水は熱くなっていまいか?」
「平気」
少女が曇り顔で答える。
「ならばいましばらく川中に留まるがよい。陸は大分蒸している。
「でも……」
少女が体を縮こまらせて辺りをきょろきょろ見回した。
濁った川の中を時折奇怪に相貌を歪めた魔物達がぶかぶか流れてゆく。これを目に止めた男は口端を持ち上げて笑って見せる。
「案ずるな。こやつらは既に息絶えている。其方に危害を加えることはない」
少女は尚恐ろしそうだ。
見かねた男は自身もざぶざぶと川に足を踏み入れて少女の側に寄った。急流の中でも男は水の煽りを受けることなく不動だった。
男の体を染める血が流されてゆく。少女は男に纏わりついた液体がほとんど返り血であったことに気付く。本当に大した怪我ではなかったらしい。
男が大きな左の掌で頭を撫でてやると、少女の震えが引いた。
彼が凶器になる爪を片手だけ切り揃えているのはこの為だった。
少女が水中に隠れた華奢な腕を持ち上げると、先程男が投げた短刀を両手で大事そうに抱えている。追手の襲撃を受けた時、少女は泥水の中に身を隠すことになっていた。水中に投げられる短刀は安全を確保した証である。
短刀は少女の父親の形見だった。男はそれを受け取ると懐にしまい込んだ。
陸の紫炎が鎮火するまで男は川の中で少女に寄り添っていた。
*
一夜が明けた。
霧はすっかり元通りになって辺りはぼんやり外界から隔絶されているようである。
男と少女は昨日男が屠った飛竜のうち一体の傍らに座り込んでいる。
巨大な飛竜は脇腹を抉られて赤黒い肉を晒している。
男は片手に握った飛竜の生肉にかぶりついて豪快に食らう。
「魚以外の肉を食らうのは久方ぶりだ。少々身は硬いが油がのって食指をそそる。なに、肉はそこら中にある。其方も思う存分食らうがよい」
男は上機嫌な風で隣の少女に言う。
少女は長い尾をくるりと巻いてその上に尻を乗せて、小さな肉の塊を抱えてむしゃむしゃ齧っている。
少女は毎日食らっても飽きないほど泥川の魚を好んでいた。しかし沢山魔物の死骸が流れて間もない川の中に潜る勇気が出ないし、死臭漂う川の中で魚を捕まえても気味悪くて食欲が湧いてこない。
少女は中々切れない竜の肉をぎざぎざの歯で繰り返して噛む。
「うん。美味しい」
「しかしやせ我慢はするなよ? 其方なら腹を壊すことはあるまいが、昨日無理をしたばかりだからな」
「うん」
小さく頷く少女に数日前の食欲はない。
腹の膨れた時に襲撃されると胃酸ごと腹の中身を全部吐き出し、体を軽くして逃走するのは
食事を何よりの楽しみとする少女にとっては辛いことだが、現状では幸いだったかもしれない。今、腹を膨れさせて動けなくなるのは都合が悪い。
もうじきこの沼地を離れなければならない。賊が他の輩であれば皆殺しにすればそれで済むかもしれないが、相手が王軍となれば厄介だ。
彼らは必ずまたやって来る。次は更なる戦力で狙ってくるだろう。
快適な住処を捨てて再び放浪しなければならないのを思うと少女は暗澹たる気持ちになる。食欲も更に引いてゆく。
「もうよいのか?」
動きの止まった少女の滑らかな手を見て男が尋ねる。少女がこくりと首を縦に振ると、男は少女の食べかけの肉をつまんで丸ごと口の中に放り込んだ。
少女は尾っぽを伸ばして濡れた泥の上に横たわる。
ひんやり冷たい泥に体を擦りつけて過ごす一時は、彼女にとって食事に次ぐ甘美なる幸せであった。
少女は白い肌を茶色い土くれに塗れさせて心地よさそうにしている。慣れ親しんだ泥との別れを惜しんで最後の悦楽を味わっているようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます