第2話 天を埋める襲撃者
二日が経った。
少女の腹はまだ大分膨れている。この分なら少女が目覚めるのはもう三日後辺りだろうか。
男は欠伸もなく微動だにせず少女を見守り続ける。少女の幸せそうな寝顔をずっと眺めていたいのもあったが、男が眠らないのは他にも理由があった。
男がかすかに顔色を変えた。
「セレン」
「……ん」
少女はぴくっと身じろぎして重たい瞼を持ち上げる。憂鬱そうだった。
「其方の追っかけどもがここを嗅ぎつけたらしい」
「……うん」
少女はさして驚いた風もなくしんどそうに起き上がると、尾を伸ばして、片手をついて頭を下に向けた。
切り揃えられた左手の爪は瑠璃色に輝いて削り出した鉱石みたいに美しい。
「少しだけ待ってて」
少女は右手をグーにすると、まだ膨れた自分の腹をぼこぼこ殴り始めた。少女は顔色を青くして痛みに眉を歪める。
「うぷっ」
すぐに喉の奥から奇妙な声を漏らして気分悪そうに口を開いたかと思えば、腹の中の魚がげえげえ吐き出されてくる。
狭い泥蔵の中に酸っぱい匂いが充満する。
少女が吐く魚の山は溶けかけて白い靄を立てていた。透明な粘液に塗れて、その粘液は沸騰しているみたいにぽこぽこ泡を立てている。
男は饐えたような吐瀉物の匂いにも、辛そうにえずく少女の姿にも顔色一つ変えることなくじっと様子を見守った。
少女は腹の中身がすっかり空になるまで自分の腹を殴って大量の魚を吐き続けた。
そのうち喉の奥から何も出てこなくなると、ぜえぜえ苦しそうに息を吐きながら男を見上げた。
「いこう」
男は少女の口元を見やると彼女のふっくらした頬に大きな片手を添えた。
少女と鼻先の触れそうな男の瞳に幼い顔の仔細が映し出される。線を引いたような細い眉。人形の装飾みたいな濃い睫毛。桃色の唇からはみ出した二本の犬歯の鋭く輝くような白さ。
「?」
少女が可愛らしい顔で不思議そうに男を見つめていると、男は少女の唇の端から垂れている液体を親指で拭い取った。液体に触れた男の指がじゅうっと音を立てて蒸気を上げる。
「よし。行くとしよう」
男が満足そうに言い放つと、少女はほんの少し元気を取り戻して頷いた。
「うん」
蔵を出ると天は一面黒い影に覆い尽くされていた。
「飛竜の群れ。よりにもよって王の騎兵隊か」
男が独り言ちる。
上空を舞う竜の羽ばたきが強風を巻き起こして煙る霧を吹き飛ばした。
天空の追跡者が黒い塊となって彼らの真上に殺到し始める。黒い点が集まっているようにしか見えないが、一つ一つが巨体の竜であることを男と少女は知っている。
男は尊大に腕を組みながら空を見上げた。
不安そうに身を竦める少女に大声を張り上げて呼びかける。
「セレンよ! 苦しそうな姿も健気で尚愛らしかったぞ! 安心するがよい。その苦悶が俺の糧となりて其方を簒奪せんとする盗賊どもを必ずや退けて見せるだろう!!」
男は獰猛に笑う。
緋色の鱗に覆われた相貌を歪めて。
竜人種の持てる最も優れた武器は両手の爪である。
岩を砕き鉄をも引き裂く竜の爪はこの地で数多の種族に恐れられてきた必殺の凶器である。だというのに、あろうことか男の右手は中指の爪がなかった。
四本の指から伸びる鋭利で頑強な爪の間で中指の先だけがすべすべとしている様はひどく痛々しい。左手にいたっては五指の爪が全て綺麗に切り揃えられていた。
しかし男にそれを気にかける素振りはない。
彼は臆することもなく頭上の同族を睨めつけ、岩の如し右の剛腕を力ませた。
深緑色の鋭い瞳には漲る闘争心が湛えられている。
男の剛腕が氷塊を砕くような怪音をあげ、頑強な鱗がみるみる変貌を遂げてゆく。
やがて男の腕は鋭利なる緋色の細槍が無数に突き出す針山と成り果てた。
男は告げる。
「天の同胞よ。地に堕ちるがいい」
針山の剛腕が天上を突く如く振るわれた。
強弓の勢いでまき散らされた緋色の猛威に数多の竜が撃ち落とされる。
そして、男と王軍が衝突した――――――
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