第12章『こんな私にも理解のある彼女ちゃんがいます』

第34話

 十二月二十三日、金曜日。

 私は、仕事でとんでもないヘマをやらかした。勤続八年で、文字通り最悪のミスだ。

 一昨日、ここ最近ウチから大量に買い込んでいた取引先が、倒産した。

 私自らも、ヒアリングは当然行っていた。急な増産とだけ聞いて、引っ掛かりはしたが売り続けた。まさか、最後の足掻きだったとは思いもしなかった。

 未入金の分はある。だが、それらは幸いにもほぼ未使用だから返品される。今回の取引だけで言えば、会社の損害はほとんど無かった。もっとも、取引先がひとつ消失したことは大きな痛手になるが。どこか買収してやれよ。

 昨日と一昨日とオフィスは大騒ぎだった。でも、そのように収束して、会社としての難は免れた。回収不能の債権にならなかったのは、運が良かっただけだと思う。


 結果的には良かったにしろ、責任の大元は国内営業課の課長である私にある。担当の課員から相談されていたが、最終的に承諾したのは私だ。

 私としても、部長や役員達に相談した。だが、売上至上主義のえらい人達から、ノリと勢いでゴーサインを出された。結果こうなっても、あいつら知らんぷりだ。中間管理職の私が、最後に泥を被ることになる。

 会社にリスクをもたらしても、この結果だったからか――えらい人達も多少は責任を感じてるのか、特に懲罰は無かった。

 ただ『倒産するような取引先に売り続けたバカ』として、無能のレッテルを貼られただろうな。

 いっそ、課長の役職から外してくれたらいいのに……。やっぱり私なんかより、夏目さんの方が適任だと思う。


「お疲れさまです」


 午後七時、私は役員達に挨拶をすると、オフィスを離れた。

 なんとか一週間が終わった。というか、来週には仕事納めで正月休暇に入る。

 気分はヤバいぐらい落ち込んでる。長期の休みを挟んでも、切り替えられる気がしない。やらかした感じは、鍋の焦げ跡みたいにずーっと頭にこびり付いて、フラッシュバックするだろう。

 はぁ……。酒を優先してここしばらくは服用を控えていたが、また『クスリ』に頼らないといけないかな……。


 そう思いながら、エレベーターの前まで歩くと――下ではなくて、上に向かうボタンを押した。

 このオフィスビルの最上階になる十一階へと上がった。そこからさらに階段を上って、屋上に出た。

 扉を開けると、暗闇の中、冬の冷たい風が頬を切り裂きそうだった。このぐらいの罰なら、甘んじて受けよう。

 少しずつ目が慣れ、屋上の端まで歩いた。当然ながら、この時間のこんな所に、私以外は誰も居なかった。

 柵越しに、街を見下ろした。

 汚くてむさ苦しいオフィス街でも、夜空を背景にした社畜達の光は綺麗だった。なんか、儚い。


 ここから飛び降りたら、たぶんラクに死ねる。もう、苦しまなくてもいいんだ。

 ――もう何度そう思ったのか、わからない。

 仕事で失敗したり嫌なことがあったりすると、昔から帰り際によくここへ来ていた。

 いつ以来だろうな……。随分と久しぶりに来たような気がする。

 ここ何ヶ月かは――まあ割と落ち込むこともあったが――私のこれまでの人生で、間違いなく一番充実していた。ここに来なくても、済んでいた。


 そうだ。最後に来た時のことを、思い出した。

 あの日も仕事でヘマして、死にたい気分でやって来た。

 でも、珍しく先客が居た。

 知っている人物が何やら思い詰めた表情で柵の近くに立っていたから――慌てて制止したんだった。

 それまではただの、私の部下のひとりだった。実質、あれが出会いはじまりだった。


「一度躊躇った人は、二度と飛べませんよ」


 何かの受け売りみたいな台詞が聞こえて、私は小さく苦笑した。経験談でもなければ、そう考えたことも無いくせに……。

 振り返ると、小林美香が心配そうな表情で立っていた。


「どうしてここに来た?」

「今になって、思っただけです。どうしてあの時、沙緒里さんが屋上に来たんだろうって……」


 なるほど。確かに、理由を訊かれてなかった。そんなのどうでもいいぐらい、バカで楽しい日々を過ごしていたと、私も思う。

 でも、美香には見透かされていた。だから今、私の前に現れた。もしかしたら、一緒に帰ろうと一階で待っていたのかもな。


「すまないな……」


 何に対しての謝罪なのか、自分でもわからない。

 美香に対しては、申し訳ない気持ちが山ほどある。一昨日から余裕が無くて、構えなかったことだけじゃない。


「私は、キミの思うような人間じゃない。どうしようもない、ダメな女だ」


 こんな私を信じてくれて――好きだと言ってくれて。

 ここ最近は、浮かれまくっていた。きっと、夢を見ていた。

 やっぱり、私はキミに相応しくない。私みたいな何の価値も無い人間が、幸せになってはいけないんだ。勘違いしてはいけなかった。

 仕事だけが取り柄だった私が仕事でこれだけのヘマをしてしまえば……自分の何を信じていいのか、わからない。

 結果的に騙すような真似になって、本当に申し訳ない。


「はい。知ってます」


 ちょっと待て……。そこをストレートに肯定されると、オーバーキルになるんだが……。


「沙緒里さんはしょうもないことで頭を抱えてひとりで悩む、メンヘラのクソ女です。ぶっちゃけ、ドン引きですよ」


 え? まさか、それを言いたくて、ここまで来たのか?

 まあ、割と的確に捉えているとは思うが……死体蹴りされてる気分だった。


「仕事のヘマなんて、パーッと遊んで忘れちゃえばいいじゃないですか! うじうじしていても、無かったことにならないんですよ!?」

「それが出来たら、苦労しない! 私は美香みたいに、能天気じゃないんだ! キミに私の何がわかる!?」


 あ……。ちょっと言い過ぎたかな。つい、ムキになってしまった。

 だが、これでお互い様だと思う。そういうことにしたいのに――暗闇の中、美香が苛立つのがわかった。


「大体、そんなに責任感じることないでしょ!? 今回のことだって、沙緒里さんは悪くないじゃないですか!」


 美香の目から見ればそうだとしても、社会はそれで済まないんだ。役職は責任を取るのが仕事なんだ。


「先輩、沙緒里さんに庇って貰って感謝してましたよ? いつか恩を返せるように頑張りたいって、言ってました」


 今回の件を担当した課員のことを言ってるんだろう。私に対して申し訳無さそうだったが、本当にそのように感じているなら、嬉しい。成長への意思が芽生えただけでも、収穫があった。

 同じ役職でも、中には責任を部下に押し付ける人も居る。それは間違っていると、私は思う。

 私は、これからも自分のやり方を貫き通したい――たとえ、自分を犠牲にしてでも。


「バカみたいに責任感じて、大事なものを必死に守ろうとして……わたしは、沙緒里さんのそういうところが大好きなんです! 沙緒里さん、わたしを超大切にしてくれるじゃないですか!」


 美香は怒鳴るように言いながら……泣いていた。

 私なんかのために、涙を流していた。

 考えたことが無かったが、言われてみれば私は確かに責任感が強い方なのかもしれない。そこが大好きだなんて、めちゃくちゃ説得力がある。美香を大切にしたいという気持ちは、ちゃんと伝わっていた。

 なんだ……。美香は私のこと、私以上に理解しているじゃないか……。


「わたしのことも、責任感じてのことなんですか!? そこのところ、はっきりさせてください!」


 美香は涙を拭わず、私を睨みつけた。

 自分も部下のひとりとして扱われているのか、不安なんだろう。

 確かに、部屋をすぐに追い出さなかったのは、多少なりとも責任を感じていたからだ。だが、それも最初だけだった。


「違う……。私は美香が好きだから、美香を大切にしたいんだ……」


 私は否定するが、声が弱々しいのが自分でもわかった。

 その気持ちは紛れもなく本物だ。それなのに……私なんかが美香を好きでいいのか、今になると、自信が持てなかった。


「ほら。また卑屈になってるじゃないですか」


 うう……。ここまでお見通しなわけか。流石は、私を理解しまくってるだけのことはある。


「仕方ないだろ! この性格は、簡単には直らないんだから!」


 美香に言われたのは、これが初めてじゃない。何度言っても改善しないんだから、呆れるだろう。もしかしたら、愛想を尽かすかもしれないな。

 直したいとも変わりたいとも、昔から願望はなかった。でも、美香と出会って――出来れば改善したいと、最近は思っていた。


「別に、直さなくてもいいじゃないですか……。沙緒里さんが卑屈になるなら……わたしが代わりに褒めます」


 美香は涙を流しながら、微笑んだ。

 変わらなくてもいい。私という人間を、根本から肯定してくれた。

 ああ、そうだ……。この子は私のことを、真正面からありのままに受け入れてくれていたんだった。私の欲しい言葉を、こうして投げかけてくれる。


「沙緒里さんは毎日ちゃんと朝起きて、ご飯食べて、仕事行って、帰ってきて、お風呂入って……えらいです」


 そう言いながら、美香が歩いて私に近づいてきた。

 まるで、母親からあやされているかのようだった。もう三十になろうとしているのに、実に情けない。

 それでも、そんな当たり前のことが――私の『生きる』という意思が、誰かに認められて嬉しかった。

 私は涙が溢れて、俯いた。


「わたしのため……だと重いですね。辛くなったら、いつも一生懸命な沙緒里さんを好きな人間が居ること、思い出してください」


 そして、正面から美香に優しく抱きしめられた。

 冬の寒空の下、とても温かかった。


「ありがとう……ありがとう!」


 私は泣き崩れそうになるのを、美香にしがみついて、必死に堪えていた。正直、いつでも膝をつきそうだった。

 申し訳ないが……この時ばかりは、美香のためにこれからも頑張ろうと思う余裕は無かった。自分のことで精一杯だった。肯定してくれたことに対して、素直に感謝した。


「私はこれからも美香を大切にするから……これからも、側に居て欲しい」


 ただ、美香を欲した。提案じゃなくて、懇願だ。

 私は、めっちゃネガティブで、しょうもないことで思い詰めて、とにかく面倒くさい人間だ。

 だから、私を好きで居てくれて、私を褒めてくれて――こんな私を理解してくれる人間が、必要だ。

 すぐには何も返せないかもしれない。それでも、時間はかかっても、いつかは……貰ったものに利子をつけて返したいと思う。すまないが、今はその気持ちだけで許してくれ。


「当たり前じゃないですか……。わたしの方こそ、これからもよろしくお願いします」


 顔を上げると、美香も涙でぐちゃぐちゃのまま、微笑んだ。

 そうだ……。泣くのも笑うのも、ふたりで一緒だ。ああ……私はなんて幸せなんだ。

 自分のことをちっぽけな人間だと思う癖は、もしかしたら一生直せないかもしれない。だが、私は諦めると同時に安心した。

 この性格が変わらなくても、キミのことが好きだという気持ちも変わらない。キミのことを、絶対に手放すもんか!

 腕の中の女性が、とても愛おしい。自分の気持ちを確かめるように、強く抱きしめた。


「好きだよ、美香……。これからも、一緒に居よう」

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