第33話

 十二月二十一日、水曜日。

 朝からわたしはスーツをビシッと着て、メイクをバシッとキメた。

 今日はわたしの担当している取引先に、年末の挨拶に向かう。

 たった一ヶ月ぶりに何時間もかけてあんな田舎まで行くのは、正直憂鬱でしかない。でも、今日はわたしひとり――会社の顔として行くんだから、気合入れないと!


「時間あるなら、コーヒー飲んでいくか?」

「はい。頂きます」


 時刻は午前七時半。もう準備は出来ているから、時間ならある。

 いつも通りパンツスーツ姿の沙緒里さんが、コーヒーを淹れてくれた。ソファーに座っているわたしにマグカップを手渡すと、その足で寝室に向かった。

 わたしはコーヒーを飲みながら、テレビで天気予報を観ていた。げっ、あっちの方は今日寒いじゃん!

 もっと暖かい格好にしようかと思っていると、寝室から出てきた沙緒里さんから、黒くて大きいものを手渡された。


「よかったら、これ着ていくといい」


 受け取って広げると、トレンチコートだった。

 わたしはこんなにカッコいいコートを持ってない。今だって、普段使いのベージュのチェスターコートを着ている。

 沙緒里さんは、こんなわたしを見かねたんだろう。スーツには、トレンチコートの方が絶対に似合う。


「ありがとうございます」


 ウッキウキでトレンチコートを羽織ってみた。近くに鏡が無いけど、自分の姿を見下ろす感じ、やっぱりカッコいい。いつもの百倍ぐらい仕事が出来そうな気がしてきた。

 でも……寒かった。

 たぶん、生地が薄いせいだろう。防風には優れてるかもしれないけど、防寒には今ひとつな感じ。ていうか、トレンチコートって秋冬向けなイメージがある。

 これから寒い所に行くのに、防御力下がってどうすんの!? でも、せっかく沙緒里さんが貸してくれたんだし、カッコいいし――悩んだ末、わたしは決断した。


「沙緒里さん……。背中にカイロ張ってくれませんか?」

「ああ。それがいいな」


 JKがどんだけ寒くても生脚をさらけ出すみたいに、わたしも背に腹は代えられない。ここは、カッコよさを最優先に考えよう。

 沙緒里さんから二枚のカイロを貼って貰って、コーヒーを飲んで――準備は完璧だ。

 時刻は午前七時五十分。まだもうちょっと時間はあるけど、出勤する沙緒里さんと同じタイミングで出ることにした。


「ひとりっきりで行かせて、すまないな。気をつけて行っておいで」

「はい。先方の来年の計画、なるべく探ってきますね!」

「出来ればでいいよ。大丈夫だとは思うが、粗相のないようにな」


 そんなやり取りをしながら、ふたりで玄関まで向かった。

 スリッパを脱ごうとした時――沙緒里さんと顔を合わせ、自然と見つめ合った。

 ヤバ。うずうずしてきた。ひとりで遠くまで行くのは正直寂しいから、余計に。

 完全に、このままキスする流れだった。ていうか、キスしたい。

 でも、リップ塗っちゃってるしなぁ……。まあいいや、新幹線で塗り直そう。

 そう決断して瞳を閉じたけど、唇じゃなくて、軽いデコピンを食らった。


「いたっ」

「私だって、寂しいんだ……。だから、帰ってから……な? 頑張っておいで」

「はい!」


 うわぁ……。恥ずかしそうにしてる沙緒里さん、可愛すぎ。

 よし。今夜はいっぱいエッチしよう。そのためにも、頑張ってこよう! ここにきて、大きなモチベーションが生まれた。


「それじゃあ、行ってきますね」

「ああ。行ってらっしゃい」


 マンションを出ると沙緒里さんと別れて、電車の駅へと向かった。



   *



 午後三時過ぎ、取引先訪問を終えた。

 年末の挨拶だけじゃなくて、来年の話も少し聞き出せた。ひとりで来たけど、ちゃんと営業できてるじゃん、わたし!

 この手応えから、自分でも成長を感じた。営業職というか社会人になって、もう九ヶ月になるのかな。仕事は、出来るようになれば面白い。もう一社ぐらい担当任されるように、頑張ろう。

 取引先を出ると、田舎の寒さに身体が震えた。沙緒里さんから借りたコートに身を包んで、駅へと向かった。

 歩きながら会社支給のスマホを取り出し、会社の国内営業課へと電話した。とりあえず、口頭で報告しないと。


「お疲れさまです。小林です」

『おお、小林か』


 沙緒里さんが出るのを期待したけど、残念ながら夏目係長が応えた。


「訪問の方、無事に終えましたので、今から戻ります。……直帰ですけど」

『そうか。わかった』


 あれ? 受話器越しでも、様子が変だとわかった。

 なんていうか、すっごい慌ててる。普段なら根掘り葉掘り訊かれるところなのに、とにかく余裕が無いのが伝わった。


「新幹線の中で報告書を書いて送りますね」

『ああ、送ってくれ』


 会話はそこで終わって、係長から通話を切られた。

 なんだこれ。ネチネチと絡まれないでよかったけど……あしらわれると、なーんか釈然としないなぁ。

 そんなに慌てるぐらい、何かあったんだろう。まあ、どうでもいいか。

 駅に着くと、ハンバーガーショップが見えた。そこで沙緒里さんと報告書を書いたのを思い出して、懐かしかった。

 今日も出来れば、ひと休みしたい。でも、早く帰りたいから、立ち止まることなく駅の改札を通った。


 真っ直ぐに大きな駅まで移動して、最短で新幹線に乗った。

 コーヒーを飲みながら報告書を作成して、係長まで送った。受信確認の電話は……慌ててたみたいだから、まあいいか。

 時刻は午後六時になろうとしていた。新幹線に揺られながら、いつもの時間に今日の仕事が終わった。

 あとは帰って、ご飯食べて、お風呂入って……沙緒里さんとイチャイチャしよう。窓の外、暗い景色を眺めながら、笑みが浮かんだ。

 スマホを取り出して、メッセージアプリを開いた。

 えーっと……午後八時ぐらいには帰れるかな。そのことを、沙緒里さんに送信した。


 でも、新幹線が到着しても、沙緒里さんから返事が無いどころか既読がついてすらいなかった。

 もう午後七時過ぎてるんだから、余裕でスマホ見れますよね? どうして?

 謎の塩対応に悲しくなるよりも――慌てた様子の係長が、頭に浮かんだ。

 係長ひとりだけが慌てていた? もしかして、部署単位で慌てていた? それなら、沙緒里さんが構ってくれない現象に説明がつく。

 沙緒里さんから借りてるコートの袖を、ぎゅっと掴んだ。なんだか嫌な予感がしながら、電車に乗った。

 このまま、オフィスに向かった方がいいのかな? いや、仮に何かが起きていたとして、今日これまで蚊帳の外だったわたしが戦力になるとは思えない。

 こういう時だけ新卒の新入社員を言い訳にして、マンションへと帰った。

 沙緒里さんから連絡無いのは、もしかしたらサプライズで待ってたりして。


「ただいまー」


 でも、そんな期待は虚しく、部屋は真っ暗だった。お腹を空かせたアミちゃんだけが、わたしの帰りを迎えてくれた。

 宣言通り、時刻は午後八時だった。この時間になっても沙緒里さんが帰ってこないなんて、明らかにおかしい。

 間違いない。仕事で何かあったんだ。

 リビングの灯りをつけた後、沙緒里さんのスマホに電話した。でも、やっぱり繋がらなかった。

 焦燥が込み上げる。今からでも、オフィスに行く? いや、行き違いになる可能性がある。


 今のわたしに出来ることは……沙緒里さんを信じて、帰りを待つだけだ。

 アミちゃんの部屋のクローゼットを開けると、隠している沙緒里さんへのプレゼントが見えた。大丈夫だと、自分に言い聞かせた。

 スーツからルームウェアに着替えた。手洗いうがいを済ませると、冷蔵庫を開けた。

 鶏もも肉が一枚と、野菜が適当にあった。豆腐は無いけど、市販のスープを使って鍋が作れる。具材を切るぐらいだから、料理下手なわたしでも大丈夫なはず!

 そう思った通り、怪我なく具材を切ることが出来た。あとは、沙緒里さんが帰ってから煮込むだけ。


『お疲れさまです。晩ごはん、お鍋の準備できてます』


 まだ前のも既読がついてないけど、沙緒里さんに送っておいた。

 お腹を空かせて待っていると――午後九時過ぎ、玄関の扉が開いた。アミちゃんと一緒に、リビングから出迎えに向かった。


「おかえりなさい、沙緒里さん。遅くまで残業、お疲れさまでした」


 沙緒里さんの帰りが純粋に嬉しかったから、自然と笑顔が浮かんでいるのがわかった。頑張って夕飯の支度までしたんだから、なおさらだ。

 でも、玄関で沙緒里さんを見た瞬間――笑顔は引きつった。


「……」


 黙って俯いた沙緒里さんから、半端ないぐらい負のオーラが放たれていた。

 一目見ただけでわかった。これまでの中で、間違いなく一番ヘラってる。わたしが出ていった時の五百倍ぐらいの勢いだ。

 クソ田舎まで出張に行ってる間、オフィスでいったい何があったの!?


「取引先がひとつ……倒産した」


 沙緒里さんがぽつりと漏らして、顔を上げた。

 顔にはガチのマジで生気が無い。たぶん、FXで有り金全部溶かしたら、こんな風になると思う。


「倒産を疑わないで、私達は売り続けてたんだ……」


 何かが壊れたように、沙緒里さんは乾いた笑みを浮かべた。

 状況がよくわからない。いや……そんなことよりも、沙緒里さん自身がヤバいどころの状態じゃない。


「さ、沙緒里さん?」


 わたしは、沙緒里さんを全部受け入れたつもりだった。

 でも、まだ『底』があることを知った。

 甘かったと、自分でも思う。ガチメンヘラへの理解が足りなかった。

 励ますの? 優しくするの? それとも叱るの?

 どんな言葉を投げかけて、どう接したらいいのか、わからない。『選択』を間違えたら、取り返しがつかなくなる気がする。慎重に考えたい。

 だから、沙緒里さんの様子にただ気圧されて――この時は、普通にドン引きするだけだった。



(第11章『わたしの彼女ちゃんを最高に喜ばせたい』 完)


次回 最終章『こんな私にも理解のある彼女ちゃんがいます』

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