第29話
十二月七日、水曜日。
昨日、サッカーの世界大会でこの国がベスト十六で敗退した。予想外に勝ち進んでオフィスでも盛り上がっていたが、一日経てばもう話題に出ることは無かった。世間の薄情さを目の当たりにした。
この日もいつも通り、午後七時頃に仕事を終えた。
ちょっと前までなら、死にたいと思いながらも夕飯どうしようと考えながら、オフィスビルを出ていた。
でも今は、仕事からの開放感と共に、小林さんの顔が真っ先に頭に浮かんだ。私なんかの帰りを待ってくれているんだ。早く帰らないと。ていうか、夕飯どうするか訊かないと。
スマホを取り出しながら、ビルの一階まで下りた。
『いいから買えっつうの!』
ロック画面で、SNSのアプリが勅使河原アルテミス伊鶴の発言を通知していた。一応アプリを立ち上げると、よくわからないガラクタみたいなものを紹介していた。
何やってるんだ、この人。なんかウザくなってきたから、フォロー切ってもいいかもしれない。
いや。今はそんなことよりも、小林さんに電話しないと。その時だった――
「お疲れさまです、米倉課長」
ロビーと呼んでいいのかわからないような所で、小林さんが居た。
定時後かつオフィス外だが、一応はまだ会社であり、同僚の目があるかもしれない。『課長呼び』に、私は周囲を警戒した――よし、見知った顔は居ない。
「お、お疲れさま……。定時であがったはずだろ?」
残業申請の受理をしていないから、それは把握している。まさか、こんな所で一時間も私を待っていたのか?
「水曜日ですし……今からちょっと、デートしませんか?
小林さんもキョロキョロと周囲を見渡した後、小声で言った。
水曜だからデートをするなんて、ワケがわからない。週の折り返しだからか?
「うん。いいけど……」
「それじゃあ、行きましょう!」
まあ、どれだけ意味不明でも、断るわけがない。
小林さんに腕を引かれて、オフィスビルを出た。手に持ったままのスマホで自動給餌器のアプリを立ち上げて、アミに餌を出しておいた。餌はなるべく手であげたいが……今夜はすまない。
十二月になって、外は途端に寒くなった。それでも、笑顔の小林さんと一緒に歩けば、寒いのも全然平気だ。
「デートって……こんな時間から、どこに行くんだ?」
わざわざ私を待っていたんだから、何か計画があるんだろう。
とはいっても、このあたりのオフィス街に、デートスポットらしき所は無いような……。いや、少し歩いたらロイヤルな感じのホテルに水族館あったっけ。夜の水族館デートも、いいかもしれないな。
「イルミ観ましょう」
ああ、イルミネーションのことか。よくわからないが、冬の風物詩っぽいな。水族館はまた今度にして、今夜はそっちに行こう。でも――
「このへんに、そんなのあったか?」
テレビで観るようなきらびやかなものが、このむさ苦しい街にあるとは思えない。駅の方まで行けば、それらしきものがあるのか? 基本的に自宅と会社の往復だから、私が知らないだけかもな。
「何言ってるんです。凄いのがあるじゃないですか」
小林さんに、駅とは違う方向に連れて行かれた。
全然ピンとこなかったが――いざ観ると、圧巻だった。
この街には、割と大きくて有名な川が流れている。川沿いは歩道になっていて、桜の木が立ち並んでいる。春は満開の木々の下を散歩すると、気持ちいい。というか、春ぐらいしか来ない。
冬だから当然、花は咲いていない。その代わり、並木の枝にライトが飾られ――夜空の下、まばゆく輝いていた。
とても綺麗な景色が、ずっと続いていた。
「桜色のイルミなんて、珍しいですよね」
「そうだな……。なんか、卑猥だ」
桜色と言われて納得したが、パッと見は白寄りのピンクだ。桜の花を模しているにしても、いかがわしいネオンだな。
「どうしてそうなるんですか! 沙緒里さんの頭の中が、ピンク色じゃないですか!」
「なっ」
キミにそんなことを言われるとは……心外だな。
まあ、せっかくのムードを壊す発言をしたのは悪かった。思ったことを素直に口にするのは、やめよう。
「ちょっと歩きましょうか」
小林さんから手を握られた。お互いに手袋を着けていないから、小林さんの手が冷たく感じた。
手を繋ぐのは、初めてでもない。それなのに、なんだかドキドキした。場所のせいかな。
彩られた枯れ木の下を、ふたりで歩いた。視界に入る桜色の光は幻想的で、夢を見ているかのようにフワフワした感覚だった。
この時間帯にここを歩くことが無いからわからないが、それなりに賑わっていた。私達のように、鑑賞目当てで歩いている人もいるだろう。ただ、仕事帰りの社会人らも普通に歩いているから、時々見える死んだ顔に、現実に引き戻された。
あれ? 手を繋いでしみじみと歩いているだけな現状に、ふと違和感を覚えた。
「いつもみたいに、SNS用の写真撮らないのか?」
普段なら、小林さんが真っ先にスマホを取り出していると思う。イルミネーションを観に来たというより『観に来た自分』を写真に収めるのが目的じゃないのか?
「今日はいいですよ。沙緒里さんとイルミ観れるだけで、嬉しいです……。この思い出を、心のアルバムに仕舞っておきますね」
くさっ。微笑みながらそんなこと言われて――笑うのを必死に堪えた。
いったい、どういう心変わりなんだろう。ようやく真人間への更生を決意したのか?
「そ、そうか」
まあ、何にしても……そのように言われて嬉しいし、ちょっと恥ずかしくもある。
手を繋いでいるから、逃げられない。ドキドキと、良い意味で居心地が悪い。
「そういえば、どうして『みうみう』なんだ?」
恥ずかしさを誤魔化そうとしたところ、SNSの話題から、以前からの疑問を思い出した。
「わたし『みう』って名前がよかったんですよ。『美しい羽』って書いて……」
「なるほど」
良い名前だが、綺麗すぎて名前負けしそうだと思った。よっぽどの美人じゃないと、似合わないだろう。というか、それなら名前に『美』が入ってる時点でハードルが高いような……。
「妹の美結も、まだ可愛い名前じゃないですか。それなのに、美香ってひどくないですか!? 『小林美香』って字面の時点で既にウザいでしょ!?」
「いや……。それには同意しかねる」
ワケがわからない。偏見がひどすぎる。というか、全国の同姓同名に謝れ! キミがウザ可愛いのは、氏名のせいじゃないんだ。
「美香って、可愛い響きじゃないか。私は好きだよ?」
「あ、ありがとうございます……」
私の顔を見上げていた小林さんが、小っ恥ずかしそうに顔を背けた。
そこで初めて、名前を褒めるという――とんでもないことをさらっと口にしたんだと自覚した。よくもまあ、シラフで出てきたもんだ。
小林さんも、その反応は何? そこは、おだてられて調子に乗るところだろ!? ああ、可愛いな!
今日はなんだか、調子が狂う。
小林さんも、ソワソワしてるというか、よそよそしいというか……。普段のオフィスみたいに、弱々しい乙女チックな感じだった。要するに、ネコを被ってるように見える。
あれ? そんな真似をするのは、可愛く見せたいからだっけ?
まさか、こんな時でも、私に可愛く見せたいという意図があるのか?
「じゃあいい加減、美香って名前で呼んでくださいよ……。付き合ってるんですから……」
小林さんは顔を背けたまま、ぽつりと漏らした。そして、手をぎゅっと握ってきた。
――そういうのは、もっと仲良くなってからだな。
かつて、私はそのように逃げた記憶がある。
あの時は、確かに恥ずかしかった。今も、名前を呼ぶのは恥ずかしい――いや、違うな。
「いいよ……美香」
今は、照れるんだ。だから、呼べないわけじゃない。
小林さんはこっちを振り向くと、パッと明るい笑顔を見せた。
「沙緒里さん!」
そして、腕に抱きついてきた。とっても嬉しそうだ。
美香……か。実際口にしてみても、私には『小林さん』のイメージが強いから、正直まだしっくりこない。
でも、いずれは呼び慣れるだろう。
小林さん――美香は、私にとって特別な人間なんだから、名前で呼ぶのは当然だ。
この人は、真正面から私を受け止めてくれて、理解しようとしてくれて、そして好きでいてくれるんだから。
私のどこが好きかなんて、どうだっていいじゃないか。その気持ちが嘘じゃないと、手応えなら確かにある。しょうもないことで悩んでいたんだなと、バカらしくなった。
腕に抱きついたままの美香と、しばらく歩いた。
どこまでも輝きが続き、どこまでも歩いて行けそうな気がした。
「もう少しで、クリスマスですね……」
たぶん、イルミネーションがそれを彷彿とさせたんだろう。
私としても、そんな実感が湧いてきた。
「そのぐらいになったら、仕事納めまでもうちょっとだな」
「もうっ! 仕事は忘れましょうよ」
そう言われても、毎年この時期は忙しい。世間のクリスマスムードを感じると、ゴール直前というイメージが強い。そういう意味なら、まだ良いイメージなのかもな。
私は子供の頃から、クリスマスに良いイメージが無かった。
「キミには一応言っておくが……私の誕生日なんだ」
「え!? いつなんですか!?」
「だから、クリスマスだよ。十二月二十五日に、私は産まれた」
そう。子供の頃は、親からの誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントが
「ええ!? 『主』じゃないですか! すっごいミラクルですね!」
「昔っからイジられてきたから、勘弁してくれ。それに……次で三十だぞ? 三十路にカテゴライズされるんだぞ?」
そして今は、クリスマスを迎えるとひとつ歳を重ねるから、良いイメージが無い。特に今年は節目だから、余計に……。
去年のクリスマスは、
「いいじゃないですか。これからもわたしと、素敵な感じに歳取っていきましょうよ」
だが、美香の笑顔に、余裕でお釣りがきた。
「クリスマスも誕生日も、どっちもお祝いしましょうね!」
そうだ。美香と一緒なら全然悪くないどころか、絶対に楽しい。
私も、笑みがこぼれた。
「クリスマスが終わったらさ……次は、正月に初詣行かないか?」
「いいですね。その次は、バレンタインですか? わたしひとりで作れないんで、一緒にチョコ作りましょう」
「うん……。暖かくなったら、花見だな。また、ここ歩こう」
「その前に、いちご狩りにも行きたいです。お腹いっぱい食べますよ!」
そんな風に未来を語りながら、ふたりで歩いた。
非現実的な話じゃない。よっぽどのことがない限り、九十九パーセント迎えられる。
それらを考えただけで、胸がいっぱいになった。溢れ出したものが、目からこぼれ落ちそうになった。
ああ、そういうことか……。私は美香と、それらのイベントを楽しみたいんだ。
これからもずっと、美香と一緒に歩いていきたいんだ。
この気持ちこそが、きっと――
「どうしたんですか?」
私が立ち止まったから、美香は首を傾げた。
目頭が熱くなるのを、必死に堪えていた。今さらな気もするが、恥ずかしいから決壊させたくない。
込み上げる気持ちを口にする余裕は無かった。今は噛みしめるだけで、精一杯だった。
「なんでもないよ……美香」
鼻を啜りながら、笑って見せた。
ヤバいな。私は、とんでもない幸せ者じゃないか。幸せすぎて死ぬかもしれない。
イルミネーションが綺麗で、キミが側に居て――流石の私も、浮かれてしまう。
公然だから抱きしめられない代わり、はにかむ美香の頭を撫でた。
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