第24話
十一月二十四日、木曜日。
月末に差し掛かったというのに、今日は珍しく、定時から三十分後に帰れた。
私はオフィスビルを出ると、すぐ小林さんに電話した。スーパーで買い物しているみたいだから、急いで向かった。
「お疲れさまです」
「小林さんこそ、お疲れ」
スーパーでの買い物だが、デートすることが出来て死ぬほど嬉しい!
私は上機嫌に買い物カゴを持ちながら、冷蔵庫の中身を思い出した。さて、何を買おう。そういえば……ヨーグルトが切れたんだった。
「イチゴとブルーベリー、どっちがいい?」
売り場に向かい、小林さんにふたつのフレーバーを訊ねた。小林さんと一緒に、毎朝どっちかを食べることが多い。
「わたしはどっちでもいいですよ。沙緒里さんの好きな方を選んでください」
「私こそ、小林さんの好きな方でいいんだ」
小林さんが好きな方が、私の好きな方なんだから。
「そうですか……」
小林さんは困りながらも、棚を眺めた。
私なんかのためにここまで悩んでくれるのが、嬉しい。ていうか、ちゃんとデートしてる。
「うーん……。たまには違うのにしてみましょう」
そう言って小林さんが手にしたのは、白桃のフレーバーだった。
以前からその種類があるのは知っていたが、どうしてか私は選ぶ機会が無かった。それを選んでくれるなんて、流石は小林さんだ。美味しいに違いない。
「ありがとう。明日が楽しみだよ」
その後、夕飯の買い物をした。
夕飯のメニューも、小林さんに決めて貰った。サバが食べたいと言われたから、味噌煮込みを作ることにした。
買い物を終えて、ふたりで帰路を歩いた。一緒に歩いているだけで、私は嬉しかった。
もう十一月も終わりに近づき、日が暮れると肌寒い。
そろそろ鍋もいいな。小林さんは、どんな鍋が好きなのかな。そう思っていた時だった。
「あの……沙緒里さん」
隣の小林さんが、ぽつりと漏らした。
「なんか最近、何でもかんでもわたしが選ぶこと多いですけど……その気遣いは超嬉しいんですけど……沙緒里さんが選んでくれて、全然いいんですからね? よっぽどのことが無い限り、反対しませんから」
たまーに、よっぽどなことありますけどね――そう付け加えて、苦笑した。
私のことを気遣って、だいぶ言葉を選んでいるんだと思った。選ばせていることの不満、私にはそのニュアンスに感じた。
「そ、そうだな……」
確かに、私はありとあらゆることを、小林さんに選んで貰っていた。
いや――いつの間にか、自分自身の意思では選べなくなっていた。小林さん無しでは、意思決定が出来ない。小林さんの意思こそ絶対で、それに従っているだけだ。
その事実に、ようやく気づいた。
夕飯後、私は風呂に入った。
湯船に浸かって、防水ケースに入れたスマホでSNSをぼんやりと眺めていた。とはいっても、内容は全然追ってない。なんとなく画面をスクロールしながら、あることを考えていた。
最近の私は、小林さんのことで暴走しているだけじゃない。何もかもを、あの子に委ねている。
それがラクだからじゃなくて……心地よさや嬉しさがあるんだ。
以前、小林さんが麻薬のようだと思った。
今はもう、完全にどっぷりと浸かっている。『依存』してると言ってもいい。あの子にそんなつもりは無くても、私にとっては毒なんだ。
お風呂のお湯越しに、昨日小林さんと塗りあった紫のネイルが見えた。
このままじゃ、本当にダメだ……。
まだ、かろうじて抜け出せる。抜け出さないといけない。
それでも――小林さんという存在自体を否定したくない。こんな私を受け止めてくれた人間と、別れたくはない。
『ソウルメイトとはどれだけ離れていても、魂はいつでも繋がっているのです』
SNSを眺めていると、勅使河原アルテミス伊鶴先生のお言葉が目に留まった。
小林さんとは、やっぱりソウルメイトじゃないと思う。だが、先生の仰ることには感化を受けた。
そう。別に、否定しなくてもいいんだ。
大切なのは、ちょうどいい距離感だろう。これまでが近すぎたから、適切な距離を取ればいいんだ。
そのためには――
風呂を上がり、冷蔵庫からストロングな缶チューハイを取り出した。
リビングのソファーでは、先に風呂を済ませた小林さんが寛いでいた。
「次の休みにさ……不動産屋に行こうか」
私は隣に座り、そう提案した。
思えば……ここで一緒に暮らすことになって、もう一ヶ月半が過ぎ、二ヶ月近くになろうとしている。実家を追い出された小林さんが部屋を探すという目的が、いつの間にか見失われていた。
この部屋に小林さんがいることが、当たり前になっていた。気づいた時には、普通に同棲していた。
なあなあにして受け入れていた私も悪い。今からでもこの部屋から追い出して、距離を置こう。適切なお付き合いをしよう。
「え? 不動産屋……ですか?」
小林さんはポカンと驚いていた。
忘れていた話を私が掘り返したんだから、当然だ。冗談を言ってるように思われてるんだろうなぁ。
「うん。予約しておいてくれないか? 私も同席するから、今度は絶対に行こう」
本気だとわかって貰うため、私は敢えて重いトーンで言った。
私の都合でいきなりこうなって、申し訳なく思う。それでも、私のためにこの部屋から出ていって欲しい。
「わ、わかりました……」
小林さんは戸惑いながらも、頷いた。
*
十一月二十六日、土曜日。
午後から予定通り、小林さんと駅前の不動産屋に向かった。月七万円ほどで借りられるワンルームを紹介して貰った。私の部屋みたいに、駅チカじゃなくてもいいから、会社からの徒歩圏内という条件でだ。
営業から資料と共に内見に連れて行かれたところが、築四十四年のマンションだった。
流石にリフォームというか補修はされていたが、やっぱり古臭さは拭いきれない感じだった。さらに、広さは六畳しかない。
「こ、ここですか……」
小林さんは絶句していた。
確かに綺麗ではないが、小林さんの給料ではこのあたりが現実的だろう。まあ、別に住めないわけじゃない。
その後も、いくつか物件を巡った。
築十年で八畳十二万円。築七年で七畳九万円。それらは賃料が高くなるだけで、私の目には最初のとさほど変わらないように見えた。
小林さんが唯一反応したのが、今月から入居者の募集を開始している物件だった。建築工事を終えたばかりの未使用、かつ九畳という広さもあり、誰がどう見てもアタリだ。
ただし月十五万円であり、小林さんにはとても手が出せない。ペット可だから、その代わりに私がここに引っ越したかった。
というか、この営業はどういう意図でこれを見せたんだろうな。身分をわからせるためか――まさか、社会人相手なのに親からの援助を期待しているのか。他にもいろんな疑念が浮かぶが、答えはわからない。自分と同じ営業職にしても、以前から不動産営業はどうも胡散臭く感じる。
「うーん……。いいの無かったですねぇ」
午後四時頃、ふたりで私の部屋に戻ってきた。
ひとまず保留状態だが、私の感触として、小林さんには他の選択肢が必要だと思った。
「なんか、ギョウザ食べたくないですか? ハイボールと」
笑いながら夕飯の話を持ち出されて、緊張感が全然無いと思った。今日の内見も、どれだけ真剣だったんだろう。
「物件選びは何を重視するか決めておいて、そこで妥協するしかないよ」
夕飯の件には触れず――コーヒーを淹れながら、これまでの経験からアドバイスを送った。
私も昔は、安くて狭くてボロい部屋に住んでいた。何から何まで満足する物件には出会ったことがない。この部屋にしても、広さとペット可以外は不満だらけだった。
「一番大事なのは……やっぱり、綺麗さです。あと、お風呂とトイレは別々で」
「オートロックみたいな防犯面も大切だぞ?」
「えー。変な事件に遭うわけないじゃないですか」
小林さんはおかしそうに笑った。
これまで小林さんと接してきて――お嬢様とまではいかなくても、割と裕福な家庭で不自由なく育ったんだと思う節がある。悪い意味で。
世間を知らないから、防犯面を軽視できるんだろうなぁ。
というか……ひとり暮らしをするという自覚があるんだろうか? この子の親だけじゃない。短い時間だが、甘やかした私にも少なからず責任はある。
「まあ……やっぱり、ここが一番ですよ」
リビングのソファーにふたつのマグカップを持っていくと、小林さんが微笑んだ。私に何を求めているのかは、明らかだった。
「ダメだ。今日見た所以外にも物件探して、ひとりで暮らすんだ」
私はきっちり拒んだ。
マグカップをひとつ手渡し、隣に座った。
「ていうか……部屋を探せって、どうしたんですか? わたし達、いい感じじゃないですか?」
小林さんは困った表情で、私の顔を覗き込んだ。
いきなり同棲生活を一方的に打ち切ったんだから、そう言われるのも無理がない。説得力に欠ける言動を取っていると、わかっている。
かといって――これ以上キミと居ると、依存しすぎて私がダメになるんだ。そんな本心を、言えるわけがなかった。
「ちょっとさ……小林さんと距離を置きたい……」
でも、出来ることなら察して欲しい。マグカップのコーヒーに目を落としながら、気持ちを断片的に伝えた。
「小林さんとの交際は、これからも続けたい。でも……同棲はやめて、距離を置こう」
「……え? 何ですか、それ」
不安げな声に、私はハッと顔を上げた。小林さんの笑みが引きつっていた。
やらかしたと、すぐに思った。小林さんの気持ちを全然考えないで、一方的に告げていた。こんな言い方じゃ、まるで――
「わたしと別れたいんですか?」
そう思われても、仕方ないじゃないか。
「ち、違う!」
「何が違うんですか!?」
「小林さんも自立して……ひとりの大人になって欲しいんだ。大人の小林さんと、交際したい」
焦って咄嗟に浮かんだそれとらしい理由が、それだった。
嘘つくにしても――下手すぎるだろ、私。
「沙緒里さん……」
そんな理由で小林さんが納得するはずがなく、代わりに失望の瞳を向けられた。
「わかりました! そこまで言うなら、出ていきます!」
小林さんはマグカップをテーブルに置くと、ソファーから立ち上がった。そして、アミの部屋に入った。
最低限の荷物がそれなのか――仕事用の鞄を持って、玄関へと向かった。
ブチギレているというより、強い嫌悪感が全身から放たれていた。
「ちょっと、小林さん――」
「沙緒里さんなんかもう、知りません!」
私は慌てて呼び止めようとするも、小林さんは勢いよく玄関の扉を開けて、出ていった。
「……え?」
こんなに簡単に崩れ去るなんて、思いもしなかった。
その光景が、この現実が――ぶっ飛びすぎていて、あまりにも現実味がなくて、まるで悪い夢を見ているような気分だった。
この時はまだ、理解が追いつかなかった。私はただ、呆然と立ち尽くした。
でも、陽が暮れても小林さんは帰ってこなかった。
アミの鳴き声しか聞こえてこない。この部屋、こんなに広かったっけ?
孤独感に襲われると同時、事のヤバさをようやく理解した。
(第08章『このままじゃ私はダメになってしまう』 完)
次回 第09章『このままじゃわたしはガチ惚れしてしまう』
美香は沙緒里の元に帰る。
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