廻る世界の片隅で
蒼茫たる大海を照らす、赤い灯。
「星染めの赤。さまよう火華。猛き炎神アディエラよ――」
その正体は、お嬢が紡ぐ紋章術の輝き。
波を斬る、という言葉に比喩はありません。
お嬢は本気で、あの大波を斬るつもりなのです。
なんともまぁ、いつもどおりの無理無茶無謀。呆れるどころか感心します。
「汝の欲に道を示さん。昂ぶるままに焼き尽くせ。求めるままに融かし尽くせ」
お嬢が真横に構えるは、赤毛のクルスの振るった愛剣。錆びず毀れずの希少金属、
「我はすべてを代行する」
そんな刃の輝きが、いま染まろうとしています。
赤い光が剣へと集まり――
「《
炎となって猛りました。
《終の炎腕》。旅の始めにもぶちかました、お嬢の有する最高火力。
しかし、その様相は以前とは異なっていました。
以前は巨大な剣のように現れた炎。それが今は剣のなかに押し固められていました。刃全体が煌々とした陽の色に染まり、開放される刻を待っています。恐らくは素材となった至鋼の性質なのでしょう。以前の剣では溢れてしまっていた力が、刃のなかに圧縮されているのです。
力強く美しい炎は、もう揺らぎません。
「これって……!」
「いけそうですか?」
「当たり前でしょ!」
ニッと笑って、お嬢が波を見上げます。
飛沫を散らし迫りくる、陽すらも隠す大海嘯。水平線すら隠す異様は、まるで巨大な壁のよう。どれだけ巨大な船であれ、これの前では砂の城。あっという間に海に呑まれ、藻屑となる定めでしょう。
まぁ実際は、そんな恐ろしいもんじゃないんですが。
こんなもの、子離れできない親の駄々。
愛しい人を娶るための、試練のひとつに過ぎません。
「それじゃ、いつでもやっちゃってください」
「えぇ。後詰めは任せるわよ、ラン」
お嬢は深く息を吸い、錆びた柄を握り直します。
しかし、お嬢は数秒経っても動きません。
飛沫に頬を濡らしつつ、波を睨んだまま。
らしくなく緊張しているのでしょうか。
「……失敗したって、オレが何とかしてやりますよ」
からり笑って肩を叩くと、お嬢は驚いたように身を跳ねさせます。
「後のこととか周りのこととか、そういうのを考えるのはオレの役目ですから。お嬢はただ、いつもどおりに無茶苦茶すればいいんです。そういう生き方のアンタにこそ、オレは惚れちまったんですから」
「ッ……!」
ちょっと気取って言ってやります。
するとお嬢は呆けた顔を背けてしまいました。
しかし、それも一瞬のこと。
再びこちらを見たときには、不敵な笑みが浮かんでいました。
「ラン」
「はい?」
言いながらも、お嬢は剣を振りかぶり――
「生意気!」
全力で振り下ろしました。
煌々輝く陽の刃は勢いままに伸びていき、波の頭をかち割ります。しかし紋章術で操られた水は、次々に海から補充され、簡単には消しきれません。海と炎のつば競り合い。蒸発音が響くなか、熱気と風も吹き荒れます。船の白帆も狂ったように膨らんで、船体を強く押していました。おかげで彼我の距離は変わらず、まるで止まっているかのようです。
流石はお嬢、本当に大波を抑えています。
とはいえ、言い方を変えれば、一息に切れなかったということ。
加えて、紋章術の強さで言えば、ファルサさまに分があるようです。
炎の勢いは当初の七割。些か分が悪そうな。
「く、ぅッ……! こん、のぉォおおおおおおッ!!」
押し寄せる波に負けまいと、お嬢が火力を強めました。
炎は力を取り戻し、海を湯気へと変えていきます。
ですが当然、無茶には代償が付きもの。
お嬢の息は荒く乱れ、油のようにねばつく汗を、額にいくつも垂らしています。身体を支える足は震え、船の揺れに倒れずに居るだけで一苦労。いくらお嬢がアディエラに愛されていようと、その力を引き出すには体力を使うのです。
このまま押され続ければ、遠からず船は沈むでしょう。
そうなれば、オレたちの夢は海の藻屑。海に溺れたお嬢はファルサさまに引き上げられ、そのままグァルグとの契へと。オレはそのまま沈んで死ぬか、良くてもスティルベルからは追い出され、二度とお嬢には会えません。
まぁ、もちろん。
そんな終わりは認めませんがね!
「天の靴音。風の番。情深き踊神ダリオンよ――」
惚れた女だけに戦わせては男が廃るってもの。
隣に立つと決めたから、オレは挙式に乗り込めたのです。
炎が揺らぎ弱ったいまこそ、甲斐性を見せるとき。
「夜を抱き朝に口付けるまで、盛りのままに靴を鳴らせ」
波を見据えて唱えていると、ふと、奇妙な感情に気付きました。。
楽しいのです、とても。
迫る波濤を前にして、恐れや緊張が嫌というほど溢れているというのに、それを塗りつぶすほどの興奮が胸を鳴らし、笑みが溢れて止まりません。
これではまるで、お嬢のよう。
いいや、お嬢のせいでしょうか。
「我は伴音、踊りの在り処。汝は花人、星の律動」
お嬢が今を楽しんでいるから、オレまで楽しくなるのです。数年と経たないうちに、お嬢のような冒険バカになっちまうかもしれません。ほら、恋人同士になると相手に似てくるとか言いますし。
きっとこれからも、こんな日々が続きます。
お嬢と一緒にバカをやって、旅を肴に飯を食い、食の美味さに舌鼓。見知らぬ景色を探した果てで、同じように心を揺らし、たくさんの初めてを味わい尽くす。時には危険もあるでしょうが、それを含めて楽しめりゃいい。
もちろん、そんな冒険のなかでも、オレはお嬢を口説くでしょう。そう簡単に落とせるとは思いませんが、そう出来る日々がすでに幸せなのですから、何十年でも粘れます。そしていつかはベッドのうえで、アンタを抱いてみせるんです。
「ともに魅せよう、果つるまで!」
やましい夢を守るためにも、オレはここじゃあ止まりません!
「《
海裂く風が炎に加勢し、青を僅かに押し退けます。
しかし悲しいかな、ダリオンの紋章術は威力に欠けるもの。風という特性上、吹き飛ばせない相手には弱いのです。大波相手でもそれは変わらず、さほどの成果は出せません。
ですが、オレの相手はもとより海ではありません。
狙うべくは、炎。
最初からずっと、そうでした。
『冒険とは炎のようなものだ』
以前、ファルサ様はそう語っていました。
『灯る間は暖かく、輝きに人を惹きつける。しかしひとつの風で揺らぎ、わずかな雨に溶けるもの。よしんば庇を得たとして、最後は灰と散るだろう』
たしかに風は炎を揺らがせますが、それだけではありません。
ときとして、風は炎を助けるもの。
小さな種火が風を受け、大きな篝となるように。
「こ、の、無駄に盛り上がっちまって! 言うこと聞けってんですよ!」
必死に風を制御します。
もともと《
必要なのは想像力。必死に頭を回します。
邪魔な飛沫を弾き飛ばし、炎の熱を落とさぬように。
足りない空気を送り込み、炎が息をしやすいように。
そんな想像を重ねるなかで、ふと気が付きました。
こんなもの、普段と同じじゃないですか。
お嬢に色目を使った男をしばくときのように。
お嬢の寝息を堪能するときように。
お嬢の笑顔を守るように、風を操ってやれば――
「……いやぁ、コレで上手くいっちまうとは!」
我ながらどうかと思うイメージでしたが、不思議と上手くいきました。
逆巻く嵐が空気を吹き込み、先程までが種火に見える勢いで、炎が膨らみ育っていきます。剣というより巨大な炎柱。天にも届く紅の梯子。海ごと切り裂く大火力。もはや海などなんのその。炎の剣の付近では即座に水が蒸発し、ぽかりと穴を作っています。
「わ、ちょ、すっごい火力! やるじゃな――」
「っと、お嬢!」
傾いたお嬢の身体を間一髪で支えてやります。
腰を横から抱く形。
いやぁ、役得。海に感謝。
「……ありがと」
失態が恥ずかしいのか、お嬢はバツが悪そうに唇を尖らせてました。
こちらこそ、と言いたい気持ちを抑え、海へと視線を戻します。
大波には既に、先程までの勢いはありませんでした、が。
「ほんっと諦めが悪いですね、あの方は……!」
寄り集まった海が波を支えようとしていました。
最後の足掻きなのでしょう。再生は到底間に合っておらず、穴はどんどん広がっていきます。このままお嬢が力を込めれば、波はあっさりと霧散してしまうに違いありません。
お嬢もそれに気づいているのでしょう。
剣を握る表情は、勇ましいよりも、寂しそうに見えます。
「……小さいわね、スティルベル」
波に開いた大穴の向こう。
故郷を眺めながら、お嬢がぽつり。
「寂しいですか?」
「ちょっとだけ、ね」
それも当然のことでしょう。
お嬢にとって、島は檻であり、揺り籠です。
外の世界に憧れようと、島を愛していたのも事実。島に住まう人々と触れ合うことも、ジレンの料理を食べることも、珊瑚の海を泳ぐことも、出来なくなってしまうのです。寂しがるな、なんて言えるワケがありません。
だから代わりに手を動かします。
剣を握る掌に重ねるように、左の掌を重ねました。
「ご一緒しても?」
「……うん、ありがと」
晴天のなか、雫を垂らす大波。
それはどこか寂しそうに見えました。
ひょっとしたら、ファルサさまへの負い目があるから、そう見えるのかもしれません。たとえ娘に憎まれようとも、その命を守り抜く。なんの葛藤もなくその選択に至ったのだと思うほど、彼は他人ではありません。
立場の違いこそあれ、何年もおなじ屋敷で過ごしたのです。恩義はもちろん、親しみだって十分に感じています。術者としての力や島を国へと育て上げた手腕は尊敬していますし、お嬢に向ける愛情にも共感できる点は多くありました。
きっと、オレ達が逃げ果せれば、嘆き悲しむことでしょう。
それでも、オレ達は選んだのです。
お嬢は自由を。オレは愛を。
だからもう、するべきことは決まっています。
「お父様……」
「ファルサさま」
オレ達はただ、ゆっくり高く剣を掲げて――
「行ってきます!」
「娘さんはオレが幸せにしますんでッ!」
別れと共に、振り下ろします。
赤剣一閃。
炎は絵筆で塗りつぶすように、波を紅蓮に染め上げます。
剣の軌跡の向こう側に、ほんの一瞬、青空が映りました。
海を裂き、雲を開いた一撃。
それほどにすっぱりと、お嬢は波を断ったのです。
が――
「う、ぉぉおおおおッ?! ちょ、お嬢ッ! やり過ぎですってぇ!」
「アンタも一緒にやったじゃない! ぐッ、このッ……、きゃあッ!」
「お、オレに捕まっってくださ……、あだぁッ?!」
一挙に気化した水は、爆発じみた衝撃も生み出しました。
波は煽られ、風は吹き荒れ。
船もとうぜん、飛びはねて。
到底立っていられない揺れに、オレ達の身体も飛び跳ねます。最初はどうにか耐えてましたが、やがて甲板を転がる羽目に。どうにか掴まれるところを探しつつ、お嬢と一緒にてんやわんや。なんとも格好の付かないものです。
そんな騒ぎのなかにふと、飛沫のなかに浮かぶ虹。
輪っかの奥にはスティルベル。
オレは七年、お嬢は十七年の時を過ごした、愛しき故郷。
小さくなっていく島国に、心のなかで別れを告げます。
さらば、星と猫の国。
いつかまた、廻る世界の片隅で。
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