黝い愛
はじめて喪失を味わったのは、いつのことだっただろうか。
足を波につけながら、ファルサはぼやりと考えた。
物心付く前からファルサは旅のなかに居た。
父母は名だたる冒険者。クルス=シーカーとその妻レイラ。旅の最中に生まれたファルサにとって、揺り籠とは馬車のことで、子守唄とは地形を変える勢いの夫婦喧嘩のことだった。ジレンが己を抱えて逃げ回っていなければ、恐らく自分は母の術で消し飛んでいただろう。
一風変わった幼年期だったが、悪くなかったように思う。
家族がいた。
父の胡座に収まりながら、焚火の熱に手を引かれ、夢に落ちていく暖かさを覚えている。次の朝には母と共に川で衣服を踏み洗い、ジレンの料理を腹いっぱいまでむさぼった。たとえ風を凌げぬ場所でも、誰かのぬくもりが己を包んでくれていた。
友も得た。
ひとところに留まれぬ旅人故に、長く共にあることは出来なかったが、あまねく世界に山程の友が出来た。旅の話に目を輝かせる友人たちに、優越感を覚えることもあれば、当たり前を知らない自分に恥じ入ることもあった。
グァルグもそんな友のひとりだ。
まだ無慈悲だった頃のイスラフラッグで出会った男。当時の彼は子犬のようで、弟が出来たような心地だった。普段から子供扱いされてばかりの反動もあって、彼には随分、年上ぶってしまった覚えがある。幼いながらに紋章を授かり、獣へと変じたことに悩んでいたが、共に遊ぶ最中は年相応に笑っていた。
どれもが暖かく、懐かしい旅の記憶。
それを知っているからこそ、旅の素晴らしさは理解できる。
だが――
「凪の花嫁、揺蕩う月、悲嘆に溺れし蒼神ティールよ。海を浮かべし大海月。略取の渦を鎮めし女よ」
冒険とは炎のようなもの。
己の炎が消え始めたのは、きっと足を喪った時だ。
まだ若い、エイルと同じ年の頃。偉大な父母との差に苦しみ焦り実力に見合わぬ仕事を引き受けた。驕りと逸り。数多の冒険者を殺してきた毒が己だけを許すことはなく、ファルサは無惨に足を喰われた。
それからだ。
きっとそれから、すべてが変わった。
「我は汝と歩む者。異なる海を望む者」
半年の後に、己は旅を諦めた。
戦うだけなら出来た。研鑽に研鑽を重ねた紋章術は、足がなくとも敵を仕留めることが出来た。しかし冒険となると話は違う。杖がなければ立ち上がれもしない隻脚の男が、どうやって山や遺跡を行くというのか。事故のひとつ、罠のひとつで残った命も失うだろう。場合によっては、家族の命すらも巻き込んで。
無人島に街を作ろう。
父が無茶を言い出した理由もきっと、己の負傷だったのだろう。
しかし事実、かつての悪食島――スティルベルでの暮らしは、大いに私を癒やしてくれた。移民たちとの交流は、かつてのような出会いをもたらした。ひとところに留まる暮らしも、決して悪くないと思えた。
妻とも、そのような日々に出会った。
杖などよりも、よほど芯の強い女性だ。
彼女のおかげで、私の炎は持ち直したのだ。
血を繋ぎ、身体を重ね、子に恵まれた。
ラインの産声を聞いたとき、嬉しさよりも安堵が勝った。
エイルが生まれた時などは、私の方が先に泣いた。
あぁ、覚えている。覚えている。
はじめて歩き寄ってくれた日。
私を父と呼んでくれた日。
私を愛してくれた日々。愛を返せてやれた日々。
足を悲観する暇もなく、光のように過ぎる時。
島に人が集うにつれて、私はふたりだけの親ではなく、島を育てる立場になったが、それも悪くないと思えた。ふたりが生きる世界を作れるのだと、かつての悲嘆が嘘のように、未来のために生きられた。
だがある日、妻が死んだ。
「拭えぬ悔悟に淀む嘆きを、いまは我が身に預けたまえ」
――あなたは王様だし、足だって苦しいでしょうから。
そう言ってひとりで向かった、里帰りの旅でのことだ。魔物に食い荒らされたのか、あるいは盗賊どもの悪行なのかすらわからない。遺体すら帰ってこなかった。
どれほど嘆いたことだろう。
旅になど行かせなければ、いまも隣で笑っていたのだろうか。
「星を包みし揺蕩う蒼。地に蔓延りし片生い
喪うばかりの日々が続く。
お調子者で無鉄砲なラインは、父に憧れて旅に出た。
それからは一度の便りもない。きっと、どこかで野垂れ死んだのだ。
隠遁していた父クルスも、やはり旅へと。
流れ着いたあの剣は、きっと遺品になるのだろう。
妻も、父も、息子も、旅のなかでみな居なくなった。
だから私は、たとえ罵られようとも、
忘れるものか、喪うものか。認められなど、するものか。
生きているだけで、いいだろう。
生きて、側に居てほしい。
それだけなんだ。
「あまねくすべてを
蒼神ティールよ、貴女ならばわかるだろう。
悲嘆を押し付け、喪失から逃げ続けた、臆病者の貴女ならば。
たとえ自分が厭われようと、たとえ正しくなかろうと。たとえ傷つくことになろうと。それでも我が子を守りたい、私の気持ちがわかるだろう。
揺蕩う月よ、大海月よ、どうか、どうか。
黝いこの愛に、力を――
「贖いを此処に――《
願いと共に、杖が水面に波紋を作る。
それは島を飲み込むほどに広がり、ファルサの想いを深く伝えた。
偽りの潮騒が響き、海が一箇所へと集っていく。
それはやがて、見上げるほどの大波の形を成す。
行かないでくれ、側に居てくれ。
そんな願いが生み出した、娘を囲うための腕。
押しつぶされれば船は砕け、下手をすれば乗員も即死だろうが、エイルならば死ぬはずがない。海へと沈むことはあれ、ティールの紋章術があれば引き上げる程度は出来るだろう。ランネルにしても――こちらは死んでも良いが――同様だ。
あるいは、この苦境を乗り越えてしまうことさえ有り得るのでは――
「……何を考えているのだ、私は」
矛盾した想いに苦笑が浮かぶ。
叶うはずがない。この波は己の全霊を賭けたものだ。この状況であるからこそ、神の力を借り受け、紡ぐことができた最高難度の紋章術。かつての旅のなかですら、この術が成功したのは数度だけだ。
この術を前にしてエイルに出来ることはないだろう。
これで娘を取り戻せる。
確かな安堵に包まれながら、ファルサは波の行方を見遣り――
「まだ諦めんというのか、あの二人は……!」
目を見開いて、それを見た。
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