もしも錨がなかったら

 ――このバカ女、なぜ来やがった。


 花嫁の去った戦場で、グァルグは拳を握りしめた。

 炎の作った焦げ跡ばかりが残る道には、花嫁たちの姿はない。焼け焦げた身体に鞭を打って立ち上がったというのに、想定外の邪魔者のせいで取り逃がしてしまった。

 ウィナ=コット。

 グァルグの意に背きエイルを襲い、イスラフラッグを追放された女。

 彼女は何も言わず、ただグァルグを見つめていた。よくも追放したなと怒るでもなく、かつてのように奇声とともに飛びついてくるでもない。優しい微笑みとともに、まっすぐに視線を向けてくるのだ。

 あまりにも穏やかな表情なものだから、どう声を掛けるべきかも分からない。

 だがグァルグは船長だ。

 果たすべきを、果たさなければ。


「そこに立つ意味は分かっているな?」

「はい」


 ウィナは微塵の恐れも見せず、静かに頷いた。

 

「裏切りを追放だけで済ませたのは、俺の温情だ。これまで船に尽くしてきたお前を殺すのは、あまりにも忍びなかった。だがな、あれは特例中の特例だ。邪魔をするなら、殺さにゃならねぇ」


 花嫁を追いかけるため、だけではない。

 海賊の掟に反し、二度も裏切った女だ。野放しにして、部下に隙を見せてしまえば、彼らに大船長の座を奪われかねない。いまの貿易路線を望まず、かつての無法を求める海賊も多いのだ。イスラフラッグは血濡れの海に戻すわけにはいかないのだ。

 無論、殺したくはない。

 彼女はただの部下ではないのだ。鎖から放ってやった時から既に十数年。手ずから鍛え、ともに飯を喰らい、泳ぎを教えた妹分だ。情を抱かない訳がない。


 ――だけど俺は、やらなきゃならねぇ。

 

 自身の意思など関係ない。

 船を守るための判断を誤ってはならない。

 それが己の選んだ、イスラフラッグの船長としての在り方なのだから。

 

「首など惜しくはありませんわ」


 ウィナの答えにグァルグを低く唸り、青く澄んだ空を見上げた。

 やはり、殺さなければならない。

 だがその前に、確かめておきたいことがあった。

 

「……わからねぇなぁ。命を賭けてまで邪魔する理由があるのか?」


 それだけが、グァルグにはわからなかった。

 人を見る目には自信があったし、事実、優れているとは思う。部下の野心は先んじて折ってきたし、才を活かせない部下は相応しい場所へ導いてきた。まだ年若かった己が大船長という地位まで登りつめたのは、決して幸運に依るものだけではないと自負している。

 だというのに、十数年も共に在った女の心がわからない。

 知らなければ。

 誰より手をかけ育てた部下が、どうして己を裏切ったのか。


「俺のことが憎いのか? お前の想いに応えられない、俺のことが」

「貴方のことを憎んだことなど、ただの一度も」

「ランネルに感化されでもしたか? 自分の代わりに、あいつだけは、と」

「他人の恋を慰めとするほど、 弱い女ではありませんわ」


 だったらなぜだ、なんだというのだ。

 苛立ち、焦り、悲しみ、後悔。

 あらゆる気持ちが波打って、沈んでしまいそうだった。

 答えろ、とウィナを睨む。


「私が彼らを助けたのは、ただ借りを返すため」


 彼女はいつものように微笑んで、口を開いた。

 

「借り?」

「この場を作ってくれた借りですわ。追放された私では、どう足掻いても貴方さまと二人にはなれなかったですもの。もちろん、それだけではありませんが」


 確かに、ウィナひとりではそんな機会は得られなかっただろう。

 彼女は追放されているのだ。この島がイスラフラッグの外である以上、すれ違う程度ならば許されよう。だが、海賊たちの長との対話となれば話は別。そんな真似をしようものなら海賊たちからタコ殴りだ。

 さらに言うならば、グァルグとエイルの婚姻が成れば、実質的な国家間の同盟となる。ウィナはスティルベルに居られなくなり、イスラフラッグに帰ることも許されない。そうなれば、グァルグとの対話など一生掛けても成し得ないだろう。

 理由の一部には合点がいった。

 だが、そもそもの話が抜けている。


「……そして私がここに来たのは、貴方に伝えたいことがあるから」


 そらきた。

 結局のところ、ウィナは己に恨みを吐きたいのだ。

 家族を殺した海賊への恨みか?

 それとも、忠義と好意を裏切り夢を選んだ男への?

 何であれ、グァルグは彼女を殺すつもりだった。たとえ筋道が通った理由があろうと、海賊が裏切りを許す道理はないのだ。胸に留め、二度と同じ理由で裏切りを生むぬよう心掛けこそすれ、グァルグのすべきことは変わらない。

 この拳で頭蓋を砕き、花嫁を追うだけだ。


「言ってみろよ、ウィナ。俺を裏切るだけの理由ってヤツをよ」

「それは……」


 どうやらウィナは、ここにきてようやく恐れを覚えたようだった。胸に手を当て、喉を震わせ、言葉を吐こうとしては詰まらせている。まるで海賊らしくない振る舞いだ。この局面で邪魔をしに来る度胸はあるのに、ここ一番で命が惜しくなったのだろうか。らしくない、と失望すらも感じてしまう。


 それでも、やがてウィナは顔を上げた。

 潮風に、短くなった彼女の髪がなびく。

 深く息を吸う音がした。

 悲嬉入り混じった奇妙な表情で彼女は口を開いて――


「お慕い、しておりました」


 たったそれだけの言葉を告げた。

 なにを。

 言っているのか。

 男は絶句し女を見遣る。緩んだ拳すら握り直せぬまま。

 

「これだけは伝えておきたかったのです」


 照れたように、女は顔を赤らめる。

 対して男は、好意に戸惑い続けたまま。

 

「ンなこと言いに、来たのかよ」


 必死に海賊を取り繕った。


「分かってんだろ? 俺は俺の夢のために、俺のすべてを利用する。お前が俺を好いたところで、応えられやしないんだ。ンなこと、とっくに分かってただろ。なのにこんな、こんなことで命を捨てる真似しやがって」

「それだけの価値がある、こんなこと、ですから」


 やっと言えた、と海賊を捨てた女は笑った。

 理解できない、と海賊を統べる男は顔を背けた。


「さぁ、もう結構ですわ。命を奪うなら、どうぞ遠慮なく」


 ウィナは大きく手を広げる。

 乙女の顔をしたままだが、愛を求めてのことでは無いだろう。

 裏切りの対価を支払うと、彼女は言外に告げているのだ。


 ――バカな女だ、本当に。


 彼女の内にあるものが愛であれ恨みであれ、己のすべきことは変わらない。死を受け入れるというのなら、望み通りに与えてやろう。それがイスラフラッグの大船長として、彼女を育てた者として、それが相応しい答えだろう。

 

「じゃあな、ペルラオルカの雌鯱よ」


 裏切りを重ねた海賊には、断頭台すら不必要。美しい顔を殴り砕き、裏切りの咎を精算する。それでようやく、彼女を部下として迎えた船長の責務は果たされる。

 グァルグは黙って拳を構えた。

 獣の脚が土を擦る。

 狼が獲物に飛びかかるように、グァルグは走り出した。

 振りかぶった拳が裏切り者へと迫っていき――


「……やっぱり、お優しい方ですわね」


 女の眼前、静止した。


「なぁんで、殺せねぇんだろうなぁ……」


 糸が切れたように膝を突き、泣き出しそうな顔を浮かべる。

 本気で殺すつもりだった。

 けれど頭を過ぎってしまった。鎖を解かれた夜のこと、泣きながら食事を貪る幼い姿。はじめて船を操らせ、四苦八苦とする困り顔。出会う度に向けられる、受け入れられない幸せな笑み。己を慕い続けてくれた、何よりも美しい宝との日々が。


「……たとえ望んだ形でなくとも、貴方の心を預かれたこと、光栄に思いますわ」

 

 すっかり垂れた耳の間を、ウィナは慈しむように撫でていく。

 ほんの一時だけでも願いが叶ったのだと、幸せそうに。


「ご安心を。貴方に傷は残しませんわ。同盟の件も心配なさらず」

「なんの、話だ?」

「……お話したいところですが、そろそろ船出の時間です」


 不意に、毛皮に感じる温もりが消え、グァルグははっと顔をあげる。

 直後、眼の前の光景に、グァルグは目を奪われた。


 ――美しい。


 そうとしか言えないような光景だった。

 島から離れゆく白帆の群れと、どこまでも続く蒼い海。それを背負った女がひとり、坂道のなかで寂しそうに笑っていた。潮風に揺れる金の髪は黄金のようで、房の隙間から見える光ですらも、真珠のように輝いていた。

 

「それでは、グァルグさま」 


 一瞬とも永遠も付かない、止まった時が動き出す。

 ウィナは優雅な礼をひとつ落とすと、最後にもうひとつ微笑んで。


「……お元気で」


 まるで砂のように、飛び去った。

 男は思わず手を伸ばすが、追いかけることは出来なかった。

 グァルグはイスラフラッグという船を駆る船長だ。そのグァルグが、掟破りの裏切り者を、私情で許すことなどできない。船長自身が私情で無法を選んでしまえば、船はかつてのように荒れるだろう。

 だが本来、船長としては追いかけるべきだ。追いかけ、ウィナを殺し、花嫁を捕らえるべきだ。同盟は成るという、真偽も分からないウィナの言葉など無視して、エイルを娶らなければ。イスラフラッグの益を損なうわけにはいかない。

 そう分かっていながらも、彼は追いかけられなかった。


「……あぁ、イイ女だったなぁ」


 火傷の痛みに倒れ込み、真っ青な空に手を伸ばす。

 妹であり、娘であり、部下であり、相棒であり。

 もしも錨が無かったら、愛せたのかもしれない女。

 その美しさに想いを馳せつつ、グァルグは気を失った。

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