緑の地平、揺らぐ炎
地平線。
その言葉に想像する景色はどんなものでしょうか。
オレに生まれた者にとっては、ふたつの青がそれでした。どこまでも高い空と、怖いくらいに広い海。小さな島国であるスティルベルにとっては、地平線という言葉は水平線を指すものだったのです。
ですが、大陸に住まう人々にとっては違うのだとか。
砂の逆巻く乾き海。黄金と見間違う麦畑。柔く凍てつく雪の園。
そしてもっとも多いのは、緑であると聞いています。
いま、オレたちのまえに広がっているような。
イスラフラッグの南、帆風平野。
はるか果てまで続く草原。すぐそばの崖の下にはまだ海が広がっているというのに、潮風に負けず草木が強く育っています。広く育った草花が海風に踊る光景は、まさしく緑の地平線。草の揺らぎと波のさざめき。ふたつの波音が重なり合い、綺麗な声で歌っていました。
この光景も、オレたちにとっては初めてのもの。
ゆっくりと眺めていたい景色でした、が。
「魔物どもが居るってなりゃ、感動してる暇もねぇんですよね!」
苛立ちを棍に乗せて、二匹の魔物を薙ぎ飛ばします。
魔物。
偉い学者さんの言うところの、魔力とかいう力の乱れが生み出した、尋常ならざる動植物。元の生物よりも凶暴で紋章術じみた力を使うことすらあり、人間はもちろん、本来の生態系にとっても厄介な存在で、世界にとっての嫌われ者です。
オレたちに襲いかかってきたのは、野犬が変じた魔物でした。
通称、イービルドッグ。
ありふれた魔物と聞きますが、侮れない相手です。
元より、獣というのは人間などより強いもの。
魔物に変じたともなれば、油断できる相手ではありません。
こうした魔物への対策も、社会にとっての重要事項。
騎士や兵のみならず金を積まれた傭兵や――冒険者が動くこともあるのだとか。
お嬢の愛読する冒険録にも、魔物との戦いが山ほど描かれていました。
つまり、魔物というのは冒険の象徴でもあるわけで。
「大陸の魔物ってこんなもの? ほらほらもっと頑張りなさい!」
お嬢はとびきりご機嫌でした。
草原の感動を邪魔された悔しさよりも、魔物と戦える嬉しさのほうが、ずっと勝っているようです。ホントに好戦的というか。魔物以上に凶暴というか。直接言ったら怒られるので、口に封じておきますが。
とはいえ、戦闘の方は堅実でした。
首を狙った牙の一撃を躱すと同時に斬り返し。足を狙った飛び付きの予兆を見れば、軽やかに蹴りを合わせます。魔物が竦んで動きを止めれば、間髪入れずに紋章術。相手が攻めても守っても、お嬢の手からは逃げられません。
魔物の悲鳴で踊る刃。鼻唄まじりの獣狩り。
冒険王の孫娘は、今日も今日とて絶好調。
オレの気分と裏腹に、なんとも晴れやかな顔をしていらっしゃいます。
「よぉし、ざっとこんなもんでしょ!」
戦いはものの数分で終わりました。
魔物の大半は逃げ果せ、残ったものはよっつの骸。
ちょうど陽の傾く頃合いでしたので、魔物の解体も兼ねて野営をすることに決めました。
「んじゃま、血抜きはオレがやりますんで。お嬢は火の方を頼みます」
スティルベルにも獣は居ましたから、解体作業も慣れたもの。
島にいた頃は、食べる分だけでなく全身くまなく使いましたっけ。
革は衣類。肉は食料。血は薬。魔物の骸は貴重な資源でもあるのです。冒険者たちが魔物を狩るのは、素材が金になるから、という理由もあるのだとか。ふつうの動物たちから採れる素材よりも、魔物の素材は上質ですし。
いまのオレたちに出来るのは最低限の処理だけから、食べる分だけを剥ぎ切って、死体はその場に残します。人が食おうが獣が食おうが、命は自然に還るもの。勿体ないとは思いません。
海水で肉を漬け込み、血と汚れを除いたころには、焚き火の用意もできていました。
「魔物を狩って素材を剥いで、焚き火を熾してその日暮らし。これぞ冒険って感じよね!」
肉を吊るし焼いていると、お嬢が機嫌よく言います。
「その日暮らし、なんて言っても、まだ街を出て半日ですがね」
「野暮なこと言うもんじゃないわよ?」
「はいはい。でも、本当に誘いに乗って良かったんです? ええと……」
「『帆継ぎの入江、グァルグさまには内密に』。ウィナはそう言ってたわ」
己の不覚を思い出したのか、お嬢は唇を尖らせます。
あの夜。何があったのかは、すでにお嬢から聞いていました。
甲板で空を見ていたお嬢に、ウィナが寄ってきたのだそうです。最初は剣呑な雰囲気もなく、互いの文化について話していたのだとか。食文化とか。結婚文化とか。
けれど、背を向けた途端に、ウィナはお嬢を突き落とした。
動機も目的も語ることなく、先の言葉だけを残して。
「どう考えても罠ですが、律儀に従っていいんです?」
「だって、逆らったらどうなるかわからないじゃない」
お嬢は組んだ手に顎を置き、凹んだ表情を浮かべました。
「……お祖父様の手記、盗られちゃってるもの」
大冒険者、赤毛のクルスの冒険録が、荷物から消えていたと気付いたのは、街から出る直前のことでした。昨夜まではあったとのことですから、ウィナが盗み取ったのでしょう。
あの手記は、お嬢にとっての宝物。冒険心の原点でもあり、大事な祖父の思い出の品。さらに言えば、クルスさまを探す旅にとっても大事な手掛かりですから、諦める、という選択は選べませんでした。
「でもどうして、ウィナは手記なんて盗んだんでしょうね」
「あの手記、好事家に売れば屋敷のひとつくらいは建つわよ?」
「マジですか?!」
「世界に一冊しかない、お祖父様直筆の原本だもの」
さすが高名な冒険者の手記。
いや、それだけ価値がある代物だったら、もうちょっと大切に扱いましょうよ。こないだは身体で潰したまま寝てましたし、なんならよだれが掛かってたことだってありましたよ?
「だけどお金が目的だったら、あたし達に喧嘩を売る理由がないわ」
「こっそり盗んで逃げちまえばいい話ですもんね」
「なにか面倒事に巻き込まれてるんだわ、あたし達」
お嬢が目を細めて言いました。
「ランだって気付いてるでしょ? グァルグもウィナもなにか隠してる」
「そりゃあもちろん。怪しくないところの方が少なかったですし?」
指を立てながら、オレの考えを語ります。
「まず、親切過ぎます。商人ってのは金貨で動く人種なのに、それにしちゃ対価が安すぎる。スティルベルの情報なんざ、お嬢以外にも聞く当てはあるでしょうに。お姫様だからってコトにしても、家出の手伝いをするってのは変でしょう」
「まるで接待みたいだったわ。数日分の滞在場所に、お祖父様の情報、案内人まで付けてもらえるなんて」
「案内人ってか、ウィナは明らかに監視ですよね?」
「そうじゃなきゃ、あんなに強い人を使う理由がないわ。勿体ないもの」
お嬢は苦笑交じりに頷きました。
「なにより怪しいのはグァルグですよ。アレ、商人に見えます?」
「いいえ、まったく。ま、そっちは見当が付いてるからいいわ。それより問題なのは、あたし達の身の振り方だけど……、……ラン、焦げちゃう!」
慌てて見れば、肉が炎に巻かれていました。
したたる脂を糧にして、火力が増してしまったのでしょうか。
「うぉッと! あ、ちちッ! お、お嬢、食器を!」
「ねぇ、ラン! 鞄がごちゃごちゃでどこにあるのかわからないんだけど!」
「ぶちまけていいですから、早く持ってきてくださいってぇ!」
どたばたアチチの騒動の末、飯の準備が整いました。
今日のメニューは、イービルドッグの背肉焼き。
薄めに切った肉を吊るして焼いたシンプルなもの。本来であれば、筋肉の多い獣肉は、煮込み料理が最適ですが、いかんせん真水と調味料が足りません。仕方なしに、比較的やわらかい背肉を使ってみましたが、果たしてどうなっていることか。
少なくとも、見た目は悪くありません。
香ばしい赤黒の焦げ。光沢のある茶色の艶。煙の香りは肉まで染み込み、ほのかな獣臭さと合わさり、原始的な食欲をそそってきます。背肉ながらも脂が滲み、炎の光を返していました。
「それでは、海と大地のお恵みと」
「
いただきます。
「ん、あづッ。あっついです、けど、こりゃあなかなか……」
塩と香草だけの味付けにしては、なかなかの出来栄えです。
脂の滲んだ褐色の焼き目は伊達ではなく、歯を通すとカリっとした香ばしい音を立てるほど。多少の臭みは残っているものの、海水で漬け洗いをしたおかげか、不快な匂いはありません。むしろ、独特な風味となって、食欲をそそるほどでした。
惜しいところがあるとすれば、猫舌のオレには食べ辛いことくらいです。
「んん~~ッ! なんか、冒険してるって感じ!」
ぺろっと皿を空にして、お嬢が腹を擦りながら言いました。
「ほひゃ、ほーへん、ひへはふはら」
「そうね。冒険してるんだわ、あたし達」
肉を頬張ったまま頷きます。
陽と星の境目で、篝火を囲んで肉を食う。
それはたしかに、冒険らしいシチュエーションです。
「ね、ラン。さっきの話だけどね」
「ほろはらひへふ?」
「身の振り方の話! 手記を回収した後のこと!」
真剣な話に切り替わったようなので、肉をごくんと飲み込みます。
「オレとしちゃ、さっさと逃げちまいところですけどね。お嬢に危害が加わる可能性があるなら、イスラフラッグになんか近寄りたくはありませんよ」
さらに言えば、逃げるチャンスは今だけという可能性もあるのです。
グァルグさまには内密に。
ウィナがそう言っていた以上、彼女の行動は独断のはず。オレたちが街の外に出たことだって、想定外に決まってます。逆に言えば、いまを逃せば泥沼になってしまうかも。
「お祖父様の情報は――グァルグが信用できない以上、意味はないわね」
「情報なんて、旅するうちに手に入りますよ。あの人のことですし」
「そうね。きっと山みたいなドラゴンでも殴り飛ばしてるわ」
「流石にそれは……いや、あり得ますね。あの豪快天然バケモノ爺なら」
船よりデカい巨大イカを素潜りで狩って島民に振る舞ってましたし。
ありゃ本当に美味かった。また口にしたいもんです。
「で、お嬢の計画は? 裏を調べて殴り込みですか?」
「必要だったらそうするけど、あんまり気乗りしないわね」
「おや意外」
「だってこれ、姫として巻き込まれてるじゃない。面倒よ」
と、言いながらの溜め息。
島外でも続く王族由来のトラブルに参っているのでしょう。
「じゃ、逃げちゃいます?」
「ウィナから情報を聞き出して、それが手に負えないものならね」
「素直に喋ってくれますかねぇ」
「渋るようなら、闘り合うことになるでしょうね」
いやはや、面倒なことになったもんです。
最初は、ただの商人が悪知恵を働かせているだけかと思いましたが、ウィナの凶行で一気に流れが変わりました。せいぜい、情報を持っていかれるだけかと思っていたのに、お嬢の身に危険が及ぶ事態になるだなんて。
「こういうトラブルが続くと、旅もなかなか大変そうですねぇ」
「なーに心配してんのよ。大丈夫に決まってるじゃない」
焚き火に照った表情は、オレの大好きな笑顔のかたち。
「あたしとアンタが一緒にいれば、怖いものなんて無いんだから!」
だというのに、なぜだけ胸が弾むことはありませんでした。
やがて、夜。
遠くから聞こえる波の声と、お嬢の寝息。
それから、火の弾ける音だけが、ただ繰り返し響いています。
不寝番の交代まで、ぼんやりと炎を眺めていると。
「……冒険とは、炎のようなもの」
ふと、ファルサさまの言葉を思い出しました。
『灯る間は暖かく、輝きに人を惹きつける。しかしひとつの風で揺らぎ、わずかな雨に溶けるもの。よしんば庇を得たとして、最後は灰と散るだろう』
彼の言葉が、いまさらのように伸し掛かってきます。
お嬢が襲われたとき、オレはなにも出来ませんでした。
助かったのだからいい、だなんて思えません。
だってもし、もしですよ。
ウィナがお嬢を突き落とすのではなく、刃物で刺し貫いていたら?
『如何に力を積んだところで、寝首にナイフを突き立てられれば容易く死ぬ。危険のない冒険など、この世のどこにもありはしない。そんな世界に娘を向かわせたい父親がどこにいる?』
お嬢がいくら強くたって、オレが力を尽くしたって。
ほんのすこしの油断や不運で、旅は終わりを迎えるのです。
「……いまさらでしょう、そんなこと」
あのとき嘘を吐かなければ。
愛だなんて勝手な理由でお嬢を旅に連れ出さなければ。
そんな風に考えることこそ、無責任ってもんです。
「大丈夫ですって、きっと」
自分に言い聞かせながら、空を見上げます。
星は見えませんでした。
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