ペルラオルカの雌鯱
七年と十七年。
それだけの年月、オレたちは島国で暮らしてきました。
響く波音。漂う磯香。絶えずに歌う海鳥たち。
そんな海辺の空気など、とうに肌に染み付いています。
イスラフラッグとて港町。たとえ他所の港であろうと、感動するとは思えません。ちょっと大陸が違うところで、港が港である以上、さほど変わらないハズで、新鮮な驚きがあるとは思えないのです。
お嬢の機嫌をどう取るべきか、いまのうちに考えておかなければ――
「こりゃあ、なかなか……」
「すごい、すごいすごい、すッッ、ごーーーーいッ!!」
なんて心配、まったくの杞憂でした。
まず目に入るのは、街をすっぽりと覆う半球状の岩の屋根。波が作ったものらしく、この地を海賊たちの隠れ家とする礎であるもなのだとか。
そんな日陰にあったとなれば、さぞ薄暗く陰気な街なのでは。
なんて思っていましたが、その心配もまた、杞憂でした。
岩屋根のあちこちに空いた穴から光が差し込み、街を照らしているのです。美しい白砂の入江や岸壁に茂る苔の緑が、陽に濡れて輝いていました。もちろん、多少の薄暗さも残るのですが、明暗の分かれた街というのは、どこか幻想的な趣がありました。
次に目に入るのは街並みですが、これまた奇妙な形でした。
なにせ、三層構造です。
いまオレたちが居るのは一層目。魚市場や海運向けの施設が多く、波止場からも多くの露店が見えています。上の層を見上げると、民家や店舗らしきものが多い様子。もしかしたら、層によって、建物の傾向が異なるのかもしれません。
グァルグの話によると、この特徴的な構造は、海賊たちの場当たり工事のせいなのだとか。不意の高波を防ごうと堤防を作ったものの高さが足りず、二度も追加で工事をしたため、こんなつくりになったらしいです。
国に歴史ありというか、なんというか。
「ねぇ、ラン! どこから見に行く?! やっぱりまずは食事かしら!」
「落ち着いてくださいって。あんまりはしゃぐと転びますよ?」
なんて口では言いつつも、オレも浮き足立っていました。
だって、まったく違う世界です。
例えば、市場の店先に並ぶ商品です。
魚は灰や濃紺といった地味な色で、これがまず驚きです。スティルベルであれば、魚といえば珊瑚のような鮮やかな色。恐らくは、味もまったく違うのでしょう。酒場の看板も見当たりますが、この土地ではどんな酒が飲まれているのでしょうか。少なくとも、あたりに椰子が生えていないところを見るに、慣れ親しんだ椰子酒ではなさそうです。
文化も風土もちがう世界は、未知が満ち溢れています。
そしてなにより、嬉しいことは。
「……ほんと、いい顔するんですから」
惚れた女の笑顔です。
あたりを見渡す様は楽しげで、瞳は爛々と輝いています。文字通り、冒険の一歩目を踏み出したばかりだというのに、これだけで旅に出てよかったと思えるほど。この表情がこれからも見られるなんて、楽園かと。
「あー、嬢ちゃんの顔を見てニヤついてるところ悪いんだが」
「うおッ?!」
耳元で響いた声に振り向くと、グァルグ船長がニヤニヤと笑っていました。
「俺はこれから飯に行くが、アンタたちも来るかい?」
「遠慮します。アンタみたいなお邪魔ケダモノ――」
「お願いするわ!」
オレの背中にお嬢が飛び乗り答えました。胸が当たって幸せです。
「ウチから出たくなるくらい、とびきりの店に連れてってやるよ」
船長に着いていくことに決まりました。不服ながらも。
目的地まで少々あるようで、海に沿うように波止場を進んでいきます。ときおりお嬢が露店に食いつき、これは何だとはしゃぐのですが、そのたびにグァルグ船長が懇切丁寧に説明してくれました。
魚の色味が薄いのは、涼しい海では普通だとか。露店に並ぶ赤い果実はトマトと言って、このあたりでは有名だとか。陸の輸送路もあるおかげで、海鮮以外の料理も豊富だから楽しみにしておけ、だとか。
そうした話は興味深く、オレも食いついちまうほど。
クルスさまが居たころを思い出します。武術の修行でお嬢と一緒に絞られたあとは、褒美のように旅の話を聞かせてもらいましたっけ。懐かしい。
「ねぇ、ねぇ! アレはなんの集まり?」
ふと、お嬢が指し示した先を見れば、そこには人混み。
それを見て、グァルグは首を傾げました。
「ん? あれはなぁ。あー……、あー?」
「おや。訳知り顔で解説してたくせに、答えられないものがあるんで?」
「そういうんじゃなくてだな。たぶんコリャ、揉め事だぜ」
「ほんとう?!」
揉め事、と聞いた途端に、お嬢が目を輝かせます。
止める間もなく、野次馬の一角に加わっていきました。
「あ、こら! 自分からトラブルに首突っ込むんじゃねぇですって!」
慌ててオレも追いかけます。
ぎゅうぎゅう詰めの見物客を掻き分けて、どさくさ紛れにお嬢の腰に触れやがった海賊の足を踏みぬいたりしつつ、どうにか騒ぎの中心へと。
「ですから、その略奪品は違法ですわ! いますぐ
「なぁにが違法だこのアマ!」「ンな証拠がどこにあるってんだよ!」
「どこから! どう見ても! 国章が入っているではありませんの!」
「はぁ? んなもんドコにあるんだよ、見えませぇ~んっての!」
「つぅか略奪に法だとか何だとか面倒だろうが」
「大船長の妹分だか知らねぇが、でしゃばりやがってよぉ~~~!!」
片方は、ガラの悪い海賊たち。
こちらは正直、見る価値もない小物でしょう。あぁいや、こんな荒くれ本当にいるのね、とお嬢は目を輝かせていたので。愚物にも愚物なりの価値があるのかもしれませんが。
そしてもう片方が――
「すっごく、きれいなひと……!」
お嬢が見惚れほどの美人でした。
波打つような金の髪。すらりと伸びた長い四肢。零れ落ちそうなほど豊満な胸。衣服こそ、ゆったりとした下衣と胸を隠す布切れだけといったシンプルなものですが、それが逆に彼女の美貌を引き立てています。真珠の
「まぁ、たしかに美人ではありますが……」
お嬢と比べれば真珠と海藻。
美しいとは感じるものの、惹かれるかといえば別の話。
あぁでも、一点だけ素晴らしいところがあるとすれば――
「……? なにみてんの?」
「いいえ、なにも?」
――大きさよりも形の方が大事だと思います。
なんて口には出しませんがね。焦げたくありませんし。
「げッ、なぁにやってんだ、アイツ」
追いついてきたらしい、グァルグ船長が呻きます。
「お知り合いですか?」
「まぁ、部下みたいなもんなんだが……」
疲れた顔で船長が零す間にも、海賊たちの口論は熱を増していました。
「オールム海の船からは略奪禁止だと言っているでしょう! 他国の港に錨を降ろせなくなれば、我々海賊は滅びますのよ!」
「あぁ? オレたち海賊がそんなもんに従うかよ!」
「偉大なる陸の船で商売をする以上、私たちの法は掟と等価ですわよ」
「知るかよアバズレ! とっとと帰って大船長にケツ振って抱かれてろ!」
「ケツ振っただけでサカる男なら苦労しませんわよ!」
なんというか、粗暴なやり取りです。小物たちは言わずもがな。女海賊も表向きは上品ぶった口調なものの、よくよく聞けば品の悪さが滲んでいます。海賊って、やっぱりこういうものなのでしょうか。
「ね、グァルグ。大船長ってここの王様みたいなものよね?」
「他所の表現で言うなら、それが一番近いだろうな。厳密にはちょいと違うんだが」
誇りやら掟やら色々とあるんだが、と零しながらもグァルグは頷きました。
イスラフラッグは海賊の国。本人の前では言いづらいですが、略奪を生業とする野蛮なヤツらの集まりです。普通に考えれば結束など出来るはずもなく、地に建てられた帆もすぐに折れて沈んでしまうでしょう。
だから当然、彼らを纏め上げる存在がいます。
それが、大船長と呼ばれる海賊たちの長、なのだとか。
「じゃあコレ、王様の部下が違法な商品を摘発してるってことね」
「海賊の国って言っても、そういう自治は必要なんですねぇ」
なるほど、と納得するとほぼ同時。
「テメェ! そろそろブチ切れちまうぞオラァ!」
小物の側が、どうにもしびれを切らした様子。
ひとりの男が前に出て、女海賊の首に掴みかかろうとし――
「フナムシごときが、
女海賊、渾身のビンタ。
沸き立つ群衆。口笛の雨。
オレとお嬢まで拍手してしまうほどの小気味よい音が響きました。
「て、めェ……!」
当然、面子をはたかれた海賊たちは、穏やかな気分じゃないでしょう。
「……ラン」
お嬢が剣に手を伸ばします。口端をにやりと吊り上げながら。
面倒ごとは御免ですが、お嬢を止めるよりは楽でしょう。
仕方ない、と棍へと手を伸ばそうとして。
「やめとけ、姫さん。手助けなんかしたら蹴り飛ばされるぜ」
静止と共に、グァルグ船長は顎で女海賊を示しました。
お嬢とオレも、あらためて女海賊を見て、気付きます。
血なまぐさい空気のなかでも、彼女は一切動揺していないようです。清廉とも言える佇まい。あの美を乱すとなれば、オレやお嬢でも覚悟が必要となるでしょう。
つまり彼女は、相当な手練。
「ちぃと痛いめ見とけ、シャチ女ァッ!」
そんなことにも気付けやしない荒くれは、舶刀を振り下ろそうとして。
「《
「ァぁああああァぁあああッ?!」
悲鳴と風が、すぐ側を通り過ぎていきました。
背後で水柱が勢いよく上がります。
呆気に取られて女を見ると、彼女の傍らの石壁が大きく隆起しています。
その有様たるや、石が彼女を救わんと拳を放ったかのよう。
あまりのことに海賊は怯み、動きを止めてしまいました。
「……玉神ソーラジェーラの大地を操る紋章術。久しぶりに見たわ」
驚いた様子で呟かれたのは、美の象徴たる女神の名。
よくよく見れば、彼女の胸の中心に玉神の紋章が輝いていました。
「ソーラジェーラって、海賊に力を貸すような神様ですっけ?」
「善悪に拘る神様ではない、って本で読んだことがあるわ。妥協や卑怯が嫌いで、自分なりの信念や美学に準ずる人が好きな神様ね。だからきっと、あの綺麗な女の人は、芯の通った海賊なんじゃないかしら」
「まぁ確かに、男どもの方よりはまともそうですが……」
なんてこそこそ話しているうちに、海賊たちに動きがありました。
ひとり倒され、戸惑っていた海賊たちが、武器を抜いて構えたのです。
それを見た女海賊は、待っていた、と言わんばかりの笑みを浮かべました。
「力には力で返すが海賊の流儀、ですものね?」
そこからはもう一方的。
めくれ上がった波止場の床にぶつかってひとりが気絶。次はふたりで同時に襲いかかるものの、片方は地面の出っ張りに足を取られてすっ転び、玉を蹴られて戦意喪失。残った海賊も飛びかかりざまに顔面を蹴られ、前歯が涼しい有様に。
そんな惨状を前にして、残った海賊は腰を抜かしてしまっていました。
「ひッ、まッ、俺は、ちがッ!」
「自分から女を襲っておいて肝心なときに怯むだなんて。失礼な殿方ですこと」
嗜虐心に満ちた表情と共に女海賊が向かってきます。
その姿に怯えたのか、海賊は露店の商品を掻き集め、駆け出します。
「ど、どけッ、どけぇッ!! こいつを奪われたら、金がぁッ!」
「……まぁったく、往生際の悪いこと」
足をもたれさせながらも、女海賊から逃げる男。
その行き先には、ちょうどオレたちが居るわけで。
「ラン」
「はーいよッ、とぉ!」
「うごぁッ……?!」
お嬢の命で棍を振り、逃亡男を薙ぎ飛ばします。
抱え込んだ品々を落としながら、男の身体はまっすぐ海へ。ざばんと飛沫が立ち昇ってからしばらくすると、身体がぷかりと浮かんできました。
「ちょいとやりすぎましたかね?」
「嫌なヤツっぽかったし、いいんじゃない?」
お嬢が良いなら、それでよし。
人目は十分ありますから、死ぬことは無いでしょう。たぶん。
「そんなことより、これって……、……うーん?」
お嬢はなにやら、彼が落とした品々を眺めていました。
羽筆に食器、剣に書物。錆びや濡れ痕が目立ちますが、どれも上等な品のようです。
何か欲しいものでもあったのでしょうか、とオレも覗き込もうとして。
「勝手なことをしてくれましたわね、ヨソモノ」
凛とした声に遮られます。
「借りを作ったつもりでして?」
例の女海賊が、剣呑な瞳でこちらを睨んでいました。
どうにも面倒事の気配。手を出したのは早計だったでしょうか。
「逃しちゃマズいと思ったんだけど、迷惑だった?」
お嬢は人好きのする笑みを浮かべますが、ウィナは絆されてくれません。
「迷惑とは言いませんが、不愉快ですわ。私の力量を舐められているようですもの」
「そんなつもりないわよ。あなたがすっごく強くてキレイな人だってことくらい一目で分かるもの。ただ、その、手を出した方が楽しそうだったから」
「……ふざけてますの?」
女海賊に興味があるのか、お嬢は楽しげな様子。
ですが、その態度こそが女海賊としては癇に障るようで、ぴりぴりと空気が熱くなっていく気配がします。これはなんとも嫌な流れ。キレた大地を舞台にして、炎が笑顔で踊るのも、時間の問題といったところ。
「ちょっと船長、何とかしてくださいよ。知り合いなんでしょう?」
グァルグ船長は何故か一歩引いたところから、こちらの様子を窺っていました。
渋い顔で溜め息を吐き、いかにも億劫といった様子。とはいえ、彼女たちを放っておくわけにも行かないので、睨みを利かせて呼びつけます。
船長はしぶしぶと、心底嫌そうに顔を出して。
「……おい、ウィナ。ウィナ=コット=ペルラオルカ」
「なぁんですの! 私はいまから生意気娘に礼儀ってもの、を……?」
名前らしきものを呼ばれた途端、女海賊はぴたりと固まり。
「あら、あら、あらあらあらあらあらあらあら!」
その変わり様たるや。
怒りを海へと投げ捨てたのか、喜色満面といった表情。お嬢のことなど無視をして、オレの身体を押しのけて、獣船長へと擦り寄っていきます。
その理由など、顔さえ見れば一目瞭然。
「おかえりでしたのね、グァルグさまぁッ!」
色が花めく恋の顔。潮も吹き飛ぶ染まり頬。
凛とした美女は消え失せて、代わりに恋する乙女が居ました。
「あー……おう。留守を任せて悪かったな、ウィナ」
「とんッッでもございませんわ、この程度なら、いくらでも!」
「やめろ離れろ誤解され……おまッ、ちょ、腹毛を吸うなぁ!」
「良いではありませんの! もうすぐ出来なくなるのですから!」
そんな女を前にして、グァルグ船長はたじたじと言った様子。
肉球に汗を滲ませて、一歩一歩と後ずさっていました。
お嬢はそんなふたりを見て、ぽつんと感想を零します。
「なんだかイロイロ濃い人ね?」
「オレにゃあ慣れた濃さですがね」
気付かれないよう呟いて、その横顔を眺めます。
時化の後のような笑顔でした。
牢獄めいた海から降りて、まだ百歩目の新天地。
それで笑ってくれるというのなら、旅にも期待が持てるってもの。
きっとお嬢と同じくらい、オレの心も弾んでいました。
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