娘離れはまだ遠く
心配性な杖の音が、絶え間なく屋敷を行き来していた。
理由は明快、娘が夜まで帰らないのだ。愛娘は身勝手ながらも、妙なところで真面目な子。屋敷に帰らず島で騒ぎを起こす時は、人伝であれ連絡を寄越すのが常だったが、今宵はそれすらもなかった。
王として、親として、心配せずにいられようか。
「……まったく、あの男と何をしでかしているのか」
忌まわしい男の顔を思い浮かべ、ファルサは顔を苦く顰めた。
ランネルを雇い入れた最初の理由は、同情だ。
海から流れ着いてきた、記憶も寄る辺もない男。そんな彼をファルサは憐れみ、従者として迎え入れたのだ。警戒しなかった訳ではないが、当時エイルの側には息子であるラインが居た。彼が居る限り滅多なことにはならないだろうと考えていたのだ。
従者を育てることに意識を向ければ、娘のお転婆も収まるだろう。
などと、獣を愛玩するような感覚で、ランネルは屋敷に住まうことになったのだ。
結果として、ファルサの選択は間違いだった。
空っぽだった従者は、父クルスやその仲間の影響を受けてか、想像よりも粗暴に育った。それだけならまだ良かったが、最悪なことに彼は娘に惚れたらしい。父が母を見ていた時と同じ、だらしない顔を浮かべるようになったのだから、間違いない。
それでもファルサは彼を従者と認めていた。渋々ながらも。
娘を想っているからか、行き過ぎた暴走を寸でのところで止めてくれているし、エイルに着いていけるだけの戦士は、スティルベルにも多くはない。男としては尊敬すべきことに、娘に手を出さず堪え続けている点も、ファルサは密かに評価していた。
とはいえ、いよいよという事もある。
男というのは、些細な切っ掛けで雄となり得るもの。
あの男がナニかをシでかしている可能性だって、十分に。
もしそうならば、私は、私は――
「蒼神ティールよ、海を血で汚す咎を許し給えッ……!」
などと思っていた折。
ファルサの自室の机のうえに、娘の筆跡で描かれた手紙を見つけたのだ。
『いつかまた、廻る世界の片隅で!』
冒険者たちがよく使う、別れを示す常套句だ。
となれば、行ってきます、とはそういうことだろう。
慌てて部下を動かしたが、時すでに遅し。
港を最後に足取りが途絶えたと聞き、ファルサは娘の家出を悟った。
ジレンが屋敷を訪れたのは、ちょうどその時だった。
「陛下の心に寄り添いたく、手土産と共に参上した次第でございます」
ファルサにとって、ジレンは兄貴分のような存在だ。
父の仲間のなかでも、彼が最も若かったため、自然とそうなった。肩に乗せてもらったこともあるし、ともに父の旅へ着いていったこともある。料理が壊滅的だった両親に代わって、旅の食事を作ってくれていたのも彼だ。
そんな彼が手土産として持ってきたのは、見覚えのある酒だった。
「蔵から盗まれた酒と同じようだが?」
屋敷の一室で酒を呷り、やはり、とファルサは顔をしかめた。
「気の所為にございましょう。それとも、お口に合いませんでしたか?」
「その口調は止めろ、鳥肌が立つ」
「はっは。坊主は相変わらず気難しいねぇ」
「お前が気安すぎるだけだ。それより、さっさと本題に入るとしよう」
このタイミングでジレンが屋敷に訪れたとなれば、無関係ではないだろう。
ファルサは表情を険しくすると、兄貴分を厳しく睨みつける。
「エイルの背を押したのは、お前だな?」
「エイルには何も言ってないさ。へたれの尻は叩いたがね」
「……同じことだ、馬鹿者め」
ファルサは深々と嘆息すると、恨みがましい瞳で古馴染みを睨んだ。しかし、当のジレンはと言えば、王を肴にしながら酒を継ぎ足すばかり。
冷たい空気に耐えかねたのか、ジレンは気まずそうに頭を掻いて。
「坊主の気持ちは分かるさ。一人息子も父親も、勝手に島を飛び出して、奥方も病気で星に還った。お前にとって嬢ちゃんは最後の家族。宝を守る番人みたいに尖るのも、まぁ、仕方ないってもんだろう」
けどな、とジレンはファルサの杖に目を向けて。
「夢に背を向けて生きる苦しさ、お前もよく知ってるだろ?」
確かに、そうかもしれない。
足を失ったからこそ自分は島に落ち着いたが、杖が無くとも歩けたならば、いまも冒険を続けていただろう。スティルベルの王になどならず、父と共に旅を続けていたかもしれない。
冒険の素晴らしさなど、いやと言うほど知っている。
夢へと歩く人は尊く、空想と嗤われた偉業を成す姿は眩いものだ。
だとしても、譲れないものはある。
「エイルには島に留まってもらう。縁談の相手とて、既に決まっているのだ」
「おいおい。流石にそれは……」
ジレンは眉を顰めたが、振り向いたファルサの表情に押し黙る。
意地で言っているような顔ではない。身に抱えきれない情動が滲み出てしまったような。あるいは、認めきれない事実に首を絞められている最中のような。そんな、悲嘆と悔恨の入り混じった表情だった。
冒険者として生きる最中も、何度となく見たことがある。
あまりに重く、認め難い事実を口にするとき、人はこうした顔をする。
例えば、死や別れといった――
「……ジレン」
重たい唇を持ち上げて、ファルサはどうにか口にした。
「見せたいものがある」
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