ジレンの食事処
冒険は、酒場に始まり酒場に終わる。
そんな言葉が残るほど、冒険と酒場は縁深いものだと聞きます。
酒場に集まる噂と縁が、人を旅へと送り出し、区切りにふたたび迎え入れる。その繰り返しによって冒険は成り立っているのだと、赤毛のクルスは――お嬢の祖父は語っていました。
『扉を開けた瞬間に、一気に押し寄せてくるんだよ。笑い声に喧嘩騒ぎ、料理の湯気に薪の煙。
この店は、彼の言葉を再現した場所。
港湾に建てられた、船乗りたちの休息所。
旅へと行きし者、帰りし者を迎え入れる、スティルベルの玄関食堂。
「おぉい! オールムトゥーナの魔石焼き、来てないぞ!」「
この店、ジレンの
潮香をまとう船乗りたちが嵐のように騒ぎ散らかし、調子外れの船歌までも混ざる始末。
「いつ来ても賑やかね、この店は」
お嬢は慣れた足取りで進むと、カウンター席に腰を降ろしました。
その向こう側の男性に、気さくな調子で手を振ります。
「ジレン、久しぶり! 元気してた?」
「よ、エイル。老いぼれちゃいるが、生きてるぜ」
彼が、この食事処の店主、ジレンです。
齢にして六十ほど。白髪交じりの黒髪を油で整えて、額を広く出した男。歳のくせにオレよりたくましい身体をしていて、気取った服を着ていなければ、店主ではなく用心棒とでも勘違いされそうです。
「本気のあたしに完勝する人がなぁに言ってんの」
「いやぁ、言うほど楽でもないぜ? お前に付き合った後は肩が痛んでしょうがねぇ」
「昔みたいに、肩を叩いてあげてもいいわよ?」
「それで昔みたいに骨を砕くって?」
「いまはもう大丈夫だってば。……試したことはないけど」
気の置けない様子からは、酒場の店主とお姫様の関係は見えません。
それも当然。彼はオレより、お嬢と長い付き合いなのです。
ジレンは、赤毛のクルス一行のひとり。クルスさまの一族とは家族同然の関係であり、お嬢もよく懐いていました。ジレンの方も、お嬢のことを娘のように思っている節があります。まぁ、どんな関係であれ、お嬢と仲が良いのはムカつきますが。
「それよりジレン。注文の方、いいですかね」
「あぁなんだ、居たのかバカ弟子。メシ食う暇があったら皿でも洗え」
「横暴な。今日は客として来てるんですけど?」
「知るか。誰がお前に武術を叩き込んでやったと思ってる?」
「へーいへい。メシを食い終わった後だったら、ちょっとは手伝ってやりますよ」
弟子、という言葉が示す通り、ジレンはオレの武芸の師匠にあたります。
細かく言えば言えば、師匠のひとり、が正しい表現。
オレとお嬢は、かつてクルス様と旅をした冒険者たちに鍛えられ、武芸の腕を磨いたのです。とくにジレンは島に住み着いているうえ、オレを厳しく鍛えてくれやがったので頭があがりません。というか、頭を上げると殴られます。
「珊瑚鳥の包み焼きをふたつ! パンも付けてね、ちょっと多めに!」
睨み合っていたオレたちを、お嬢の注文が和ませました。
「甘味の類はいいのかい。いまの時期ならタマゴもあるぜ」
「じゃあ、芋と卵のプディング出せる? あれ、好きなのよね!」
「オレもそれ、みっつで」
「ひとつにしとけ、甘党弟子。卵の数にゃ限りがあるんだ」
ケチな返事に唇を尖らせますが、お嬢はすっかり上機嫌。カウンターの椅子に座って足をぶらぶらと踊らせています。食事時のお嬢は昔から変わらずこんな様子。愛らしいったらありません。
見蕩れていると、ほどなく注文が届きました。
まずひとつが、木皿にどっさり盛られた鳥肉。
椰子葉に包まれたそれは、照り輝くほど脂が滲み、見ているだけで喉が鳴るほど。塩だけでも舌がとろける一品ですが、この皿の真価はパンと共に食ってこそ味わえます。
ですが、スティルベルは島国故に麦の栽培が難しい土地。
かといって、輸入頼りではパンの価格は上がり、気軽には食べられなくなります。そこで、パンが恋しい大陸由来の移民たちは工夫を凝らし、島でも育つ芋の根粉を小麦に混ぜて、パンの嵩を増すことにしました
パン恋しさに行った苦肉の策。
なんてことを忘れてしまうほど、これまた美味い出来栄えなのです!
芋根粉混じりだからこそのもっちりとした食感に、噛めば噛むほど溢れる甘味。これで鶏肉を包んで食べた時の味といったら! 塩だけで食っても、香辛料と果実で作ったソースをかけても間違いなく、頬が床まで落っこちます。
「んんッ……! 相変わらず美味しいわね、ジレンの料理!」
「そうですねぇ。オレも負けちゃ居ませんが、まだまだ精進しないとです」
「そうね。ランの腕が上がれば、旅先でもコレが食べられるもの!」
旅、という言葉に、今朝の喧嘩を思い出しました。
お嬢はいつか旅に出る気でいますが、果たしてそれは叶うのでしょうか。仮に旅に出れたとしても、お嬢が挑むのは危険な冒険です。従者として、それを止めるべきか、助けるべきか、オレはまだ決めかねていました。
本職の冒険者ならば、いったいどう考えるのでしょう。
「……ちょっとオレ、ジレンの手伝いに行ってきますね」
プディングに夢中なお嬢を置いて、カウンターの裏に入りました。
ジレンは誂うような表情を浮かべます。
「なんだよバカ弟子、お前が自分からエイルと離れるなんて、珍しい」
「いやまぁ、そういう気分の時もあるんですよ。こんなでも」
壁に付けられた、木管の蓋を開くと、水が流れ出てきました。スティルベルではそう珍しくない、屋根上の雨水タンクから水を引き込む仕組みです。ほんのり温い水を使い、皿を手早く洗っていきます。
「こんなでも、ねぇ。お前がこんなだって、最初から気付いてりゃ良かったんだが」
肩をすくめて、ジレンは窓の向こうを眺めます。
汗水垂らす積み荷運び。行き交う白帆。色とりどりの布を屋根にした露天。
そして何より、どこまでも広がる海の青色。
「スティルベルに流れ着いたお前を嬢ちゃんが拾って、もう七年か」
「早いもんですねぇ。お嬢もすっかり大きくなっちまって」
「あの頃はまだ、お前にも同情してたもんだが」
そうですか。オレがこの島に流れ着いて、もう七年も前になるんでしたか。
あの時はホント、死ぬかと思いました。
有り体に言えば、オレは漂流していたのです。
揺らいで、揺らいで、揺らぎ続ける海のうえを、オレはずっと漂っていました。
その時の海ほど怖いものを、オレは今でも知りません。
潮水がオレの身体を冷やして、お腹を空かせて、喉をからからに干上がらせて。
ありとあらゆる方法で、死へと引っ張ってくるんです。
それがずぅっと続きました。
ずっと、ずっと、ずっと、ずっとずっとずっと――心が壊れても、ずっと。
助けなんてありません。みんなとっくに沈みましたから、当然です。
ぷかぷか浮かぶ木の板ひとつと、見渡す限りの青い海。
嘲笑うだけの星の瞬き。荒波を呼ぶ風の声。
それだけが、オレの世界のすべてでした。
肌に噛みつく小魚すらも、恐ろしくって仕方ありません。
慣れ親しんだ青はもう、死そのものにしか見えませんでした。
それでも終わりはやって来ました。
オレはどうにか耐え抜いて、浜辺に流れ着いたのです。
だというのに、オレは力尽きかけていました。
意識だけはあるのに身体はすっかりぼろぼろで。ほーんと、もうダメかと。
このまま潮が満ちていって、また海に引きずり込まれて終わりなのかって。
だけど――
『……ねぇアンタ、どうしてこんなところに落ちてるの?』
オレのすべてになったのは、青じゃなく赤だったんです。
それがオレと、お嬢の始まり。
命を救ってくれたお嬢に恩を返したい。
いちばん初めはそんな理由で、お嬢の従者に志願したわけなのですが。
「それがまさか。一回りも小さな子供に欲情するような男だったとは」
「欲情言うんじゃありませんて。海に飲まれて流れ着いた、記憶すらない謎の男を迎えてくれた。その懐の深さに惚れただけですよ」
自由な姿に憧れて、異性としても焦がれてしまって。
惚れちまったんです。そりゃもう、どうしようもないほどに。
「いやまぁ、いまのお嬢は立派な女ですけどね。そりゃあもう、イロイロと」
「素直に気持ち悪いぞエロ弟子。手を出してないのは褒めてやるがよ」
「出しませんて。お嬢が望まないことなんて、オレは絶対しませんよ」
「知ってるさ。お前がそういうヤツじゃなきゃ、島の娘を任せるもんか」
慈しむようなジレンの視線の先で、お嬢が客と話していました。
「モリー、忙しそうね。エリオの怪我は治ったかしら。そう、良かった! なにかあったら助けるから、いつでも頼りなさいよ! あ、パイロン。スティルベルに来てたのね。大陸の方でなにか面白いことあった? ふぅん、香料が値上げかぁ。お父様にも伝えておくわ。あらロディー。リュンとシュンは元気? あ、そっか、もうちょっとで生まれて五回目の夏至ね。なにか贈り物でも……、いらない? 遠慮しなくたっていいのに!」
島の人々のみならず、外から来た船乗りまで、ひとりひとりの名を呼んでお嬢は話しかけていきます。彼女はいちど懐に入れた相手には家族のように接する人です。だからでしょうか。だれもが明るい表情を浮かべていました。
さすがはスティルベルのお姫様。
いいえ、愛娘とでも言い換えたほうが良いでしょうか。
だからこそ。
だからこそお嬢は島を出られないのでしょう。
父親の愛情も。島民の笑顔も。自分自身の夢も、すべてを望んでしまうから。
我儘だからこそ、自由にはなれないのです。
「ジレンもやっぱり、島に留まるべきだと思います?」
訊ねると、ジレンは皿を洗う手を止めました。
懐かしむような視線の先。店のいちばん目立つ場所に、一枚の絵がありました。
冒険者たちを描いた絵です。
その中心にいる赤毛の男。お嬢の祖父であるクルス様は、人の良さそうな笑顔を浮かべながら、腰に抱きつく少年の頭を撫でていました。他ならぬ彼こそが、若かりし頃のジレン少年です。
彼らのほかにも、たくさんの冒険者が絵の中で笑っていました。
「ま、そうだな。冒険者なんてのは、どうしたって早死にするもんだ」
「そう、ですよね」
「とくにファルサの坊主はな。妻には先立たれ、両親も息子も島を飛び出した。親戚だって居ないから、嬢ちゃんが最後の家族みたいなもんだ。手元に置きたい気持ちもわかる」
ジレンはそこで言葉を区切り、お嬢を柔らかい瞳で見つめました。
「ただまぁ、ひとりの元冒険者としちゃ、応援したい気持ちもある」
「……お嬢まで島を飛び出したら国としても困りませんか?」
「ファルサの坊主を王って呼ぶより、村長や首長って呼ぶ方がしっくり来るような国だ。血筋に拘るなんざ十年早い」
「結局のところ、お嬢がどっちを選ぶか、ですか」
「エイルだけじゃねぇよ。お前はどうしたいんだ」
急に話題が逸れました。
ジレンが何を言っているのか、イマイチわかりません。
オレがどうしたいかなんて、お嬢に何の関係があるのでしょう。
「ただの従者の意見がなんの役に立つと?」
至極当たり前のように告げると、なぜかジレンは呆れた様子で、
「……お前なぁ、その調子だと手遅れになるぞ?」
などと、わけのわからないことを言うのです。
はて、手遅れとは何のことでしょう。
心当たりなどなく、頭に疑問符を浮かべながら首を傾げるしか出来ません。
ほどなくして、ジレンが海底にまで届くような溜め息を落としました。
「ファルサの坊主が動き出したってのに。このへたれ弟子め」
なんなのでしょうか、その可哀想なものを見る目は。
いえ、それよりも。
「ファルサさまが動き出したって、なんです?」
聞くと、ジレンは露骨に目を逸らしました。
失言だったのでしょう、老獪な彼にしては珍しい失態です。追求されたく無いのでしょうが、逃せません。ファルサ様の名前が出るということは、十中八九、お嬢に関係することなのですから。
「……いちおう、口止めされてんだよ」
「じゃ、お屋敷の酒をこっそり飲んでること、ファルサ様に言っちゃいますね」
「おまッ?! アレはお前も共犯だろうが!」
「こういうのはですね、先に密告したほうが有利なんですよ」
ぐぬぬ、とジレンは気分の良い表情を浮かべました。
ですがその表情は、ため息を境に厳しいものへと変わっていきます。
「……ま、お前には伝えておくべきか」
ジレンはまっすぐオレを見て、抑えた声で言いました。
「ファルサの坊主はな、エイルを嫁に出そうとしてるのさ」
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