第183話 言葉。

「本部くん、いらっしゃい! 寒いね」

「そうですね」


 同意したけれど、寒くはなかった。

 珍しく柄にもない事を決めてしまったからだろう。

 それが変な緊張でいつもより暑く感じた。


「メッセ送ってから早かったね」

「見明さんと美心さんの付き添いで初詣に行った帰りだったんです」

「そっか。美心ちゃんはまだ小さいし、色々とあるもんね」

「道中に美心さんが滑ってコケそうになって僕も見明さんも肝を冷やしましたよ」


 表面上は、なにもない。なんでもない。

 だから僕も普通にそれを話す。


「てかごめんね。ほんとはあたしが行こうと思ってたのに」

「いえ。べつに」


 エプロンを付けたままの天使さんはリビングから忙しなく会話を続ける。

 料理をしていたのだろう。

 調味料の香りが鼻腔をくすぐった。


「今日はね、本部くんに食べて欲しいものがあって」

「お正月に?」

「誕生日プレゼント」


 真っ直ぐ見つめてた天使さんに思わず緊張が増した。

 それと同時に、誕生日を覚えていてくれた事に対して嬉しいとも思った。

 さらに言えば、それ自体を素直にそう思えた事も嬉しいと思った。


 ……でもやっぱまだどこか、自分の中でそれがちょっと気持ち悪いとも思ったり。


「本部くんへの誕生日プレゼントで、弟子としてあたし自身が決めた卒業試験」

「僕的にはもうとっくに卒業していいレベルだと思いますけどね」

「ううん。だめなんだ。だからこれで、全部わかる」


 なんだろうか。

 気持ちが固まった途端、また溶けていくような。

 天使さんが言う卒業試験というのは、それすなわち僕から学ぶことはもうないと言われているわけである。


 自分で言ってたのに、いざ天使さんから言われるとなるとそれは寂しい。

 でもこれで良かったのかもなぁ、なんて弱腰になっている。


 結局人は簡単には変われないのだろう。

 決意も簡単に揺らぐ。

 果たしてそれは決意と呼べるほど堅かったのかも怪しい。


「……まあ、弟子だの師匠って言っても、大したものじゃないんですけどね。成り行きでしたし」

「始まりはそうだけど、この意味はあたしにとってはもう大きいから」


 天使さんが独自に決めた卒業試験。

 何をもってその試験がクリアとなるのかを僕は知らない。


 べつに正式なものでもなんでもない。

 けれど天使さんの真剣さは伝わってきて、僕も真剣にならないといけないのだと思った。


 たまたま僕の誕生日だっただけで、そこには他意はないのだろう。

 初めからそうだっただろう。

 料理を教えてほしいと言われて始まった関係性だ。

 それが料理で終わるだけ。


「この料理は、たぶん本部くんにしかわからないから」

「……これ、は……?」

「野菜炒め」


 酷い見た目だった。

 炒めているどころか煮込んでいるレベルで水分の多い野菜炒め。

 しんなりとしたもやしからはシャキシャキとした雰囲気はない。


 サイコロ状に切っていたであろう豆腐も崩れてそぼろみたいな有り様。

 ピーマンのわたの取り方も雑であり、人参はところどころ焦げている。


 しかしどこか懐かしくて、なぜ天使さんがこれを出してきたのか一瞬わからなかった。


「頂いていいですか?」

「うん」


 天使さんの卒業試験。

 出来の悪い野菜炒め。


「……こんな作り方、僕は教えてないですよ……」


 料理を食べて泣くのは黒須さんくらいなものだと思っていた。

 でも僕は気が付いたら泣いていた。


 懐かしい。


「……味付け雑過ぎてムラがあるし、胡椒辛いし、火力弱いし……」


 ここに僕は何をしに来たのだろうと思った。

 一種の気の迷いから昔の懐かしさに頭が忙しい。

 求めていたものだった。


「教えては、もらってないね。1度食べさせてもらっただけだし」

「……お礼の時の、ですか?」

「うん」

「……じゃあ、これは」

「本部くんの想い出の味……の再現? レプリカ?」


 島豆腐もスパムも使ってない。

 けれどこれは、死んだ母さんの味だった。

 料理を始めてからずっと再現しようとしていた味だった。


「色々ね、考えたんだ。本部くんの事」


 隣に座った天使さんがどこかを見つめながら話を続けた。

 なんかもう、今がどうなっているのかよくわかってない。混乱している。


「なんで、本部くんがお母さんの味を再現できないんだろうって」

「……味を知ってるのは僕と千佳くらいですからね。千佳は料理しないですし」

「うん。だからすっごい考えた。誕生日も祝いたかったし、でもあたしに出来ることってあんまりないし」


 そんなことはない。

 僕より全然色々やれている。

 羨ましいと思うくらいに。


 羨ましくて、眩しいから好きだったのだ。


「そんでたくさん考えて、これが答え。本部くんが求めてるものを作ること」

「……その話は前に1度しただけなのに」

「憶えてるよ。好きな人のことだもん」


 聞き間違い、ではなかった。

 はっきりと天使さんは僕の眼を見てそう告げた。


「…………えっと…………」


 天使さんの眼を見たまま、思考が停止した。

 玉砕覚悟で告白しようと思っていたら、告白された。


 今僕についての出来事でかろうじてわかっているのはそれだけ。


「……だから、そのぉ………………」


 顔を赤く染めて下を向く天使さん。

 頭の中で言語化できなくても、この空気は否応なく伝わってくる。


 僕も、なにか言わなければ。

 好きだと言わなければ。


「本部くんの事が、好き。…………」


 その言葉は頭の中で幾度いくども駆け巡り、想い出の料理ももはや喉を通らない。


「冨次先輩との料理対決で、本部くんがあたしに言ってくれた事。教えてくれた事。それがそのまま、あたしの答え、だよ。本部くんの為だけの料理」


 あの時僕は、天使さんになんて言ったっけ。

 ああそうだ。

 なんの為に作ってるかわからなくなったら、その料理を1番誰に食べてほしいか。


 それを考えて作ればいいと教えたんだ。

 あの時教えたかったのは、なんの為に作ってるかを悩んだらって思って言っただけなのに、こんな形で返ってくるなんて思ってなかった。


 僕にしか伝わらない味を、僕の為に作ってくれたのだ。

 疑いようのない天使さんの気持ちだった。


「こんな事を今言うのはダサいかもしれませんけど、僕も天使さんの事、好きなんです」


 胸の中がぐちゃぐちゃで、でも好きな気持ちだけははっきりしてて。

 嘘ではないと自分でわかる。


「本部くんッ!!」

「ッ?! ちょ天使さんっ?!」


 突如抱き着かれてバランスを崩して椅子からふたり転げ落ちた。

 リビングに敷かれた絨毯じゅうたんのお陰でそこまで痛みは感じなかったが、代わりに天使さんの熱を身体に感じた。


「大丈夫ですか? 天使さん?」

「だいじょぶ」


 僕の胸にうずくまっている状態の天使さんが眼に涙を溜めながらそう答えて微笑んだ。


 押し倒された形とはいえ、天使さんに怪我がなくて安心して僕も笑った。


 そして天使さんの唇が段々と近付いてくるのがわかった。

 安堵したとはいえ未だパニック状態である僕は、まんまとその唇に吸い寄せられた。


 僅かに擦れ合う鼻先が擽ったくて、それでも天使さんの唇はたしかにやわらかかった。


 触れるだけのキスで、こんなにも幸せな気持ちになるとは思っていなかった。


「あたしの初めてのキスだよ」

「……僕もですけど、いいんですか? 野菜炒めの味ですよ」

「だからもう、本部くんだけの想い出の味じゃないよ。あたしと本部くんの想い出の味」


 そう言って天使さんはまた微笑んだ。


 言葉とは不思議なもので、それだけでどこかロマンチックだと思えた。



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