第七章

第159話 オグレク

 巨岩を背負った湖畔の館の1階は、今まで見て来たこの類の館とはかなり趣の違う作りだった。

 正面玄関の大きな両開きの扉を開けると、その向こうが大きな石畳のホールになっている。

 奥にはホールを2つに区切るように赤い絨毯が敷かれたスペースがあり、その向こうの突き当りの壁には厚そうな木の板を黒い金属の板と鋲で補強した大きな扉が設えられている。

 ホール右側には大きな暖炉のある食堂、その向こうにさっき昼食をとった湖に面したテラスがあり、左側にはいくつかの扉と上階へ上がる階段がある。左側が実質的な生活空間ということらしい。

 今いるホールの石畳は、外の地面と高さが揃えられている。馬車ごと乗り入れられるようにしているのだそうだ。

 もっとも、俺たちが乗ってきた馬車はとても大型なので、正面から乗り入れてしまうと中で方向転換ができない。

 仕方がないので、一度勇者姫様が黒鉄の馬を馬車から外し、男の使用人たちが集まり、引いたり押したりして馬車を後ろ向きにホールに収め、改めて黒鉄の馬を繋ぎ直した。

 昼食中にやっておきますと提案されたけれど、「黒鉄の馬はオレと姫巫女様以外には扱えませんから」と、昼食後に勇者姫様手ずから作業をした。

 黒鉄の馬を馬車に繋ぐ革のベルトは、昨日勇者姫様が切ってしまったので、馬車に積んでいた予備に変えられている。こんなものまで積んでいたのはさすがだ。

 壊れた馬具は、ネズラルグ候が預かった。ネズラルグを離れるまでに直してくれるそうだ。

 帰りはそのまま馬車に乗って玄関を出られるようにしたところで、いよいよオグレクへと向かうことになった。



 まず案内されたのはホールの突き当り、木の板に黒光りする鉄の金具を鉄鋲で打ち付けた丈夫そうな扉の前だ。

 壁は一面、独特の透け感のある白い石だった。多分、白翡翠なんだろう。

 おそらく木の扉を補強しているのだろう黒い金具は、飾りの入った太めの線で描かれた格子模様、力強くも洗練されたデザインだ。

 なるほど、王族も使う保養所らしいなと聖杖を手に俺は思った。

「扉を開けなさい」

 扉の両脇に立っている兵士たちにネズラルグ候が言えば、「はっ」と短く返事をした左側の兵士が、扉の右側に駆け寄り、そこにあった金具に手をかけた。

 ごろり、と何かが転がる音がして、扉が左にズレた。さらに、ごろりごろりごろごろ、と次第に扉の右側に開口部が広がっていく。どうやら引き戸だったらしい。

「さあ、どうぞ」とネズラルグ候に案内され、俺たちはその空間に足を踏み入れた。

 両側の壁は白翡翠。正面には入り口と似たような引き戸。ほぼ立方体の部屋の8つの隅には大理石ランタン。床には緑翡翠の魔法陣があった。見覚えがある図案は、一昨日勇者姫様と一緒に活性化したのと同じ、沈黙の魔法陣のものだ。

「こちらの小部屋は、片方の扉を閉じねばもう片方の扉が開かぬようになっております。

 この魔法陣は、沈黙の魔法陣。効果は、効果範囲を通過した者の意思疎通の阻害、明かりに囲われたこの部屋全体が効果範囲です」

 ネズラルグ候が説明をしてくれる。

「この部屋をこちらから向こうへ通過すると、逆方向から再びこの部屋を通過するまで、すべての言葉も文字も身振り手振りも、この部屋を同じ向きで通った者以外には理解できなくなります。

 口にしても聞こえず、文字を書いてもなぜか読めず、絵も、身振り手振りも、見えはしても『意味』を理解することはできず、真似をすることもできない。そのような状態になるのです」

 え? それ、何か、めちゃくちゃヤバイ現象じゃないか?

「逆方向から魔法陣を通過すると、再び外の者と意思疎通ができるようになりますが、魔法陣の向こう側で知りえたことについては、それを知らぬ者に伝えることができないままになります。

 つまり、この向こうで何を見ようと、何をしようと、ここを出てしまえば、そもそもそれを知っている者以外には、いかなる手段をもってしても何も伝わらなくなるのです」

「すごく都合の良い魔法ですね」

 思わずそう言えば、俺の隣で自前の杖を手にしたジェイドさんが笑った。

「都合が良いのは当然ですな。『この魔法陣を使ったら、わたくしに都合の良いこういう奇跡を起こしてください』と神様にお願いし、認められたものが魔法となるのですから」

 そうだった。

「魔法の力は剣と杖の神が起こして下さる奇跡。人の手により破ることは不可能です

 心から安心して、オグレクを楽しんでいただけるように工夫したものです。

 では、先へ参りましょう」

 ネズラルグ候が入り口の兵士に合図をすれば、ごろごろと引き戸が閉められる。

 完全に引き戸が閉まったところで、カタンと何かの音がした。数秒の沈黙の後、前方の木の戸がごろごろと横に動き始めた。

「…………は?」

 次第に広がる長方形の開口部、戸の向こうに見えてきた見覚えのあるものに、俺は開いた口がふさがらなくなってしまった。

 開口部の上端から下がっているのは、藍色の

 胸ほどの高さまで垂れ下がり視界を遮る連なった数枚の布地。真ん中には、2枚の布に渡る白抜きで「ゆ」のひらがなの一文字。

 さぞや間抜けな顔でそれを見ていただろう俺に、ネズラルグ候は得意げな顔で笑った。

「ネズラルグ温泉、オグレクにようこそ」

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