二十七

 雪解けの水がすっかり湿地を抜けて海へと流れ出た頃、ライカは湖畔の小さな沢に来ていた。

 その流れを上った先に、用水路のような建造物が見える。僅かな水が流れ出すその場所は苔に覆われ、遠目には分からない。

 中を覗く。暗闇の奥に、錆びた鉄格子があった。

 坑内から雨水などを排出する遺構だ。そして山から流れてくる雪解けの澄んだ水のいくらかもまた、地下に溜まってここを抜けて来る。

 大きな山であるため、その水量もまた尋常では無い。ここは流れの無くなる夏から秋の初めにかけてのみ通れる非常口のようなものだと、フラントは言っていた。

 鉄格子の鍵を開け、中の様子を見る。崩れて小さな隙間があるのみにはなっているが、彼女の細い身体ならば問題無く通れる。新品のランタンを掲げながら、ゆっくりと前進する。

 岩場にうまく隠されていた採光口からの侵入も考えたが、普通に歩いて入れる場所があるのならそこを選ぶに越した事は無い。


 闇の中をしばらく進む。三月末のあの日と変わらない静寂がライカを包む。

 手元にあるほんの少しの光でも、彼女の瞳孔は猫のそれのように捉えて像を結ぶ。

 あれから、夜目が効くようになった。その他ちょっとした怪我の治りが早くなっていたり、無理な徹夜にも身体が付いてくるようにもなった。以前よりも健康になった気さえする。

 その代償なのか、白い髪が増えてきた。やはり、例の病原体が彼女の身体に何らかの影響を与えたと見て良いだろう。

 ようやく見えて来たのは、あの地下墓地だ。

 子供達の白骨化した遺体は全て見つけ、ひとまずはこの場にあった甕の中に入れて安置している。古いとは言え墓地だ。また彼らも、秘密の隠れ家を見つけられて幸せだろう。いずれ持ち出せる準備が整うまでは動かさないでおく。

 あの事件から、住民の一部からライカへの当たりが厳しくなった。レージィ達の親であるフロエを筆頭にした集団が主となっているらしい。

 無論、大多数はそうではない。彼女が手を施し、また家族を土に還してやった者も少なくないためだ。それでも、子供を撃ったと。その一点だけが一人歩きをして評判を呼ぶ。

 なるほど、ラゼルやアイゼンが味わったのはこの感覚かと、今更になって身に染みる。人の流れと価値が澱んだ田舎が、どうにも疎ましくなって仕方がない。

 フィードはと言うと、半年後の帰還に備えてこの町とポーレを行き来する事が増えたようだ。

 ただでさえ少ない会話は殆ど無くなって、時折舞い込む死体狩りがラゼルやネイトから伝えられるだけになった。その上、詰所で待機しているフィンカに挨拶をしようとした時には怯えて逃げられてしまった。

 自分だけが、地の底へ落ちてゆく。だがそれでも良い。

 差し込む陽の光が心地良い。ゆっくり歩いて小部屋の一つに入る。

 古ぼけた寝台や実験器具。その隙間に、ライカは優しく声を掛ける。

「さあ、お父様。研究を続けましょうか」

 あの頃に戻ったように、朗らかに笑う。

 そこに居たのは、上半身がぐずぐずに砕け、両足首は切り落とされたあの怪物だった。

 鎖を巻かれ、心臓がある部分には木の枝や鉄パイプをいくつか杭のように突き刺してある。それでも彼は、生きていた。

 崩落で押し潰されながらも、長い時間をかけてどうにか土から這い出たらしい。顔があった部分は失われ、代わりにその首元にはミミズやゴカイのような環形動物に似た大きな口が形成され始めている。

 しかし生きているとは言っても、仮死状態だ。見た目はぴくりとも動かないが、抜き取った血を顕微鏡で見ると元気にしている。

 こうして変容したライカと二人、新しい実験材料が出来た。なら、やる事は一つだ。

 いつまでも提示されない将来より、今、自分の目の前にある『面白い事』を手に取る。それが彼女の復讐であり、未来への選択だった。

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Dysplasia 河岸 悠 @sapporo17

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