二十六

 ライカは目を覚ました。見覚えのない天井の木目が頭上に姿を現す。長い髪は一房に括られて、胸の前に置かれている。身体を起こすと脇腹が引き攣る。自分の着ている知らない白のチュニックを捲り上げると、傷は癒着していた。

 辺りを見回すと、アイゼンが居た。手には拳銃を持っている。

 そっと、ライカは声をかけてやる。

「大丈夫です。私はまだ私のまま」

 右手を掲げて振る。

 それを見て、彼は安心したらしい。大きく息を吐いて銃を置き、緊張を解く。

「よう生きとったな」

 アイゼンがしみじみと言う。彼も彼なりに、気を揉んでくれていたのだろう。悪い事をしてしまった。

「どれくらい寝てました?」

「二日」

 思っていたよりも長い。道理で腹が減って仕方ない訳だ。腕に刺さったゴム管に気付いて元を辿ると、溶液の入ったガラス瓶が吊り下げられている。

「服は俺のカミさん呼んで勝手に替えさせてもろたで。男所帯やから大変やったわ」

 着ていた黒装束や外套、背嚢、それからライフルといった彼女の荷物は、ベッドの横に纏められている。

 ふと視界に入ったサイドチェストの上には彼女の懐中時計。そして咲いたばかりであろうガーベラの花が一輪、瓶の中に活けられている。またもう一つ、彼女が好きな蒸留酒の瓶もある。

「それな、フラントの爺さんからのお見舞いや」

 墓地で育てていたものと、家にあったものを持ってきたのだろう。彼らしい品だ。墓に生えているものを病人に持ってくるなと、後で言っておこう。

「コルク抜き借りて良い?」

 瓶を見たライカは我慢出来ずに聞く。

「ええけど、自分が怪我人なんを忘れたらあかんからな?」

「分かってる」

 アイゼンから手渡されたコルク抜きで蓋を抜き、口をつけて一気に飲む。

 殆ど寝ていたとは言え、三日振りの酒だ。全身が潤いを取り戻し、傷が癒えてゆく気さえする。

「いやお前、水やないねんから」

 その一瞬で、瓶の半分が無くなってしまった。アイゼンは引き笑いをしながら、そんなライカの様子を目で追ってつぶさに観察している。

 そして彼はライカの横腹を見て話す。

「お前、それ自分でやったんやなあ」 

「ええ、まあ」

 死に物狂いでやった応急処置の事だろう。途中で意識を失ってしまったが、無事くっ付いているのを見るにどうやら功は奏していたらしい。

 しかしそれはそれとして。既に服は着せられているものの、若い女の身体を遠慮無しに見るのはいかがなものなのか。

「俺やったらこんなん痛ぁて無理やわ。気ぃ失ってそのままポックリやで」

 彼の仕事ぶりはそれなりに知っている。世間の評判ほど腕が悪い訳では無く、むしろこんな田舎で燻っている方がおかしいくらいの良い医師だ。

「神経太そうですし、先生もやれば出来るんじゃないですか?」

 ライカは皮肉を交え、アイゼンに賞賛を送っておく。実際、今回は彼にも命を救われてしまったのだから。

「ホンマ、ええ根性しとるわ自分」

 しかし感謝は思うように届かない。そして半笑いの彼は、嬉しそうではあるが、眉を落として話す。

「やっぱこんなとこで埋もれるには惜しいと思うんやけどなぁ……」

 その発言の真意はまだ分からない。

「さて」

 アイゼンは一拍を置く。微笑みは湛えたまま、彼が真に聞きたい事を尋ねる。

「なんで無事やったんか、なんでそんな早よう治るんかは、聞いたらあかんか」

 いつかのやり取りを思い出す。だが、何故かあの時の圧力は無い。

「ええ、私には分かりません」

 ライカは答える。自分でも説明ができないため、これは嘘では無い。もしかすると、あの未知の病原体が身体に巣喰い、宿主の身体を弄ってしまったのかも知れない。

 無論、そんな事を彼には喋れない。

「敢えて言うなら、墓穴がもういっぱいだったからって、追い出されて帰って来たのかな」

 死者の国がいっぱいになると死人が起き上がる。そんな大昔の言い伝えを思い出しながら、彼女はとぼけた。いい加減な返答を受け、アイゼンはただ笑った。

 そうしてだらだらと喋っているうち、フィードが部屋へ入ってくる。恐らく声を聞きつけたのだろう。耳聡い奴だ。右手には見覚えのある本を掴んでいる。

 同時に、アイゼンが椅子から立って言う。

「こいつも色々話、あるみたいやわ。一応礼は言うとけ。ここまで運んで、しばらく付きっきりで看病しとったからな」

 結局、彼ら全員に大きな貸しを作ってしまったらしい。遺憾だが、仕方ない。

「ほな、おっさんは出て行くからな」

「先生」

 その小さな後ろ姿に、ライカは話しかける。

「その、ありがとうございました」

 彼は歩きながら、背中越しに手を掲げてひらひらと振った。

 残された二人、その間には奇妙な沈黙。そこから最初に口を開いたのはフィードの方だった。

「本当に良かった。生きてて」

 向けられた視線は、今のライカにはむず痒い。目を背けて彼に答える。

「どうだろう。その内頭がおかしくなって人を食べたりするかも」

 何故今も彼女が生きているのか分からない以上、そうなる可能性も無くはない。

「その時はその時だ」

 フィードはそう言うと、先程までアイゼンが居た椅子を引いて座る。

「それで、あの子らはどうなったんだ」

 彼がまた聞く。あの中で起きていた事を唯一知るライカが眠っていたせいで、捜索は進展していなかったらしい。ただし、子供達のうち一人が感染した状態で発見された時点で民衆が諦めたのは想像がつく。

「私が見たのは四人。三人が死んでて、連れてこれたのは一人だけ。結局それも助けられなかったけど」

 残りの一人は見つからなかった。まだあの坑道を彷徨っているのか、それとも起き上がれない程に喰い尽くされてしまったのかは分からない。

 その答えを聞き、予想はしていたとばかりにフィードは声を漏らす。

「あの地下通路、もう奥へは進めなくなっていた。まだ何処かに侵入口があるかもしれないが、死体の回収は出来なさそうだな」

 爆発による崩落は、無事に通路を潰してあの研究所跡を暗闇に隠してくれたらしい。あれが見つかっていない幸運に、ライカは胸を撫で下ろす。

「それから、レージィ。あの子の葬儀は、フラントさんがやってくれた。親御さん、ずっと泣いていたよ」

「泣いたからって、良い親とは限らないよ」

 レージィが抱えていたものは断片的に聞いた。その半分でもあの親が聞いてやっていたとは思えない。そんな親なら、最初から居ない方が彼らもずっと楽に生きられただろうに。

「そっちはどうやってあそこが分かったの?」

 話を変え、今度はライカの方から尋ねる。町からあの城址の入り口まではそれなりに距離がある。手掛かり無しで見つけ、合流したにしては時機が良過ぎた。

「フィンカの鼻を使ったり、フラントさんから聞き出したりした」

 想像以上に有能だったフィンカに驚く。また、フラントがそれを喋ってしまった事も信じ難い。とは言えそれも、家の秘密とライカの命を秤にかけての事だろう。今更責める事でも無い。

「それから廃坑の入口に狼の群れが居て、突入に手間取ってしまったんだ」

 あれだけあった狼の気配が無かったのは、防衛に回っていたからのようだ。そしてあれを手懐けていたのは父だ。彼は本当に、ライカとの戦いをやりたかったらしい。

「怪我人は出なかったの?」

「ハリーが指を噛まれた。アイゼン先生がその指を切り落としたら感染は防げたらしく、今は実家で療養中だ」

「死体は増えてないんだね」

 余計な仕事が増えていなくて良かった。指で済んだのだから、彼にはそれで己の高慢や怠惰と向き直ってほしいとライカはぼんやり考える。

「事後対応はまあ、任せてくれ。子供の捜索は続けなきゃいけないが、あの坑道への他の道は知らないか?」

 死体を見せなければ親は納得しないだろうが、その回収は困難を極める。

「知ってたらあんな辺鄙な所から入ってない」

 彼女自身、あんな場所に入り口があるとは思いもよらなかった。情報が無ければ辿り着く事すら出来なかった。

「そうか」

 それ以上の言葉は無い。地下墓地の採光口についてを思い出したが黙っておく。

 その沈黙から、また時間が経つ。酷く居心地が悪い。

 気まずそうに椅子を揺らしたフィードが、意を決して話しかけてきた。

「なあ。俺、もうすぐ故郷へ帰るって話をしていいか」

 恐らく、彼が今日最も話したい事だ。

「ああ、私もその話をしたかった」

 彼の中でも、まだ結論が出ていないであろう事柄だ。必要なら、ライカは最後の一押しを話すつもりでいた。

 機先を制し、ライカが先に口を開く。

「あの時の事だけで、貴方と分かり合えたとは思ってない。むしろ、絶対に埋まらない溝が見えた気がした」

 正しい人間の善意、強く清い人間だけが持てる言葉を振りかざされた彼女の心は、もう彼に焦がれる事は無いだろう。

「私は、貴方のようには生きられない。そういう風に人と付き合うには、嫌なものを知り過ぎた」

 泥と死体と共に生きて育ってしまったライカにとって、彼の価値観は眩し過ぎた。

「だから、もう言いたい事は分かるでしょう?」

 あの坑道でフィードへ向けて見せた、底意地の悪い微笑みがまた浮かぶ。

 彼女が感じた嫌な気持ちを、少しでもフィードへ分けてやりたいがための笑顔と言葉だ。

「それを俺の口から言わせるのか」

 困ったように、フィードは頭を掻く。

「もちろん。貴方が言い始めた事だから」

 彼は目を閉じ、暫く言葉を考える。そして大きく息を吸う。

「お前と一緒には帰らない。それが互いの為になるのなら、俺はそうしよう」

 その言葉を捻り出すのに、余程苦労したのだろう。言い終えてすぐに、魂の抜けたような酷い顔になった。

「勝手だね。別にいいよ」

 自分で言わせた事は棚に上げておく。

「すまない」

 彼は頭を下げてから、こちらの目を見る。

「お前はいつだって暗闇を見てる。それで、こちら側に歩み寄ろうとはしないんだよな」

 そして椅子に深く座り、空を見上げる。

 どうやら第三者にとって、ライカはそういう風に映るらしい。

「いくら俺が引っ張り上げようとしても、お前はそれすら嫌がるんだ。まるで最初から、暗闇が自分の揺り籠だって言わんばかりに」

 間違ってはいないと思う。実際、他人の手を借りるような真似をしたくない。このベッドに寝ている現状すら彼女にとっては屈辱だ。

「お前とは、見えている世界がまるで違う。今回でそれを思い知った。仮に今後一緒に過ごしたとして、それはいつか、致命的な綻びになると思う」

「でしょうね。もう少し、早く気付いて欲しかったけど」

 それに気付き、押し付ける事を辞めて身を引いてくれる。やはり彼は、良い人だ。ライカとは噛み合わないだけで。

「そうやって差し伸べられる手まで振り払って、その先に一体何がある」

 フィードはまた尋ねる。未来の話だ。そんなもの、ライカは考えた事すらない。だが、答えはある。

「さあね。今日の私は知らない。でも、明日の私なら知ってるかもね」

 これは坑道で言われた事に対する返答だ。未来なんて誰にも分からない。夢も希望も分からないなら、それを騙るのも不誠実だ。

「まあ強いて言うなら、『許さない』って、前に言ったんだけどね」

 勝手に期待して、勝手に絶望して去ってゆく。そんな人間なら、最初から側に居ない方が良い。

「本当に、すまない」

「いいって。言葉で何言われたって、何にもならないんだから」

 怒りなんて無い。むしろ感謝さえしている。だが、男と女、好きか嫌いかとは別の話だ。危機を乗り越えて結ばれる男女など、所詮は本の中の物語にしか居ないのだから。

「分かったよ」

 打てる手を、掛ける言葉を全て奪われて、フィードは謝罪を諦める。そして、席を立ってあるものを差し出して来た。

「じゃあ、これ、返しておく。寝ているお前の隣で、ずっと読んでたんだ」

 彼が持っていたのは一冊の厚い本。以前貸した、『大崩壊以降の人の分化』だ。

 ライカはそれを受け取って感想を聞く。

「そう。どうだった?」

「歴史書としては良く出来てた。だが肝心の人の変質や分化については、何が言いたいのかはよく分からなかったと言うのが本音だな」

「私もそう思った。でも、そんなもんでいいんだよ。本なんて」

 ただの暇潰しだろうが、何かを得るためだろうが、それを開き、閉じた後に何かが心に残ればそれでいい。その喜びを彼と共有出来たのなら、それが些細な幸せになる。

「それもそうだな」

 手が触れるような距離で、二人は小さく笑う。そのやり取りが、何よりも嬉しい。

「じゃあ、仕事に戻るよ。ベッドが埋まらない限りはいつまで居てもいい。無理はするな」

 フィードはライカの元を離れて部屋を出ようとする。その前に、ライカは彼を呼び止めた。

「待って、貴方にもお礼は言わないと」

 借りを作りたくないと言っても、礼は言わないといけない。行動で返すには機会が必要になるが、今はそれでいい。

「ありがとう。いつかまた生きる場所が重なる事があるなら、その時はまたよろしくね」

 この上無く優しい拒絶。とどめにそれを受け、フィードは耳も尻尾も落としてしょぼくれている。感情の分かりやすい男だ。流石に可哀想に思ったライカは、最後に彼女なりの励ましの言葉を掛けてやる。

「人の関係が、好きか嫌いか。愛しているか恋しているか。それだけな筈が無い。そうでしょう?」

 これからも、付かず離れず、程良い関係でありたい。折角繋がった人と人との線だ。お互い、失くしたくは無いだろう。


 フィードが出て行き、静かになった医務室でライカは一人、考え込む。

 やっと全てが終わった。本当に全て。

 フィードもこんな自分に構わず、故郷へ帰ってくれるだろう。その方が、互いにとって良い事の筈だ。

 これまで枯れるほど流した筈の涙がまた溢れる。啜り上げる度に、傷が引き攣る。

 それより、一旦生きる理由を失い、これからどうするのか。むしろそちらの方をこれから考える必要がある。当面は、約束していた子供達の死体の回収と埋葬か。

 報いが有ろうと無かろうと、生きる理由が有ろうと無かろうと、人生は続く。

 死ぬのは容易い。アイゼンの拳銃は無用心にも彼の机の引き出しに仕舞ってある。またすぐ側にはわざわざ一緒に運ばれてきたライフルだってある。薬を詰めた弾は使い果たしたが、普通の弾ならまだ背嚢に入れてある。

 だがそれでは駄目だ。死んでどうなる。負けてどうなる。いくつもの死を見てきた。いくつかの生を見てきた。だからこそ、死は恐ろしいものだと彼女は知っている。

 生きて、やりたい事をやる。何を切り捨ててでも。誰を犠牲にしてでも。


 医務室を出たフィードはとうとう耐えきれず、扉に背を預けてへたり込む。

 頭を抱え、目を閉じる。

「ごめんな」

 小さく、声を漏らす。扉の先には伝わらない。

 部屋の中から、啜り泣く音が聞こえた。

 彼女を救う事が出来るのは、フィードでは無いのかもしれない。

 ただ、今、彼女の側にいる事が出来ない自分が歯痒く、そして情けなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る