二十五

 ライカはまた、あの家の前に居た。重い身体を抱え、吐き気を堪え切れずに嘔吐する。

 これはいつもの夢だろうか。ならば、何に気を取られる事も無い。もたれこむようにして扉を開ける。

 その先にはやはり往時のままのホールと、二階へ登る階段。

 カーペットを踏みしめ、壁を伝って進む。

傷口の疼くような痛みは消えて、代わりに全身を骨から焼くような痛みに襲われる。心臓が酷く鳴って血が巡る。限界まで押し拡げられた血管が熱を持つ。

 何処かで子供が笑う。聞き覚えのある、二人の声。

「まだ、私はここにいるのか」

 あの頃の家だ。失われて尚、今の今まで彼女を閉じ込め続ける檻だ。

 壁からずるりと手が滑り落ち、倒れ込む。

 食堂の時計が鳴る。これは幻だ。今はそんな時間では無かった筈だ。認識しても、目は覚めない。無人の廊下が続いている。もう一度、胃から込み上げるものを口から押し出して咳き込む。ほんの少しだけ、身体が軽くなった。

 大きく息を吸って、また立ち上がる。

 暑くも寒くもないのに身体が震え、肺が空気を拒絶して収縮する。咳が出る。吸う空気よりも、吐く空気の方が多い。

 そうしてどうにか辿り着いたのは、ライカの寝室。扉は少し開けられている。丁度猫一匹が通れる隙間だ。

 扉の奥へ入り込むと、長い時間を過ごした天蓋付きのベッドが見えた。

 白布をくぐってそこへ倒れ込む。滑らかな寝床は、彼女を受け入れて包む。

 仰向けになり、荒い息を整える。

 広げた左手の先に、柔らかいものが触れる。白い毛の塊、ルークと目が合った。彼女は前足を組んだまま、大きな欠伸をする。

 手を伸ばし、その顎を撫でる。ごろごろと心地良さそうな音を立てた。

 心臓がまた暴れ始める。息をするのも嫌になるような痛みが全身を走り続ける。

 シーツを握りしめて、苦痛に耐える。そうしている間に、長い時間が過ぎる。記憶の中の情景が再生されて、途切れ、歪に繋ぎ合わさって消えてゆく。

 身体が動かなくなってきた。『動け』という命令を、首から下のあらゆる筋肉、臓器が拒絶する。

 観念して、天蓋を見上げる。

「ここが、私の終わりか」

 折角、生きようと思ったのに。

 続く未来はもう見えない。これまで何も望まなかったのだから、見える筈もない。

 鳥が鳴いている。時計が動く音がする。風が吹いて窓枠を揺らす。騒がしい足音がする。応じる間も無く部屋へ飛び込んだのは、ミオとレイオ。

「お疲れ様です、お嬢様」

「今日は何をしていたんですか?」

「御当主はもうお帰りになられています。お召し物を整えましょう」

 来て早々二人が話し、笑う。ライカは何も喋れない。

 この光景を、どれほど願ったのだろうか。未来なんて要らなかった。この家に帰りたかった。だからこそ、分かってしまう。

「泣いてます? お嬢様」

「拭いましょう。私達はここにおりますから、心配しないで」

 違う。

 彼女らの死は見た。彼女らの身体はライカ自身が葬り、土へと還した。

これらはもう、失くしたものだ。手が届かなくなったから、願ったのだ。シーツを握っていた右手の内にはいつの間にか、あのライフルのグリップが収まっていた。

 ライカは起き上がり、二人を見る。

 微笑む少女達。その片割れ、ミオが手を差し伸べた。かつてと何も変わらない、凛とした瞳と、あかぎれで荒れた働き者の手だ。

 ライカはそこへ手を伸ばす代わりに、銃口を突きつける。何が起こったのかを理解していない少女達に、叫ぶ。

「過去ごときが、幻ごときが、私の邪魔をするな!」

 激昂したまま、引き金を引く。

 発砲と同時にミオが吹き飛んで倒れ、ドレスが黒く染まる。

 両手でレバーを動かして排莢し、銃口を水平に動かす。怯えた瞳を向けるレイオ。照星の向こうのその顔に、ライカは静かに語りかける。

「ごめんね」

 涙が流れ落ちるのを感じた。雫が衝撃で宙に舞う。

 残ったのは、土気色の少女達の遺体。すぐ側を振り向くと、小さな生き物の白い骨。

 天蓋が裂け、窓が割れる。

 ライカは腐ってゆくベッドから立ち上がり、足早に部屋を出る。

 崩れゆく家を振り返る事なく廊下とロビーを走り、玄関の扉を開け放った。

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