二十三

 レージィが意識を取り戻し、ライカと二人で暗闇を走る。

 燃料を使ってしまったライカのランタンは置いて来た。彼が持っていたランプに水を注ぎ、容器内でガスが充満するのを待ってから点火する。

 反射板は錆びているが、高温の炎はそれを補って余りある程に明るい。

 レージィは負傷している。衝突の際には咄嗟に腕で顔は押さえていたものの、石畳を転げ回った事による全身の擦過傷と、右腕にはあの爪による裂傷が見られる。

 後方からはあの呻き声が聞こえている。立ち止まるのは危険で、応急処置をしてやる時間も無い。

「大丈夫?」

 ライカは声を掛けてやる。思い詰め、後悔が渦巻く酷い顔だ。

「なあ、俺もう駄目なのか?」

 また泣き出しそうな声になった彼が聞いてくる。

「傷口を消毒してみる。でもその前に、逃げないと」

 言葉は濁す。近年では感染を疑われて直後の人間の事例が少なく、実例を見た事が無い分何とも言えない。

 今はまだ敵が近い。一刻も早く振り切ってしまいたい。

 狼は居ない。辺りを警戒をしながら、声が遠くなるまで逃げる。

 出口までの道には迷わない。侵入した時点で要所には目印を置いていたのに加え、木の根や葉脈の元へ向かうような道は、行きはともかく帰りはかなり分かりやすい。

 レージィが息を切らしている。発見時点で軽い衰弱状態にあった。そこにかなり心理的、身体的負荷を掛けてしまった。

 もうどうしようもない。そんな思いがよぎる。だがそれでは駄目だ。人の命を、諦める訳にはいかない。

 奥に繋がる分岐路が無くなる辺りで、怪物の声が遠くなった。いい加減、薬が効いてきたのかも知れない。狭い通路でライカは立ち止まり、レージィの方を照らす。

「腕の傷を見せて。消毒と止血をして様子を見る」

 ランプと背嚢を下ろし、アルコールと蒸留水の瓶と綿布を手に取る。傷は真皮を裂いて皮下脂肪にまで到達し、酷い出血をしている。

 蒸留水を流してからそっと叩くように拭き取り、アルコールを染み込ませた布でまた叩く。

「痛む?」

「ああ、痛い」

 次に、小箱から縫合用の鉤爪のような針と糸、それから小さな鋏を取り出す。

「ごめん。今出来るのはこれくらい。かなり痛いよ」

 一針、右腕を刺して糸を結える。彼の顔が更に歪む。子供には酷な状況だ。続けて二針、三針と、糸を結んで傷を塞ぐ。

 ある程度処置が完了した所で、また怪物の怒声がした。こちらへ確実に近づいている。

 背嚢に手を突っ込んだライカが、続いて取り出したのはフラントの爆薬。円柱状の紙筒にニトログリセリン等を詰めて雷管と導火線を刺したものだ。

「何でそんなもん持ってるんだ?」

「詰所で拾った。湿気ってるから爆発しないかも」

 不審げに聞くレージィに、適当に返してやる。

 今朝、箱から回収しようとした時点では中身が水気を含み、固まっているものが多かった。

 その中からまだマシなものをいくつか選び、反応を起こしやすいようにほぐしてある。

「後は、それの残った燃料、全部渡して」

 カーバイドランプを指差したライカに、レージィは震える左手で肩掛け鞄を渡す。

 それを開け、底にあった袋に入っていたのは幾つかの塊になった炭化カルシウム。

 ライカは受け取ったそれら全てを、近くの水溜りに放り込む。すると、すぐに水と反応した炭化カルシウムがアセチレンとなって水面を泡立たせた。これを充満させるにはしばらく待つ必要があるだろう。

「ちょっと進もう。爆発させる」

 荷物を纏めたライカが肩を貸して立ち上がり、二人は少しずつ進む。

 怪物が喚いている。いや、呼んでいる。彼女の名を。あの時のように、あの頃のように。

 だがそれは、呼びかけるような穏やかなものではない。悪さをした子供を探し出し、叱責するかのような激しいものだ。

 ライカの身体が震える。嫌悪感か、それとも恐怖からか。

「なあ、これって」

「静かに」

 ナイフを使って導火線を短く切る。

「あの怪物、あんたの名前を呼んでるよな」

 レージィの目はこちらへ向いている。不信感を露わにした顔だ。しかしその焦点が合っていない。

「今はそれどころじゃない」

「あんたのせいだな。あんたらのせいで、みんな死んだんだな」

 勝手に首を突っ込んで、勝手に死んでいったのは彼らの方だ。自分が責められる謂れは無い。

 彼は身体を震わせ、落ち着きが無い。

「なあ、何とか言ってくれ。頼む」

 懇願する彼の全身からは汗が噴き出ている。呼吸も浅く、早い。

 やはり、手遅れだったようだ。眼前の死にゆく子供に、彼女の力は及ばない。

「誰か居るのか!」

 闇の向こうからフィードの声がする。つくづく間の悪い男だ。

「ここだ! ここに居る!」

 レージィが立ち上がり、声の方へ歩んでゆく。

「フィードさん、や、やっぱりあの家だ! あの家の、連中が全部、や、ったんだ!」

 呂律が回っていない。ライカは一度爆薬を置き、ライフルを手に取る。

「何だって? よく、聞き取れない!」

 フィードの声と、怪物の足音が近付いている。

「とにかくそこから離れろ! 嫌な臭いがする!」

 フィードが叫んでいる。彼も怪物の存在を察知したのだろう。

 そして彼の元へ走り出したレージィの心臓を、ライカのライフルは正確に撃ち抜いた。

 血の弧を描いて、レージィが倒れる。その瞬間、彼女の視界にフィードが現れた。後ろにはあの怪物も顔を出す。

 フィードと、随伴する兵士が目を見開く。ライカはマッチで導火線に火を付け、爆薬を水平に放り投げる。

「伏せて!」

 兵士達へ向けて叫ぶと、彼らは反射的に頭を下げた。直後、天井付近に滞留したガスに引火しないように低く投げた爆薬が炸裂する。

 轟音と衝撃波がその場の者全てを襲う。

 そして同時に空気と混ざったガスがその熱に反応し、更なる炎を生む。

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