十六

 屋敷の一部分が崩れた。最初にそう言っていたのは父親のフロエだった。

 漁や採石のために広い湖をあちこち漕ぎ回る彼はその辺りの景色に詳しい。いつも、『あの家は異物だ』と言っていた。

愛する自然の中に、自分の質素な暮らしを小馬鹿にするような建物がある事がずっと気に食わなかったらしい。何度も、何度も彼は食卓でそんな話をしていた。

 レージィにとってフロエは決して良い父親では無かった。いつも家に居る母は勿論、漁を手伝う兄や自分をも、彼は気分で殴りつけた。自然の偉大さを思い知らさせるためと言って、小舟から蹴落とされた事もある。

 いつも口が空けば煙草を吸い、がらがらの喉で咳をする。そんな父を、レージィと兄のドーラは心底嫌っていた。そのせいで、仕事は手伝うものの二人は食事と寝る時以外は家に寄り付かなくなった。

 父が衰えて息子らが十四、五にまで育つと関係は変わった。殴られれば殴り返す。そんな当たり前のことが出来るようになった途端に父は大人しくなり、代わりに口ばかりよく動くようになった。兄弟が仕事を手伝わなくなっても、手を出して来る事も無くなった。

 不当な扱いには暴力で返す。それが、彼らが仕事以外で父から唯一学んだ生きる術だった。

 そしていつしか、彼ら兄弟と同様にして学校も劇場も工場も無いこの田舎で産まれて、どうにもならなくなった同年代の子供達とよく遊ぶようになった。色々と町の共用物を壊し、燃やし、盗んだりもした。

 そんな彼らとの遊び場に、あの廃屋はぴったりだった。


 怖がって誰も近寄らないあの建物へは予想通り、崩れた外壁から容易く侵入出来た。

異臭や血の跡はあるものの、冒険心をくすぐるには十分。見慣れない調度品の数々で好き放題に遊んだ。

 本のページを引きちぎったり綴じ紐を解いたりすると、ろくに読めない文字や記号の群れがバラバラと落ちる。誰かが火をつけようと言ったが、それは兄が止めた。

 家の娘の部屋には湿って腐ったベッドや衣類が残されていた。所有者がまだ生きているにも関わらず、彼らはそれを夢中で裂いた。得体の知れない興奮に、身体が熱くなった。

 しかしそんな中で、ある部屋だけは違った。

書斎であろう隣室とは違って本棚とベッド、衣装棚以外に何も無い部屋だった。

 集団から一人離れ、ふとそこへ立ち入ろうとしたレージィは、その入り口の扉が僅かに開いているのに気付いた。誰かが出入りしているのかも知れない。慎重にそこへ潜り込み、中を探った。

 すると、カーテンに隠された出窓の元に小動物の骨を見つけた。その場で息絶え、肉と内臓以外の全ての部品が残った死骸が、クッションの上に横たわっていた。

 それを見た瞬間に『この部屋は駄目だ』と。そう思い、扉を閉めて他の皆の元へ走って戻った。

 何か、取り返しのつかない事をしたような、それに気が付いたような。身体に冷水を叩きつけられた時に近い感覚に襲われた。

 他の皆は天井と外壁が崩れた炊事場を見ていた。そこで、兄が外の森を指差す。皆が目を凝らすと、遠くに大きな影が見えた。人に見えなくもない。右腕にいくつも生えた大きな爪はそれぞれがばらばらな方向を指しており、足二つと腕一本を使い、まるで芋虫の蠕動のように身体を動かして森の奥へと去ってゆく。

「なあ、見たか」

「あれが『動く死体』ってやつ?」

「でも、逃げたぞ!」

 友人達はそれぞれに話す。興奮と恐怖が鎮まらない。

「帰ろう」

 一人が言い出し、他の者もそれに頷いた。

 廃屋を離れる道中、レージィは自分の手がいつまでも震えていたのに気付いた。


 フィード達が務めている詰所の受付にはいつも、小太りの無能がいる。

 その日も彼は呆けた顔で書類に錐を通していた。子供達が怪物の事を伝えると、のそのそと二階へ上がってラゼル老人を呼んできた。

 これまで五人を何度も叱りつけた人だ。悪さを反省するつもりは一切無かったが、きちんと向かい合って叱ってくれる数少ない大人だった。

 森で見たものを説明すると、彼はすぐに人を向かわせた。

「大人になるまで、あそこには近寄るんじゃないぞ」

 そう言い聞かせてくる時の顔は、いつになく真剣なものだった。

 詰所から出た五人はどこへ行くともなく歩き、話し合う。

「あの化け物、どう思う」

「怖かった」

「あれ何? 熊?」

「人?」

 纏まりのない、会話とも呼べない単語のぶつけ合い。そんな中で、仲間の一人がある事を言い出した。

「あいつがあの家を襲ったんだ」

 彼が興奮して話す。

「前に父さんと母さんが言ってた。あの家は昔、化け物を飼ってた。それが逃げ出して皆殺されたって」

 でたらめだ。あの家にそんな檻は無かった。あそこにあったのは、紛れもない人間の生活だった。

 そうして下らない感想を言い合っていると、先を歩いていた兄、ドーラが突然こちらへ向き直ってある事を提案した。

「あれを俺たちで倒さないか」

「倒すって、どうやって?」

 思わずレージィは聞く。時折見せる自信がありそうな時の兄の顔が見えた。

「漁でもやっただろ、夜に寝ている所を押さえて殺すんだ」

 父と兄と三人で何度も行った夜漁を思い出す。深夜の魚は動くのをやめている事が多く、手掴みでも容易に捕まえられた。

「あれが殺したのは、女子供ばっかりだ。それからあのとろ臭い動きだって見ただろ。多分、俺たちを見て逃げたんだよ!」

 兄の話を、全員が黙って聞く。確かにあの時見た愚鈍な姿は、人を何人も殺した怪物とは到底思えない。

 反対意見は出てこない。それを同意と受け取ったドーラは続けて語る。

「倒せば有名になって、フィードさんみたいな本物の兵士になれる。列車に乗って都会に行ける!」

 その言葉で、彼ら全員の決心が付いた。皆、こんな陰気な土地から一刻も早く逃げ出したかったから。そうして五人は、夜に眠っている怪物を倒すという目的を共有した。あの家への再訪にはそれぞれが思う『必要なもの』を持って、その日の晩にまた集合する事になった。

 やがて時間になると、いつもの町外れの倉の前で五人の子供が集まった。ある者は鍬を。ある者は斧を。またある者は鍛造用の大槌を。兄が家から鞄に詰め込んで持ち出したのは、父が漁や藪漕ぎなどに使う鉈と、重りの付いた漁網だった。

 網は三年ほど前まで使っていたが、湖底の岩に引っ掛けてあちこちが破れて使い物にならなくなったものだ。これでも、魚よりかは大きい獣を動きを止めるには十分だと兄は言っていた。

 レージィが持ち出してきたのは使いかけのマッチ箱と、父親が夜の漁で使っていたカーバイドランプというもの。今の街の人々は湖の底を浚って僅かな鉄を得ている。だが大昔、あの家の近くは豊かな鉱山だったらしい。その洞穴にいるのではないかと思ったから選んだ。

 燃料に使うのは原理はよく分からないが水を注げばガスを出す石だ。家で余らせていたそれも、肩掛け鞄に放り込んで持ってきた。

 父は身体を悪くしてから夜の屋外へ出る事が無くなった。今日一日くらい失くなっていてもばれないし、ばれたところで拳が飛んでくる事も無いのだから問題無い。

 かくしてその日の晩に親の目を盗んで森へ向かった子供達は、これと言った障害にぶつかる事なくあの家へ再び入り込んだ。運の悪い事に、その直後から雨が降り始めた。屋敷の外の視界は最悪、音も殆ど聞こえない。

 迫る危機に気付いた頃にはもう何もかもが遅かった。屋敷の中を探索する最中、何かの鳴き声が聞こえた。

 狼の遠吠えだ。仲間を呼び集め、狩りを始める鬨の声。瞬く間にそれは数を増して重なり、子供達は震えて身を寄せ合った。

「逃げよう。ここじゃ、しらみ潰しに襲われるだけだ!」

「外に出るの? 嘘だろ!?」

 兄と仲間が言い争っていると、どこかで窓ガラスが割れる音がした。獣の走る音もする。

 意を決して使用人室から屋外へ飛び出そうとした瞬間、仲間の一人であるウォズが背後から四つ足の犬のような影に首へ噛みつかれて瓦礫の上に倒れ込んでいた。

「痛い、痛い、痛い!」

 ウォズが泣き喚く。その場の誰も助けになど入らないし、手に持った斧は何の役にも立たない。数秒の格闘と硬直の後、ウォズの首は嫌な音を立てて背面の夜空を向いていた。

 それから四人は、雨のせいで右も左も見えない夜の森を走った。足元の土は水に浮いて逃げるのを邪魔する。手掛かりは欠けた月光と背後の狼達の咆哮のみ。

 長い時間を掛け、狼達は子供らを生かさず殺さずの速度で追い駆ける。まるでどこかへ誘導するかのように。

 ずぶ濡れになり、散り散りになりかけながら走る。その先にあったのは、土と石だけになった城跡だった。

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