十三
通る者が消えて自然に還りつつある林道をライカは歩く。その前方に、あの屋敷が見えた。
遠くからは見えなかったが東側の二階奥、母や兄の部屋があった部分は完全に崩落しており、その下の使用人室まで半ば潰れてかけている。
原因は恐らく昨年の大雪だ。雪を降ろすなどの手入れの無い家は、どんなに頑丈に作ってもすぐに潰れる。もう五年もすれば建物全体が真っ平らにひしゃげているだろう。
来てしまった。特に用も無いのに。近くを通り掛かるだけのつもりだったが、彼女の足は勝手にここへ向かっていた。
扉には錠が掛けられているが、真新しい泥の靴跡が残っている。恐らく行方不明になっている子供達の悪戯だ。
ここから入ろうとせずとも、外壁が崩落した部分から入れるだろう。しかし、ライカは懐から鍵を取り出して錠を開ける。ついでに扉にこびり付いた泥の跡を刮いで落としてやる。
扉を少し開ける。錆びついた蝶番が悲鳴を上げて数年ぶりに動く。
隙間から見えたのは、懐かしい景色。まるで、あの頃に帰ってきたようだ。
「ただいま」
呟く。無論、出迎えてくれる者は居ない。香木の香りは、カビと鳥の糞の臭いに取って代わられている。厚いスカーフを口元に巻き直し、空気を直接吸わないようにする。
敷かれた赤いカーペットは大量の水を含んで不快にふやけ、あちこちが真っ黒に変色している。ここで死んだミオとレイオ、そして母の血が今でも残っている。
ひしゃげた扉から、あの怪物が暴れていた応接間に入ってみる。あの時のまま、砕けた椅子や額縁、窓枠が放置されている。体毛などの痕跡はもう見つからないだろう。
ミオが転げ落ちた階段を登る。吹き抜けのある広い廊下には天井の木材が落ちて、空が見える。
吹き抜けを反時計回りに見て回る。
外から見た通り、東側の部屋は殆ど床が抜け落ちて階下が見える。覗き込むと、漆喰のアーチや残った木組みだけが生物の骨格のように残っている。
兄が死んだ書斎は西側の奥。家を出た後も何度か、ライカはこの部屋へ本や実験器具、その他工具類を持ち出しに来た事がある。
これ以上めぼしいものは無いだろうと思ってはいたが、何か嫌な予感がした。
中を見ると無数の本があちこちにばら撒かれ、戸棚もランプも窓もフラスコも、あらゆるガラスが砕かれていた。
ほどけた装丁からこぼれ落ちた紙片の上で、文字のインクが滲んで読めなくなっている。
明らかに人為的な荒らし方だ。何かを物色したようなものでもない。そこから感じるものを強いて言えば、あるものをただ壊し、投げつけて楽しむような幼稚な暴虐。
「馬鹿共が」
思わず毒付く。やはり子供達はこの建物を遊び場に選び、狼藉を働いていたらしい。
子供は嫌いだ。他者の苦悩も悲嘆も何も知らず、ひとたび泣けば親が構ってくれる。そんな子供は特に。
父の寝室へ向かう。ベッドと洋服棚以外には本棚ばかりで飾り気の無い部屋だった。
彼はいつも、猫のルークが自由に出入り出来るように少しだけ扉を開けていた。ここを離れて七年経った今、その扉がぴったりと閉められているのを生まれて初めて見た気がする。
部屋に潜り込むと、中にあるものの殆どが記憶の中にあるままの状態で残っていた。
「懐かしい」
棚に並んだ背表紙を見る。どれも、見覚えがある。
こちらの部屋の本は医学や薬学とは縁の無い、趣味や教養のようなものが多かった。幼い頃のライカは何度もここで本を借りて母に読み聞かせて貰ったし、自分でも読めるようにもなった。
先の書斎とは違い、ここは不思議と荒らされていない。棚と壁の隙間では、埃の上で巣を張る蜘蛛が蠢いている。彼の住処は悪意の暴風からは難を逃れたらしい。
疑問に思い、部屋を探ってみる。
すると、出窓のカーテンが少し開けられて、日が入っているのに気がついた。そこは、猫のルークがよく眠っていた場所だった。
カーテンへ歩み寄り、そっとめくってやる。そこにあるのは小さなクッションと、小動物の白骨化した遺体。
「ここに、居たんだ」
姿が変わっても、見間違う事は無い。水のようにしなやかな筋肉に、こんもり生えた体毛。手入れに長い時間をかけてやっても、礼の一つもせずにどこかへ行ってしまう気ままな同居人、ルークの亡骸がそこにあった。
あの事件で逃げ出して以来、ついぞ見つける事は出来なかったが、ようやくここで再会出来た。
流石の子供達にも、この子の眠りを妨げてやろうという程の悪意は無かったのだろうか。ともあれ、今はこの幸運を静かに抱き止めていたい。
「そっか、ここが良かったんだね」
頭骨を撫で、優しく語りかけてやる。記憶の中にあるあの頭の質量よりもずっと軽い。それでも、面倒臭そうに尾を振って応える様子が、ライカの目には鮮明に浮かんだ。
今更改葬してやる必要も無い。彼女はここを最期の寝床として選んだ。だったら、せめてこの家が崩れ落ちるまではここで安らかに眠るべきだ。
最後に、まだ形を残しているであろうかつてのライカの部屋を訪れる。
こちらはやはり、書斎同様の有様だった。かつての彼女の楽園だったベッドは踏み躙られ、天蓋は引き裂かれている。
衣装棚からは置いていった服が引き摺り出され、無惨に放られていた。
「親が親なら、か」
この部屋へは、踏み込む気にはなれなかった。
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