十
子供たちの捜索を中断して森から詰所に戻った兵士達は、軽い協議の後に解散した。ある者は自室へ、ある者は自宅へと三々五々、帰ってゆく。そんな中フィードだけは事務室に残って書類に目を通していた。
揺れるストーブの炎と、蝋燭の炎。ここが町の中心部であるにも関わらず、それ以外に入ってくる外的刺激はあまりない。田舎の夜は早いもので、電気の明かりなど望むべくもない。そのせいか時折、都会の夜の喧騒が恋しくなる。
昼間の想定外の出来事のせいで、中途半端に睡眠をとってしまった。おかげでこんな時刻でも眠気が全くやって来ない。
静けさの中、階下からフィンカが短く吠える声がした。相棒の機微をフィードの耳は逃さずに捉える。これは来客や侵入者ではなく、仲間を出迎える挨拶のようなものだ。
その後すぐにボロボロの階段が軋む音がしてドアが開き、タバコの匂いが部屋に入り込む。
「まだ帰ってなかったのか」
野暮ったい声がした。書類から顔を上げると、暗がりにラゼルの顔が見えた。どこかで一杯引っ掛けてきたらしい。頬は紅潮し、やけに機嫌がいい。また彼に遅れて、アイゼン医師も部屋へ入ってくる。僅かに酒の香りが鼻をつく。
「ああ、お疲れ様です」
フィードは彼らに一言、労いをかけてからまた書類に目を落とす。
「みんながみんな机仕事を放り出して散歩に行くから、通常業務が進んでないんです」
手元の電報に書かれているのは、租税徴収に対する軽減嘆願のための仕様書の取り決め。
名ばかりの辺境警備隊とは言っても、迷子探しや害獣の駆除だけが彼らの仕事では無い。普通の街では役所がやるような事務作業だって毎日入ってくる。
「明日明後日にでも出来るものは今日やらんでもいい。早く寝てくれ」
ラゼルが投げやりに言い放つ。一応は上官の言だが、仕事を放って一杯引っ掛けて来た者のそれにフィードは今一つ承服しかねる。市民を導き護る立場として、成すべきは成さねばならないのだから。
「あいつらも、止めて聞く奴らじゃない。悪いな、手綱を取れんで」
のしのしと自分の机へ歩みながら、ラゼルが詫びる。だがフィードもまた下士官らを纏める立場である以上は同様の責任を負っている。
「それは僕も同じです。もう少し強く言えれば良いのですが」
「歳下に怒られたら逆に怒るからなあ、アレらは」
ここは現地有力者の子息だけでなく、近くの地方都市の富裕層出身の人間も多く受け入れさせられている。気位だけが高い者は少なくない。
ラゼルも部隊長として思う所はあるのだろうが、長年かけて醸成したこの職場の空気を払拭する事は不可能なのだろう。そういう訳で、外部から来て僅か数年の若い上司の言う事を聞くほどここの男たちの頭は良く出来てはいない。
「なんや、可哀想やからこれあげるわ」
アイゼンが暗闇から、小さな紙包を投げて寄越してくる。狙いは少し逸れたが、フィードの長く大きな腕は難なくそれを受け止める。
「ありがとうございます」
包みを解くと、レタスとハムのサンドが顔を出した。
ラゼルが自分の椅子に、アイゼンが他人の椅子に勝手に座る。
「よっこいせ」
「ほっ、と」
二人共、膝を曲げて腰を下ろすために掛け声を発する。まごう事ない、身体にガタが来始めた中年男性の挙動だ。
それを眺めつつ、サンドに齧り付く。肉とピクルスの塩味が身体に染みる。
腰を落ち着けたアイゼンが、フィードに話しかける。
「自分も、上のお触れとはいえこんなとこに飛ばされて災難やったな」
アイゼンは何かに付けてフィードの事を気にかけてくれる。未だ彼にはフィードが『中央の理不尽な命令でこの町に来た不憫な若者』として映っているらしい。
「嫌なことばかりでは無いですよ。都会に篭っていただけでは知り得ない事ばかりで、全部必要な経験です」
いずれ中央に戻って人の上で仕事をするとなると、知っておくべき知識は多い。それを得るためでもある一時的な長期赴任だ。
「それに、良い出会いもありましたから」
見知らぬ土地で、自分とは何もかも違う人々と会う。良くも悪くも、こんな経験は金だけでは得られない。
「俺か」
「俺やろ」
中年二人が満面の笑みで顔を見合わせる。微笑ましい酔っ払い共の間に挟まれるのも、もう慣れたものだ。
「もちろん、お二方もですが」
「じゃあ、あの子か」
やはり、自分がライカに気がある事は二人にばれていたようだ。
仄めかしたのは自分だが、向こうから言及されると心臓が握られたような気分になる。そういうものに直接触れない繊細さというものは、彼らには求めない方が良かった。フィードは返答に困り、曖昧に言葉を濁す。
「まあ、その、そうですね」
「あんまり入れ込み過ぎんなや。確かにおもろい子ではあるが、いろいろ上から言われとる仕事もあるんやろ? それを忘れたらあかんで」
「それは分かっています」
アイゼンは言外に、フィードが中央から送られてきた意味を思い出させてくる。メーアバウムが持つ『死を越える生物の情報』を得る事、それがこの地に送られた彼に託された使命のうち一つ。
「そういや、来年になったらあの子を連れて帰るのか?」
ふと、そんな事をラゼルが聞いて来た。彼は紙巻きタバコを箱から引っ張り出し、マッチを擦って火をつける。美味そうに煙を吸う顔が、小さな光に照らされている。
「もう三年目か。早いなあ」
アイゼンがしみじみ呟く。
もうすぐ、フィードのここでの任期が切れる。受けた命令についての収穫は無いに等しいが期限は期限だ。仕方がない。
「その事については、まだ分かりません。でも丁度今朝、彼女とその話をしてきました」
「おう、おう、どうだった?」
聞くや否や、ラゼルが食い気味に訊ねてくる。アイゼンも眼鏡を光らせ、にやけた顔でこちらを見ている。
つい先程まで酒の余韻に浸って大人しかった中年二人が急に息を吹き返したようだ。どこの土地でも、どんな世代でも、色恋沙汰は人の話題における花形らしい。
今日の昼頃の出来事を思い出してみる。死者に関する情報の切り口を見せる程度には心を開いてくれたライカのこと、あろう事か睡眠薬を飲まされていたこと、なし崩し的にしでかしてしまった告白のこと。
「手応えはあんまりだったんですけど、あの子は考えてる事とやってる事がちぐはぐな時がよくある。だから、まだ脈はあると思います」
彼女は、やりたくないとは言うが気が付けばそれをやっている事が多い。例えば、この町の平穏など欠片も興味が無いそぶりを見せながら様々請け負う仕事を通し、誰よりも真摯に人の死と生の安寧を願う。そういう人間だ。
「よく見てるんだな」
「僕が彼女を娶れば、上もメーアバウムの扱いにごちゃごちゃ口を出してくる事も無くなると思います」
にやけるラゼルに真顔で答える。あくまで打算に、私的な想いが重なった故の行動だと思う。
「ほんなら、今度はお前が目の敵にされるかもな」
少なからず酒が入ってうわつきながらも静かに話を聞いていたアイゼンが、将来起こる可能性を冷静に提示する。彼女を巻き込んで、出世のための闘争に明け暮れる中央上層に歯向かうのは確かに危ういかも知れない。だが。
「その時はその時で、叩き潰してやりますよ」
懸念に対して、フィードは自信を持って答える。それが出来るだけの家柄と実力を持っているつもりだから。
「頼もしい旦那さんやなあ」
「まだ旦那なんてもんじゃないですよ」
「あの子もしっかりしとるし、良い嫁さんになるぞ」
「しっかりした嫁なんか居てもロクな事にならへんぞ。毎日毎日小言ばっかりや」
「ウチのは、ある日俺が仕事から帰ってきたら子供連れて実家に帰られてて、それっきりだな」
「何の話やねん」
中年二人だけで、勝手に盛り上がる。決して楽しくはない話と思われるが、よくもまあ上機嫌でやるものだ。
少し間を開け、ラゼルが問うてくる。
「やっぱ都会に早よ帰りたいか」
それを聞いてフィードは何とはなしに、机に置かれた写真立てを見る。ここへ来る直前に母と二人で映った写真。横の息子とは違って彼女の耳は昔ながらの、普通の人間のものだ。
「本音を言うとそうですね」
必要な事とは先に言ったが、現状都会から田舎に越した事で得られたのは美味い食事と水、空気、それから閉鎖的な共同体が持つ独特な攻撃性への洞察くらいだ。これから役立つような人脈についても、ここでは望めそうにもない。
「今やと列車もハリスクの方まで来てるから、やろうと思えば一週間も掛からんくらいで帰れるんか」
「そうですね。僕がこっちに来た頃はまだもうちょっと前で線路が止まってたんですけど、去年の帰省ではそのぐらいの日程で帰れました」
「電気が来るのもそう遠くないかもな。凄い時代だ、やってる事が科学なのか魔法なのか、区別が付かん」
「魔法ですか」
フィードは無意識に聞き直す。
突然人の世に現れた不可解な道理の総称。ライカの家で読み、借りた本を思い出す。
それを受け、ラゼルとアイゼンが機嫌良く話を始め出した。
「都会から出てくる時に俺らが知っとった魔法って言うと、手から炎出すとか、水で幻を作るとか、記録石の類とかだっただったな」
「炎で機械をぶん回して動かすトラックとかいう乗りもんかて、自分らの世代やと見た事無いやろ」
「無いですね、本で読んだくらいで」
大崩壊の後、死に瀕して魔法を見出す人々が現れるようになった。そういった者達は戦争で増え、平時には減ったという。
「こっちへ来る時に、『死体が生き返る』と大真面目に言われた時は流石に信じられへんかったなあ」
しみじみと思い出を語るアイゼンの顔は、どこか寂しげでもある。
「そうだ。この機会だし改めて、隊長と先生に聞きたい事があって」
世間話が落ち着き、酒が抜けてきたのを見計らってフィードは声を掛けてみた。このまま放っておいては二人だけの長い昔話が始まりそうだ。それなら、少しは実のある話をしてもらう方がいい。
それに対し、アイゼンが反応を返してくれた。
「なんや、言うだけ言うてみい」
「七年前のあの事件の話を、もう一度してくれませんか」
これまで何度も聞いたメーアバウム家の襲撃について。怪物の目撃証言、場所、ライカの反応などから、今回の子供達の失踪と少なからず関係があると踏んでいる。今再確認しておいて損はないはずだ。
「なるほど、良いぞ。いくらでも喋ってやる」
ラゼルは快諾してくれた。アイゼンもそれに同意するように頷く。
「お願いします。出来るだけ詳しく」
フィードは小さく頭を下げる。そして、整然と並べた書類の隙間から、小さな手帳を取り出して、ペンにインクを付ける。
ラゼルが仰々しく咳払いをする。タールにやられた喉が騒音を立てる。
「まず朝方、ここにあの子が泥んこになって走ってきてな。『みんな死んだ』ってピーピー泣くんだ。どうにかなだめて話を聞くと、家に大きい化け物が襲って来たって事で。カールさんもどこかへ行って見つかってない中で、それはもう大騒ぎになった」
当時のメーアバウム家当主、カール・メーアバウムは事件の数日前に消息を絶っていた。変異生物の駆除に出向いて単独行動をして以後の事だったと、彼の息子のヴィクセンや同行を許された兵士らによる証言の記録も残っている。
「それであの子は一旦詰所で保護して、その時残ってた連中のうち俺と、そこのアイゼンと後もう二人、ロージって奴とピートって奴を連れて様子を見に行く事になった」
ロージとピート、顔写真や経歴にもフィードは目を通した。いずれも中央軍人家の出身、特に目立つ事柄もない。
「四人で森の道を抜ける途中、馬がぽつんと残されとった。そんで軽くそれを調べてからあの家に着いた。すると玄関が開きっぱなしで、中で使用人の服着た女の子がこっちに背中向けて座り込んどった。ただ事じゃないと思ってすぐ突入した。そんだらもう血だの内臓だのがあちこち散らばって、奥方らしい死体と、もう一人別の使用人の死体が転がっとった」
この事件でのメーアバウム家の死者は使用人含めて四名、それと町に住んでいた家庭教師一名も巻き込まれている。
町から邸宅までの道中で無傷のロバが見つかったのを見るに、教師の方は通勤途中で襲撃を受けたと推測される。
「座っとる子は呼びかけても返事せんし、血まみれだし、こりゃヤバいなと思って俺らは一旦下がったんだ。そしたら、ロージがそのまんまずんずん進んでその子に触ったんだ」
今でこそ変異の疑いがある者には近付かないという自衛が定着しているが、当時の兵にはそんな知識すら無かった。
「そしたらその子が急にこっち向いて、ロージの手を引っ掴みよった。顔見たら肌も目も唇も真っ白けで、首元は大きくへこんで血まみれ。俺らもう、アカンアカンと慌てて銃でその子を撃ったけど、痛くも痒くもないようで。ほんでしゃーないからこいつが頭を撃って、やっと倒れた」
アイゼンがラゼルを指差す。すると、照れ臭そうに笑う。この人は無能だの日和見主義者だのなんだかんだと言われるが、身体能力自体は高く、射撃の腕も良い。
「その途端、今度は他の転がってる死体どもがもそもそと動き出してな。そんで更に家の奥からもう一人、俺らもよう知っとった教師の女の人が出てきて。もう大の大人が全員、悲鳴上げてパニック起こしとったわ」
軽妙な語り口ではあるが、実際に遭遇した光景はまさしく悪夢そのものだったであろう。そんな体験すらどこか懐かしむように話せるようになるのが、『歳をとる』という事なのだろうか。
「あそこの奥さんなんかも綺麗な人やったのに、顎の辺りをめちゃくちゃに潰されとってなあ。『すんません、すんません』と言って頭を撃ってやった」
ライカの母君だ。メーアバウムの遠縁の家からはるばる嫁いで来たのだという。
「それで、その人たちを皆大人しくさせてから、怪物を見つけたと」
「そうそう。倒れてた奥さんともう一人の使用人と、ミラ先生も撃った。そうしたらピートの奴が、すぐ横の部屋で何かが倒れてるのを見つけて俺らを呼んだんだよ。それで、俺らがそっちを向いた瞬間にはもう、ピートの背中からでっかい爪が生えとった」
「ほんでその向こうに、爪が刺さったピートよりも二回りぐらいデカいバケモンがおった。十中八九、そいつが『襲撃犯』やな」
「俺ら震え上がってその怪物を撃ちまくって。そしたら運の良い事にそいつは撃たれるのを嫌がって、走って窓割って逃げて行った」
それ以来、その怪物の目撃情報は無かった。昨日までは。
「その怪物について、もっと詳しく思い出せませんか」
ライカが追いかけ、子供達が追ってしまった事件の中核。その存在についての手掛かりが、今は何よりも欲しい。
「顔は出来物が潰れてめちゃくちゃになってた上に、刺さったままになったピートの体でよく見えなんだなあ」
ラゼルが頭を捻って指でつつく。『その怪物が誰なのか』は、ここに居る皆がおおよその想像はしているものの決定的な証拠は無い。
「被毛が異常に伸びて、主に体の右側に偏って肥大化した体のそこら中に肉腫が出来とった。せやけどあの骨格はおそらく人が変異したもんや。しかし如何せん、あの一瞬じゃあそれ以上分からへんわ」
アイゼンも補足する。
「……ありがとうございます」
礼を言いながら、フィードは聞いた事象を文章にする。これも昔聞いた時に書いたものと殆ど変わらない内容だ。
そしてアイゼンは、ピートという人物の状態についても語る。
「ほんで、ピートは一応即死や。後で死体を調べたら肋骨を割って心臓は破裂しとった」
一応、と前置きを置くのには理由がある。
「その人も、『歩く死体』になったんでしたっけ」
「そう、爪からすっぽ抜けた直後に蘇生したんや」
「心臓が無くても動けるものなんですね」
「そうらしい。なんでかは知らんけど」
アイゼンは、お手上げだと言うように力無く笑う。長年彼が信じて取り扱ってきた医学と、生死の定義すら覆されるような出来事。それらは彼から医師としての自信と名声を奪うに十分だったと、以前語っていた。
「動き自体は遅いし脅威にはならんかったから泣く泣く撃ったが、辛かった。ほんの十分前まで元気に嫁さんの愚痴を喋っとった奴がそうなるのはな」
淡々と語るラゼル。ここに関しては、敢えて感情を隠そうとしている様子すらある。
「そんな訳で一時撤退だ。ヴィクセンの坊主の首無し死体を見つけたのは、その二、三日後に改めて調査に行った時だな」
徐々に、二人の顔が険しくなっている。過去にこの日の話を聞いた時も毎回この辺りで影が落ち始めた。親しい友人や部下が死んだとなると、流石に今でも苦いものがあるのだろう。
「それでこの話が終わりじゃないのは、お前も知っての通りだ。帰る途中、段々ロージの様子がおかしくなってきてな」
「手を引っ掻かれたのを隠しとったんやな」
かすり傷一つから仲間に取り込まれる、この地に蔓延る死者の病の恐ろしい側面。ここの兵士の殆どがそれを仲間の命でもって学んだ。その結果が死者の駆除の『外部委託』になる。
「一人で歩かれへんし、傷口に巻いた包帯はあり得んぐらい黒くなるし、顔色も悪い、瞳孔は開きっぱなし、せん妄も出てきとる。そんでも、なんぼもう助からん言われても、見捨てる訳にもいかんしな。とりあえずここの医務室で診ようとなって」
一階の医務室。アイゼンの仕事場である部屋だ。
「寝台に乗せて、一応手足も括り付けてな。その途中であいつは一瞬意識を取り戻して、『もし俺が狂ってしまったら殺してくれ』と言うとった。もう無理と、覚悟した。詰所に来てた関係無い街の連中も三、四人集まって皆で見守っとった」
ラゼルはため息混じりに、かつ流れるように思い出を掘り起こす。
ラゼルの机に鎮座している録音石のような『記録』は、再生する度に擦り切れて劣化してゆく。しかし人の『記憶』はそれとは反対に、思い出す度により強固なものになって頭に残るようになるという。
「体温がどんどん下がるから毛布をかけて、呼吸も荒くなって痙攣も出てきたから鎮静剤の皮下注射も試した。そういう状態が二十分ぐらい続いたかな。急に呼吸が止まった。そんで、俺の助手が脈を確認しに行った」
二人とも当時の光景を、つい昨日見てきたかのようによく喋る。長い年月の間にあった苦悩と諦念の度に再生されたであろう記憶を。
「変な話やけど、それで『大人しく死んでくれた』のをその場の全員が期待しよったんやろうな」
たとえそう思っても、決して口に出せるまい。仮に自分がその場に居たら同じことを考えたに違いない。
「そんな甘い話は無かった。ロージが目を覚ました。助手さんがパッと退いて、俺が銃を構えた。そこまでは良かった。起き上がったロージは一瞬で自分の手首足首の肉ごと拘束を引きちぎって助手さんに飛び付いた。慌てて撃とうとしても、揉み合っとるもんだから躊躇してしまった。そしたら、その間にどんどん食われていく」
自虐的な声から溢れてくるのは、一抹の後悔。
「引き金を引いてももう遅かった。普通の弾は効かんし、ぴょんぴょん飛び回って、暴れ回って。医務室ん中はぐちゃぐちゃだ」
稀に遭遇すると聞く、異常に身体能力の高い死者。広い湿原や森の中ならともかく、狭い屋内での対処はこの上なく難しいだろう。
「その後すぐ俺にも飛びかかって来て取っ組み合いになった。死ぬと思ったその時、別の部屋で保護しとったライカが入ってくるなり、持ってた銃でロージを撃った。当時のあの子からするとまぐれ当たりかもしれんが、綺麗に胴体に入って止まっとった」
騒動を鎮めたのは、当時僅か十二歳のライカだった。そしてあの家から共に逃げてきたライフルを、今も愛用しているのだと言う。
「そしたらすぐ、さっきまでの力が嘘やったみたいに抜けていって、死にかけの虫みたいに仰向けになって動かんくなった」
この病に関して、あらゆる反応が異常に早いという事が分かっている。ライカの弾丸はこれを利用した退治法であると説明を受けた事がある。
「そこで一旦状況は落ち着いたけど、次は助手さんが起きた。こっちの動きは遅いなと思ってたら、それもあの子はためらい無く撃ったんだ」
以上がその日起こった事の顛末。後は、銃声を聞きつけて来た住民らの混乱を抑えたり、抑えられなかったり。
「そう言う訳で、そこからメーアバウムは潰れて、俺らへの信用もガタ落ちや。当時のボスなんか中央に呼び戻されたっきりとうとう帰って来おへんかったし、こいつは嫁に逃げられて、俺はヤブ医者呼ばわり」
「あの頃のボス。お前さんは見たことない筈だが、事あるごとにカールさんと喧嘩しとったからな。そのせいか他の隊員も歩く死体の特徴やら対処法なんかは、ろくすっぽ聞いた事無かった。それも良くなかったんだろうなあ」
「住民が感染した時の対処法とか、聞いた事無かったんですね」
「せやな。俺らが来るよりもっと前にはちょくちょく被害者は出とったらしいけど、あの家のもんに連れて行かれて、後で『動かん死体』になって帰ってきたらしい」
死体の取り扱いに関して、政府側の人間である兵士らにも伝えない。これは、あの家が独自の自治権を維持し続けたことによって起こった状況といえる。
「情報が無いんなら仕方無かったじゃないですか。誰が悪いって訳でも無いと思うんですけど」
「そんなもんお前、誰が悪いかと言われたら、間違いなく俺ら二人の落ち度や。片や医学者、片やその時の現場責任者やぞ」
「世知辛いですね」
「その程度の失敗一回だけで、どうしようもなく転げ落ちる奴なんか、世の中ようけおる。人死なせといて、俺らはまだ上手くやらせて貰っとる方やで」
「こんなもんかな。あの時の話は」
もう打ち止めだと、ラゼルが昔話を締める。案の定これといった新しい情報は得られなかったが、責任者三人で集まっての再確認が出来ただけでも良しとするべきなのだろうか。
「他に、後々分かってきた事とか。何でも良いんでありませんか」
フィードが言うと、二人が顔を見合わせて考え込む。何でもいいから喋って欲しい。縋り付くような気分だ。
唸って悩むラゼルが、どうにかこうにか言葉を捻り出してくれる。
「医務室での一件。助手さんは普通の死者だったが、ロージの方は明らかにおかしな筋力だったよな。それまでの動く死者への印象は、『のろまで、銃さえあればとりあえずの制圧は出来るもの』でしか無かった。しかし、あれは何と言うか、人の形した獣のような……」
「この事も前に話したし、それ以上の事は何も分かって無いけど、まあもう一回言うとくか」
ラゼルの言を受け、アイゼンもまた覚えている事を話す。
「俺が直接見た事例そのものが少ないから何とも言えんけど、仮説としては」
前置きを置き、少し考えて、話し始める。
「そのなんらかの病原体だか『魔法』だか分からんが、それが身体に入ってから死ぬまでの時間が長ければ長い程、より大きい変異に見舞われるんかもしれへんなあと」
あくまで仮説やで、とアイゼンがもう一度念を押す。
「あいつらの体組織とか血液を取ってきて調べようとしても、すぐ劣化が始まるんや。まるでそれ自体が、自分を食い潰すようにな」
ここの医務室の貧弱な設備では研究が進まない理由だ。同様にあの家を出たライカも、歩く死者の研究自体はさほど進展させていないとフィードは予測している。
「せやから、なんも分からん。あれの研究をしようと思ったら、新鮮な検体。つまり獲れたての死体が要る。そんなもんを扱ってた形跡があの家にあったかと言うと」
「無いな。人目に付きにくい地下室なんかも見つからんかった」
ラゼルが口を挟む。あの家にはそれが出来る『研究施設』すら無かった。
「そういう訳で、どっかに、あの家の連中が内緒で使うてた研究室みたいなもんがありそうって話も昔したよな」
情報を書き留め、少しずつ頭の中を整理してゆく。
「百年ほど前から始まった入植で、メーアバウムの祖先がこの土地へ真の意味で何をしに来たのか、その記録はもう中央にも残っていない。本当に調べていたのは何か。怪物が何者なのか。それから、カール・メーアバウムがこの町に火葬を頑なに持ち込まなかった理由は何なのか。まだ、分からない事が多過ぎる」
町に残る謎は、あの家が事実上滅んだ今でも多い。一つ一つ、フィードは再確認してゆく。それを聞きながら腕を組んでいたアイゼンが口を開く。
「さっき俺も嬢ちゃんと話して探ってみたけど、もうあの子から直接探るんはやめた方がええんちゃうかと思っとるんや」
夕方過ぎにフィードとすれ違ったライカはここにも立ち寄ったのか。そして、アイゼンと何かを話したようだ。
「あの家が積み重ねた研究資料が全く欲しくないかと言われれば嘘になる。そら勿論、今現在おる町の人らを助けるためであるし、俺自身の箔の付け直しにも使えるかもしれん」
失った名声や信頼への未練が残らないとは言わない。
「でも、今その研究結果を持ってるであろう当の本人が差し出すのを嫌がっとる。じゃあそれを無理矢理引き摺り出すのはいち研究者として、大人としてどうなんか、っちゅう話や」
他人の生活ために私財を投げうつのを強要する。それは確かに理が通らない。
「やるんなら、ちゃんと中央政府の偉いさんが金と人を出して、ここにちゃんとした研究施設を建てて、あの家の研究に追いつく事やな」
アイゼンの提案はあまりにも非現実的で、三人の間には妙な笑いが起こる。そしてもう一つアイゼンは付け加える。
「大体、若い女の子が頑張ってんのを邪魔したいおっさんなんかおらへんて」
してやったぞ、と言わんばかりの良い笑顔を他二人に向けた。
「うわあ」
「最悪」
フィードとラゼルは揃って声を上げて笑ってしまう。
「なんやお前ら」
「なんでもないです」
不服そうにむくれるアイゼンを適当に宥める。こういう言動を自然とやってしまうのは年寄りたる所以であると、喉元まで出掛かった。
「そう考えれば、お前があの子を『落として』双方合意の上で穏便に、ポーレに嫁さんと知識を持って帰るのが一番だな」
ラゼルもまた、心を逆撫でするような言葉を吐く。落とす、と表現されるのは不本意だが、フィードがこれからやろうとしている事は全くもってその通りの事だからぐうの音も出ない。
「まあ、やれるだけやってみますよ。遅れに遅れたけど、今日はやっと出発点に立てた気がします」
フィードはラゼルに向け頷く。
「じゃあ、頑張ります」
一つ、決意を込める。
「おう、応援しとるぞ」
「若いってええなぁ」
若者の青臭い想いに、中年二人はそれぞれ勝手な言葉を吐く。そんな会話も、不思議と心地良かった。
ここで、酔いが完全に醒めたアイゼンが席を立つ。それに合わせ、ラゼルもタバコを灰皿に押し付けた。
「ほな、俺もう寝るで」
「俺も」
「僕はまだやる事が」
「バカタレ、早よ寝んかい。明日は早いぞ」
軽くアイゼンにどやされ、フィードは頭を搔く。そして、扉を開けて出て行く二人を追おうと手帳を閉じた。
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