九
暖炉の炎が暗闇を照らす。薪の上ではフックで吊るされた鍋が温められており、薄灯の中に聳えるのは無数の本棚と実験器具や工具の類。本棚に映る人影は、白いドレスと長い髪による緩い曲線を描いてゆらめいている。
「痛っ……」
椅子に座った部屋の主が呟き、自身の左腕から注射針をゆっくりと引き抜く。露わになった白い肌にはいくつか、古くなった注射痕が残る。産まれてこの方何度も刺した針だが、未だ痛みに慣れる事は無い。
上腕から駆血帯を取り外し、ガーゼで傷を圧迫しつつ、シリンジに溜まった血液を眺める。炎に照らされて黒く光るそれは、紛れもない彼女の命の徴。たった一人でこの世界と戦うための最後の拠り所。
机の上に散らかるものは端に寄せた。次はこの血を弾丸に詰めなければならない。
傷を抑えられている左手で、次の工程の道具を用意する。
昼の間にもう機材を使って薬莢に火薬を詰め、弾頭を捻じ込んである。弾丸は二十個程、既製品を使い切った空き箱に並べてあり、その特徴的な頭が全てこちらを向く。
圧迫をやめて自由になった手でシリンジを取り、指先で弾いて中の気泡を消してやる。
弾頭に針を近づけて、漏斗状の先端から更に奥の空洞に血液を垂らす。もたもたしていると凝固が始まる。それを防ぐため、別のシリンジも取り出してヒルの体液から作られた溶剤も一緒に落としてやる。
菓子でも作るように、一つ一つ丁寧に液体を注ぐ。やがて、二つのシリンジにわずかな血と溶剤を残しながら、それら全てが充填された。
次に、ミトンをはめて、暖炉で温めていた鍋を外しに行く。中身は溶かした錫だ。デタラメばかりで読む価値のなかった本を鍋敷代わりに、鍋を机の上に置く。
箱から取り出した弾を左手に持った木ばさみで固定し、右手では細い棒を器用に操って先端に錫の膜を作る。この封をする作業が一番神経と時間を使うのだが、不思議な面白さがある。
しばらくして弾を作り終える。今度は壁に立て掛けていたいつものライフルを持ってきて、机に置く。
布を着けたロッドを銃口から押し込み、施条に沿って回しながら往復させ、火薬や鉛などの残滓を取り除く。
前回の使用直後にも拭いてはいるがその後に溜まった埃なども射撃の邪魔になるため、重要な作業だ。
ロッドを置いて次に側面、引き金横に頭が見えるピンを抜いてカバーを外し、機構部を露出させる。
ここも銃身と同様に、油を塗った布を指先を使って拭き上げる。古い銃ではあるが手入れを怠って壊す訳にはいかない。この僻地では替えの部品を調達するのにも一苦労する。
レバーを上下に動かすと、給弾機構が生物のような柔らかさで連動する。それを確認した後で蓋を組み直し、全体を拭いて仕上げる。
ウォルナットのグリップが気品ある光沢を湛えている。父が愛用していたこの銃は精密射撃には向いていないし、最近の強い弾丸もあまり使えない。ライカがこんな時代遅れの収集品のようなものを使う理由は、何も金が無いからであったり、家の伝統や思い出を守るためだけでは無い。
一つはその動作の軽快さと信頼性。
この銃はやや複雑な機構を備えてはいるが重量が軽く、細いライカの腕でも十分に取り回せる。また長時間の連発にもある程度耐え、かつての南方の砂漠地帯における戦争での実績もある。
二つ目は死体狩りに使う弾丸。
攻撃対象に撃ち込まれたそれは、空気や肉の抵抗によって封が割れた後に変形し、中の血を撒く。
このように弾の形が歪になる分、今作っているもの以上の口径になると空気抵抗のために命中精度の悪さが無視出来なくなるし、貫通力が上がってしまっては意味がない。
また、弾の先端を尖らせないため、銃身下部の縦に詰め込む筒状弾倉の形にも合っている。
山岳の国境線や高原など、広く遠い場所で撃ち合うための軍用ライフルとは設計思想から違う。岩山だらけの荒野だけでなく足場も視界も悪い森や湿原、更に冬には湿った重たい雪で覆われる雪原でも戦えるよう調整された一品だ。
窓を開けているはずの部屋が鉄と油の臭いで満たされている。しかし不快感はない。どんな薬草の香りよりも落ち着く、兄や父が時折纏っていたあの匂いだ。
続いて必要な物を吟味する。現時点でも子供らは丸一日と少し家を離れているため、空腹や喉の渇きによる衰弱が予想される。水筒の他、麦と砂糖を固めたクッキーのような保存食料が余分に要る。それについては、以前に町の店で買ってきたものを紙包に仕舞い込んである。
それから当然、蒸留水と消毒用のアルコールとガーゼ、包帯、鋏、針と糸の入った小箱。
部屋の隅の木箱から、昔の家から持ってきたオイルランタンを引っ張り出す。恐らく、あの怪物が潜む場所へ飛び込むのにこれも必要だ。それと着火用のマッチ箱も要る。肝心の燃料は朝一番で兵士達へもらいに行く事にする。
最後に壁に立て掛けた水平二連散弾銃と、その弾を取る。
中折れ式の銃身は切り詰められ、狭い範囲での交戦に特化した形に手を加えてある。
普段使っているレバーアクションライフルは特殊な弾のおかげで動体を止める力はそれなりにあるが、あくまで『人の形をした死体』を止めるために使っているものだ。重さや動作は軽い分、獣や例の怪物など、質量や速度を持った敵には対応し切れないだろう。
もちろん、普通の散弾を使うので頭や下肢のどこかを吹き飛ばすでもしない限りは相手を無力化する事は出来ない。物理的な運動量に任せたその場凌ぎにしかならないが、一瞬が生死を分ける世界ならばそれで十分にとどめを刺す時間が稼げる。
軍用背嚢に食料、医療品、弾その他を放り込む。ランタンをストラップで吊り下げ、最後に散弾銃をグリップ側が飛び出る状態で差し込んで口を閉じて紐を縛る。
準備を終えて一息つく。抜いた血は僅かだが、それでも指先が冷たい。疲労のせいもあるのか、足元がふらついて瞼が重い。今夜は酒をやめて水を飲み、早めに眠ってしまった方がいい。
しかし、寝る前にまだ後一つ、ある男に話を聞きに行かないといけない。
今日はもうこれ以上何かをするのがいい加減嫌になってきた。だが彼と話さない事には先には進めない。
明日へ向けてやるべき事を一つ一つ終える度、目を背けていた現実が近寄ってくる気がする。
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