民家を出たライカは、暗がりの歩道を歩いていた。

 すっかり日が暮れた。町の家並みはみな灯りをつけて、家族は夜の安寧の中で食卓や炎を囲んで憩っている。そこかしこから、焼いた魚や炭、タバコなど、生活の匂いがする。

 その集落の中心地点には、あの詰所がある。もう何度目かも分からない訪問だが、良い思い出などある訳が無い。

 民家の窓から漏れる光を借りて懐中時計を見ると、午後六時を過ぎている。少しのんびりし過ぎたかもしれない。

 ゆっくりと扉を開け、普段通りにカウンターへ顔を出すといつもそこに居る小太り男が、やる気のない顔で座っていた。詰襟は閉じ切れず、代わりに毛織の外套とブランケットを肩から被っている。

「話は聞いてる。アイラとハリーなら外回りに出たけど、代わりにラゼルの爺さんが上に居ると思うよ」

 ぶっきらぼうな報告。彼とは先日の仕事以来の再会だが、相も変わらずの様子にライカはむしろ安心する。

 どうも、と適当に返して階段を目指す。すると、無遠慮に後ろから喋りかけられる。

「俺らの仕事の邪魔はするなよ」

 この余計な一言で、今日もこの建物に来てやったぞという冷めた感慨のような何かがこみ上げる。

「邪魔する程の仕事がここにあるの?」

 訪れるライカに毎回毒づいてはこうして手酷く切り返されるというのに、よくもまあ懲りないものだ。

 男が不貞腐れたように鼻を鳴らす。それを無視して、年季の入った木製の階段を登る。踏み板が不安な程軋む。こんな頼りない板がフィードの巨躯を日々支えていると思うと、少し笑えてくる。

 二階に上がってすぐの兵員たちの事務室の扉を開くと、薪ストーブの暖気、それから埃と汗、タバコの臭いが鼻をついた。小さく音楽が聴こえる。部屋のどこかで録音水晶を乗せた機械が鳴っているようだ。

 今は殆ど出払っているが兵たち一人一人の席が設けられており、そのどれもが資料や私物で山を作っている。

 黒板には巡回番や物資の搬入予定、住民の誰かの探し物についてなどが所狭しと書き込まれている。特に大きいものは、行方不明の子供たちについて。

 眉を僅かに潜めて、ライカは奥に座る部屋の主に挨拶をする。

「お邪魔します」

「邪魔するんなら帰りな」

 間髪入れず返ってくるのは、酒に焼けた乱暴な声。部屋の奥で煙に隠れ、資料の山と古ぼけたガラクタ類を乗せた机の向こうに男が座っている。

 歳は五十半ば。長い胴と短い脚。薄い白髪と乱雑に生えた髭。皮膚の弛んだ顔で笑うのはこの詰所の長、ラゼルだ。彼は既製品の紙巻きタバコを大きく吸い、灰皿に擦り付ける。今日はタバコを吸う大人によく会う日だ。

「怪物の居場所はおおよそ見当は付いたので、私は別に構いませんが」

 ラゼルの言葉が下らない冗談であるのは分かっているし、本当は例の怪物の居場所など殆ど知らないに等しいが、一応釘は刺しておく。舐められて情報を出し渋られては困る。

 老人は、手にした薄い大判の本から目を上げてこちらを見ている。本は都会の出版社が発行する雑誌だ。月一回来るか来ないかの商人隊から購入するそれは、兵員たちに読み込まれ過ぎて表紙が擦り切れている。

「だったら座りな」

 ラゼルは開き癖の付いた雑誌を机に伏せ置いて、ライカへ向けて手招きする。

「妙な騒ぎになったな」

 寄って行くと彼は音楽を止めて座り直し、無精髭を撫でながら困ったように話を始める。

「子供達についての話は先に聞いてきました。今朝の段階で、誰かの親なんかが通報してたりしなかったんですか?」

 ライカはそれに応える。ある程度の情報収集は済ませてきたので、ここで確認すべき情報は少なくなれば有難い。

「一階のネイトが朝方、どっかの親御さんからの通報を受けていたらしくてな。だがいつもの不良少年らのつまらん遊びだと思って、放ったらかしとったらしい」

 先程も階下の受付で見た、小太りの男の顔が浮かぶ。どうやら勤務態度以前に、その能力すら怪しいらしい。

「もうあいつクビにした方が良いですよ。態度悪いし」

 ここへ来た時に気軽に言葉で殴れる相手が居なくなるのは惜しいが、実害のある無能は目の付く場所には居ない方がいい。

「あれでも中央の良いとこのボンだから、そう簡単にはいかん。うちに居るのはそんなんばっかりだ。上も下もな」

 そう言い捨てたラゼルが歯をむき出しにして笑う。その声色には臆面無い自虐も混じる。

 このご時世だ。田舎の兵舎は中央での出世の道から外れた金持ちの倅の吹き溜まりになりやすい。

 あのネイトとか言う男も今後変わらずこの僻地で過ごし、老いて、死んでゆく人生を送るのだろう。

「さて、化け物の話だな。お前さんさっき見当が付いていると言ったが、そりゃどこだい」

「言えません」

 ライカはきっぱりと言い切る。知っていると言えば知っているし、知らないと言えば知らない。もちろん、それを言うつもりも無い。

 それを聞いたラゼルが頭を掻いてため息をつく。

「また『家の秘密』ってやつか」

「ええ」

「そう頑固になられるとなあ、こっちの仕事が進まんのよ」

 ライカ自身ではただ自分の思う道理を通しているだけのつもりだが、やはり他人からは頭が硬いなどと映るらしい。

「知識は財産って奴です。私の家から地位を取り上げておいて、これ以上何を持っていくつもりですか」

 自治領としてメーアバウムが持っていたこの土地をなし崩し的に奪ったのは、曲がりなりにも彼ら中央からの派出兵達だ。

 しかし流石に少々気を悪くしたのか、ラゼルはやや語気を強くして反論して来る。

「人聞きの悪い事を言うな。あの家からカールさんもヴィクセンの坊主も居なくなって、誰がこの土地を管理出来たんだ」

「だったら私の知識はもう、あの家と一緒に失われたものだと思って諦めて下さい」

 彼らが欲しいのは、以前の地権者たるメーアバウムが持っていたこの土地特有の現象への対処法。領民を守るという大義名分がある上に、家などもう失ったライカには過ぎたものだと自分でも分かっている。それでも、これを手放すのは気に食わないのだ。

 少し間が空いて、老人は腕を組む。

「全く、誰に似たんかねえ」

 破顔し、懐かしむようにライカを眺めてくる。

 父と重ねられるのはもっともだろう。一度決めたら譲らないライカの姿勢は、幼い頃に見ていた父の影響が大きい。そうある事でしか守れない誇りが、この世界には多過ぎる。

 一息付き、まずはラゼルが本題を切り出した。机から物を除けて、地図を広げる。変色し、文字は掠れているが問題無く使えそうだ。

「昨日ガキ共が最初に怪物を見たと言って来たのは、昔のお前さんの家よりもちょい東、山の麓寄りの森だな」

 指で位置を示す。この地域の地図はあまり重要視されておらず、詳細な測量は行われていない。そのため高さなど複雑な地形は読み取れないが、それでもおおまかな座標は分かるようになっている。

「その時の怪物の姿形とか、様子とかについて、何か聞いていますか?」

「ああ。曰く、全身毛むくじゃらで、デカい爪が生えとったそうだ。そんで何をするでもなく突っ立っとったらしい」

「なるほど」

 特徴だけ聞けば、あの時の怪物の可能性は高そうだ。

「昨日この辺りへ向かわせたアイラとハリーも、遠目にそれらしき影を見たんだと」

「下手に手を出してなくて良かった」

 普通の銃弾では、普通の死者すらまともに殺せない。また、間抜けに声を上げて逃げ惑っても末路は変わらない。思いの外、兵士達は自分で考えて正しく動いているようだ。

「ああ。あの二人も七年前の事件の頃にはもう居たからな。魔法が絡んだ化け物の怖さはよう知っとる」

「その兵士二人も、今は子供の捜索に行っているんですか?」

「現状はあいつらが一番手掛かりを持っとるからな。こっちで遊ばせとく事もないだろ。明日の探索にでも合流すると良い」

 必要な情報をこの場で直接確認出来なかったのは面倒だが、事情を考えれば仕方が無い。目の前の老人の伝達能力に期待する他ない。

「この辺りの森は広いぞ。湖の近くだったらまだマシだったんだが、山の方となったら目印も無いし、二次遭難に繋がりかねん」

 湿原や森など、水に潤ったこの土地には豊かな自然がある。その上、暗く深い山沿いの森の中には古代人らの生活の跡も少なからず見られる。

 そんな遺構の一部、例えばそこかしこから伸びる地下坑道。入り口のほとんどはライカの祖父の代で埋められてはいるが、一部は閉鎖しただけの状態で残っているという。何らかの理由でそこへ迷い込めば、生きて出られるかは分からない。

「ここの人員だけでの捜索は到底無理でしょうね」

「ああ。しかも参った事に、昨日の雨のせいで犬の鼻も効かん。だから正直、お前さんが手伝ってくれるだけでも有り難い」

「私がやるのは怪物の処理だけで、子供の捜索を手伝う訳では……」

 ラゼルに対し、浅い付き合いでは穏やかな好々爺といった印象を持ちかねない。しかしその実態は他人に無理矢理仕事を押し付ける、厄介で気が利かない中年だ。今も既に、彼の頭の中ではライカを頭数に含めた予定が回っているのだろう。それ故に今の発言を理解出来なかった、と言わんばかりに怪訝な表情をしている。

「まあ良いです。お金出してくれるんなら」

 多少の逡巡はあったものの、ライカは渋々引き受ける。彼の良いところといえばその面倒見と、金払いの良さだ。

 フィード曰く、それのせいで中央から回される予算を勝手に使われていると言うのだから本当にどうしようもない爺さんではあるが、それは彼女の知った事ではない。

「とりあえず、もしそちらが子供達でなく『怪物』の方を見つけたら刺激せず、静かに逃げて下さい。後で目撃地点を聞いて、出没範囲を絞っていきます」

「おう、後で改めて全員に伝えよう」


 その他、黒板も使って捜索範囲や集合地点、日程などを固めていく。先にラゼルが言及した通り、何よりも避けるべきは二次災害だ。余計な厄介事に巻き込まれる前に、詰められる部分は詰めておきたい。

 二人で地図と黒板を見てあれこれと話し合っていると、静かに部屋の入り口の扉が開いた。冷たい外気と、篭った臭気が僅かに入れ替わるのを感じる。

 現れたのは白衣を着た痩躯の男性。入ってくるなり、足早にラゼルの机に歩み寄ってその頭を軽くひっぱたく。

「アホかお前。ヤニ吸う時は窓開けて吸え、て何遍も言うとるやろが」

「おお、すまんすまん」

 叩かれた頭を撫で、ラゼルは笑って謝罪する。そこに反省の色は無い。

「ほんでストーブも付けとんか、空気が籠ってしもうとる」

「外寒いんだから良いだろうよ」

「医者の言う事は聞かんかい。聞かんと死ぬぞ」

 男性は早口で捲し立てながら窓を押し上げる。線の細い丸眼鏡の向こうでは、理性的な瞳が光っている。

 中央から寄越されて父の代から二十数年、この詰所に勤務しているアイゼン医師だ。

「アイゼン先生、お疲れ様です」

「おう、いつもご苦労さん。やっぱり自分も来とったんか」

 歳はラゼルとおおよそ同じく五十後半。今日は着古した白衣の他、アタッシュケースを持っている。頭髪は短く刈って整えられ、両肩には眼鏡に繋がった紐が下げられている。細い体と独特のきつい訛りは、彼が大陸南方の沿岸出身であることを物語る。

「その様子だと、訪問診療でしたか」

「ウチの顧客情報や。他人にはよう言えへんわ」

「でしょうね」

 同業者とも言える存在であり昔から多少の親交や情報共有はあれど、基本的には『競合相手』だ。

 そんな相手の職業倫理を改めて確認した後で、二人の会話が始まる。

「自分も、子供ら探しに行くんか?」

「まあ、成り行きで」

「ええんちゃうか。別に褒められる事はあっても、怒られる事でもあらへんやろ」

「嫌われていますからね、お互い」

「そらしゃーない。税金持っていく奴らが好きな人間がおったらその方が怖いわ」

 腐っても支配者の側に居るアイゼンと、支配者の側に居たライカ。今は殆ど慈善事業のような仕事をしている分、ライカの方がまだ民衆からの評判は良い。しかしこの閉鎖的な土地において、所詮は他所者である兵士達へ向けられる感情は苦いものだろう。

「そんなんどうでもええんやったわ。ちょっと、こっちでも自分に聞きたい事あるんやけどええかな」

「構いませんが」

 ここで二人だけの話し合いになると踏んだラゼルは頃合いと判断したようで、退席の意思を示す。

「そんじゃ、俺が共有すべき事はこんなもんだろ。そろそろうちの馬鹿共が町に帰って来てる頃だろうから、迎えに行ってくる」

 短い掛け声と共に腰を上げる。

 兵士の身で書類仕事が多いために一時期は足腰を悪くしていたそうだが、歩き方を見るに今はある程度改善しているようだ。

「ありがとうございました。私が捜索に合流するのは、一旦帰って『弾』を作ってからなので、明日の朝になると思います。くれぐれも、夜間の捜索はしないようにして下さい」

「言われんでも問題無い。うちでそこまでやれる度胸があるのはフィードぐらいだからな」

「じゃあフィードにはきつく言っておいて下さい」

「それまでにガキ共が勝手に帰ってくるのが一番良いんだがなあ」

 ぼやきながら、ラゼルがのしのしと歩いてゆく。姿勢は良いが、腰を悪くする程の体重が古い建屋の床を軋ませる。

 事務室には二人だけになった。アイゼンの机は、ここでは無い別室にある。彼は適当な椅子に腰掛け、アタッシュケースを開く。丁寧に並べられた診察器具と、紐で閉じられた厚紙の封筒が顔を出す。

 留め具に括られた紐を外しながら、アイゼンは話す。

「最近、お前さんが処方した得体の知れん薬草を飲んでる患者も多いんよ。そのせいで、こっちで別の薬出してええのか分からん場合があるんやわ」

 責めるような口調ではない。ただ伝えたい事を伝えてくるだけの事務的なものだ。

 確かに、ライカが独学で得て好んで使うのは東方由来の薬草医療だ。それらはポーレやメイディオスの化学や手術を中心としたものとは異なる体系から成る。無論、その実績は確かなものだ。

「都会で開発された高い錠剤や飲み薬なんかは買えない年寄りばっかりだから、仕方ないんですよ。でもまあ、その辺りの服用もアイゼン先生と擦り合わせないと駄目かもしれませんね」

 癌患者などは特に体力が落ち、別の病気や強い副作用を併発する可能性が高い。それは、知識以上に経験で判断する他ない事もある。

「まあその薬で良くなっとる人らの方が多いのも事実や。せやから別に患者を診るなとはよう言わん。ただ、俺の邪魔にならんようにやってくれ」

「そうは言っても、アイゼン先生の治療が高いせいで、皆が勝手に私のところに来るんですよ」

「高いのはそらそうやがな。知識は宝や、安売りしてどないすんねん。ほんでそこはお前も人の事言われへんやろ」

 それを言われる何も言えない。彼にとっても、ライカの持つ知識は喉から手が出るほど欲しいものだろう。それが住民のためか、出世のためかは知らないが。

「自分もちゃんとした所で勉強して、箔付けて来たら誰にも文句言われんと金取れるようになるで。その歳やったらまだまだ行けるし、実地経験もそこそこある」

 やたらと金の話をする人間ではあるが、がめつさと言うよりは契約の履行を重視する中央の知的階級らしい態度だ。これが気に入らないからアイゼンを避けてライカの元へ治療を受けに来る、という者も少なからず居る。

「ポーレの学校やったら推薦状ぐらいは書いたるで。金は出せへんけど」

 都会への進学は、願ってもない事ではある。しかし。

「いえ。まだ私には、ここでやるべき事があります」

 父がやり残した事でもない。彼女自身が、そうするべきだと思った事がまだ残っている。

「墓守の仕事か」

「それもあります」

「ほな家族の仇討ちか」

 一瞬、返答が止まる。やりたくない仕事、もう擦り切れつつある過去、蓄えた知識、色々な言葉がライカの頭を去来する。

「はい。もう諦めかけてたけど、ようやく尻尾が見えた。やっと手が届きそうなんです」

「そのために、嫌々死体を殺して手掛かり集めて、ほんで経験も積んでと色々やっとったんか」

「ええ。だから、あの怪物を殺すのは私の仕事なんです」

「自分もホンマ、難儀な性格しとるな。融通効かんというか、我儘というか」

 そう言ってアイゼンは笑う。どこか懐かしむように。


「そうそう。この際やからな、怪物の事でも一個聞きたいことがある」

 いい加減、今日話すべき事はもう無いと思っていたが、アイゼンにとってはそうでなかったようだ。

「なんですか」

 まだあるのかと、ライカはうんざりしたような態度を隠さない。そして相手の顔を見て、落胆を捨てて集中し直す。

「俺はその怪物をまじまじと見れた訳やないが、あの事件の現場には気になる事が二つあった」

 先程までの比較的緩い世間話の声では無い。今のアイゼンは、相手の嘘を探って詰める、尋問官としての目をしている。

「一つはなんぼデカい化けもんや言うても、あのまあまあ広い家ん中で、逃げる間も無く五人も殺せたんかっちゅう事や」

 沈黙するライカ。ここは、下手に喋ってはいけない盤面だと直感する。

「ほんでもう一つ。あのメイドの子、レイオちゃんか。あの子の死体な、綺麗に腑分けされとったやろ」

 思考が止まりかけ、それでも平静を装う全身の脈拍が早くなる。途端に、雷雨に瞬く光のように、あの日の光景がはっきりと思い浮かんでしまった。

「そらメスでスパッと切った訳やないけども、腹割って膜剥がして、内臓まで外されとったんや」

 アイゼンはあくまでも淡々と、あの惨劇の現場を語る。あの時の怪物はレイオを必要以上にいたぶって殺した。当時の彼女には理解出来る訳も無い行動だった。しかし今思えば、あれは隠れたライカとミオを誘き出すために父の生前の知性が発揮されたものかも知れない。

 続けてアイゼンが、目を細めて問いかける。こちらの動揺を観察するかのように。

「お前。その化けもんが誰やったんか、知っとるんと違うんか?」

 一拍置いて、ライカは答える。

「知りません」

 自分でも驚く程なめらかにしらを切った。

 そしてアイゼンの反応を待つ。何かを考えるような時間が過ぎ、体の内の興奮が徐々に冷めてゆく。

「……そうか、分かった」

 向こうも何かを考え込み、ひとりで頷いている。

 そしてそこからは、過去を突っつき回すような重い空気は掻き消える。

「ほんなら最後にするけども。自分、もうそろそろちゃんとウチに入って働かんか?」

 アイゼンの声色が元に戻る。いつも通りの、穏やかながら圧力のある話し口だ。

 それにしても次から次へと、後出しで話題を引っ張り出してくる。これはこれで、ライカにとっては嫌な大人の話し方だ。

「私は今のままが丁度良いんです。兵士とか役人とか、柄じゃない」

「せやからって何でもかんでも自分でやろうとせんでええやろ。墓守やって、医者もやって、バケモン狩りもやって。それで体壊しても知らんで」

「大丈夫ですよ。どの仕事も頻繁に入ってくるものでもないし、使う知識は変わらない。生きている人の体を扱うか、死んでいる人の体を扱うか。違いはそれだけ」

「そういうもんか」

「そういうもんです」

「ほな、もう何も言わん。精々死なんようにな」

 彼の忠告に、ライカは黙って頷く。こういう他人から向けられる気遣いは、どうにもむず痒くなっていけない。

 ここでやるべき事は全てやった。もうこれ以上は長居しても仕方がない。小さく頭を下げて、去り際の挨拶をする。

「では、失礼します」

 顔を上げると、書類の山の向こうでひらひらと振られる手が見えた。

 扉を開け、階段を降りる。下の気温は一層低そうだ。先程よりも更に着膨れしたネイトが受付の奥でストーブに当たって丸くなっているのが見える。

 ライカにもいい加減、考えるべき時が来たのかも知れない。今後の、身の振り方についてを。

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