靄がかった意識の外で鳥が鳴く。朝日が瞼の裏の血管を透かしている。

 ゆっくりと目を開く。いつものように、天蓋から垂れた白いカーテンが視界に映った。

 大きく息を吸い、伸びをする。全身が感覚を取り戻す。上体だけを起こし、目を擦る。先程まで見ていた幸福な夢の記憶を手繰り寄せようと、ぼやけた頭が緩やかに回り始める。

 目を覚ますと丁度、部屋の扉が二度ノックされる。乾いた甲高い音が、頭に染み渡った。

「お嬢様、お時間ですよ」

 扉の向こうから、少女がこちらを呼ぶ明朗な声がした。

 羽毛がたっぷり詰め込まれた布団から体を滑らせる。絹織りのドレスは引っかかる事無くするりと抜け出すことが出来た。

カーテンをくぐる。緩くまどろみを包む純白の世界から、黒い木材や書物の直線が彩る現実へと躍り出る。この頃にはもう、見ていた夢など忘れてしまっている。

幼いライカにとってはおおむねいつもと変わらない朝。いつもと違う点は、今日も父が居ない事。三日前の早朝に死者狩りへ出た父は屋敷に帰らず、そのまま今に至る。

 ノブを回し、ゆっくりと押し開く。そこには癖のある髪を肩上で切り揃えた、白い給仕服の少女が立っていた。

「おはようございます。お嬢様」

「おはよう、レイオ」

 鈴を鳴らすような声と屈託無い笑顔に対し、ライカは無理矢理作った微笑みを返す。

 扉を叩いていたのは、レイオという名の使用人。ライカよりも二つ年上で、姉のミオと共にこの館で働いてくれている。

 姉に比べて明るく人懐こいレイオは、今日も嫌味のない眼差しをこちらに向ける。今のライカの気分からすれば、少々眩しい程だ。

「朝食の準備、出来てます」

「うん。もう行くよ」

 答えて扉を開け放つ。漆喰のアーチを用いた古めかしいシラシア様式の廊下が左に伸びる。

 ライカの部屋の右隣には応接室。それから正面には建物中央に位置する階段があり、玄関ホールへ延びる。その階段を挟んだ向かいが食堂になっている。

 目を伏せたライカはいつも以上に言葉が少ない。レイオが、その小さな右手を取って握りしめる。そして僅かにかがんで目線を合わせ、言い聞かせるように話す。

「きっと、御当主はすぐに帰られます」

 年相応の、無責任な気休め。だが、無邪気であるがゆえに悪意や侮蔑のない純粋な励ましでもある。

「だって、私まだ、前にお客様に出すお菓子をお嬢様とこっそり二人で食べて、数が合わなくなったのを怒られてないんですもの」

 そう言っておどける使用人の姿に、ライカの口元が少しだけ緩む。そして、今度はライカの方からもう一つの秘密を引っ張り出す。

「お父様の靴のお手入れに失敗して壊して松脂でくっつけた事も、ミオから聞いてるからね」

 すっかり忘れていた落ち度を掘り起こされ、レイオは目を泳がせる。そして、わざとらしく話題を変える。

「そうそう、モルフォさんの所から届いたアーモンドで、ケーキを作るんです。お昼に是非、お嬢様に味わっていただきたくって」

「おいしそう、食べたいな」

「味付けはバターかシロップ、どちらにしましょうか?」

「両方がいい」

「じゃあ、両方。たっぷりかけましょう!」

 甘味の話を出されてようやく、ライカは少しだけ憂慮を忘れて少女らしく心を踊らせる。そして、どこか抜けているとはいえ真摯な使用人による気遣いに、心の内で感謝する。

 二人で笑い合う。いつもと違う重苦しい空気が家を漂う中、せめて明るく振る舞おうとする。彼女らの父は帰ってくると、そう願って。

 そんな少女達の横、階段の上から大きな毛玉が降りて来た。

「おはよう、ルーク」

 白い長毛の雌猫、ルークだ。立ち止まったライカの足の間をうろつき、しきりに頭と尾を擦り付けて来る。

「お父様は、まだ帰ってないんだね」

 猫はこちらの顔を見上げて、高い声で小さく鳴く。この時期のこの時間、ルークはいつも父の寝室で陽に当たっている。彼女は無言で、父の不在と自身の空腹を訴えに来たようだ。

「いっしょに、ご飯食べよう」

 ライカが言い聞かせると、猫は応えるようにまた鳴いた。

 食堂の前では、もう一人の使用人、ミオが待っていた。

「ミオ。お母様と、兄様は」

 ライカが聞くと、ミオは慇懃に頭を下げてから答える。レイオとは違う少し長い髪が垂れる。

「奥様は昨晩、衛兵団との情報共有で帰りが遅くなったため、朝食は摂らずに休みたいとの事です。ヴィクセン様は明け方からの御当主捜索からまだ戻られておりません」

 母の寝起きの悪さは中々のものだ。雨が降る朝などはいつも頭痛を抱えており、ライカやメイド達に小言をぶつけてくる回数が増える。無理に起こすよりはそのまま眠ってくれている方がありがたい。

「今日の朝食は、何を用意してくれたの?」

「鹿肉の腸詰めとオムレツ、それから玉葱のスープです。御主人やヴィクセン様が戻られた時、すぐに温められるものをと思って」

 何かと騒がしいレイオと違い、いつも粛々と仕事をこなすミオの献立。それは常に、家族の体調や都合に合わせて上手く考えて作られている。

「ありがと。ミオも後でケーキ食べようね」

「お呼ばれしましょう」

 そうして使用人らと共に食堂へ入ろうとした時、重く軋みながら玄関の扉の方が開く。

 現れたのは黒衣の大男。ストールを巻き、ゴーグルを掛けた顔はよく見えない。だが、そこにいた三人にとってはそれが誰なのかは考えるまでも無い。

 ミオとレイオが恭しく辞儀をする。

ライカも、幼い笑顔と共に男へ歩み寄る。

「お帰りなさい。兄様」

 三人の出迎えを受けて男は笑い、答える。

「ただいま」

 ライカの兄、ヴィクセンはそっと妹の頭にその大きな手を乗せて撫でる。手袋のごわごわした感触が、寝起きから整えていない黒髪を更に乱す。

「お父様は」

 心地良い掌の中でライカは訊ねる。普段ならばこのがさつな撫で付けでも安心するのだが、今日はどうしても気掛かりな事がある。

「まだ見つからない。代わりに父様の帽子と、上着の切れ端と、これがあった」

 ヴィクセンが背中に手をやってこちらにちらりと見せたのは、父が愛用するライフル。よく見るとグリップやスリングが泥で汚れている。

 ささやかな期待ではあったが叶わず、ライカはうなだれる。気が付くと、ライカの足元をうろついていたはずのルークが、いつの間にかヴィクセンの方に移動して甘えている。

 ヴィクセンが懐から時計を取り出す。数年前、メイディオスでの在学中に購入したと自慢げに語っていたものだ。その蓋裏には昔、水晶機で撮影した白黒の家族写真。

「俺の分の朝食、あるかい?」

 ヴィクセンはレイオに訊ねる。

「もちろんです」

 レイオは元気良く、自身ありげに答えた。

「ありがとう。食事をとって、『弾』を作ったらまたすぐに出る」

 そう言うと、ヴィクセンは蓋を閉じて時計を仕舞い込む。顔を上げると、不安げなライカと目が合い、そっと宥める。

「心配ないさ、あの人はこれくらいで死ぬような人じゃない」

「うん。そう、だよね」

「それより、お前は試験勉強に集中した方がいいぞ。知識量は問題無いだろうが何回も言うように、本番ではそういう気の弱い所が裏目に出る」

 今年で十二歳になったライカは、メイディオスの学校への入学試験を控えて最後の追い込みをかけている。今日も、九時には教師が来る予定だ。

 悩み事が積み重なるのは嫌いだ。何から片付けようとしても、結局別の事が思考を曇らせるから。

「まあいいさ、なるようになる。それより、折角帰ってきたんだ。冷めないうちに食べよう」

 ヴィクセンは羽織った黒外套を脱いでレイオに渡す。見た目以上の重さがある布の塊だが、レイオはそれを軽々と抱えて去ってゆく。

「着替えないの? お父様が見たら怒るよ」

 外套のおかげであまり汚れていないとはいえ、森の探索で着ていた白いシャツのまま食堂へ向かうヴィクセン。それに対し、衛生に関しては殊更に煩い父の言いつけを思い出したライカは言及する。

「帰って来てくれたらその時、怒られることにするよ」

 そんな妹の心配を兄はいつも、のらりくらりとかわすのだ。真面目なミオが後ろでため息をつくのが聞こえた。


 朝日が差し込む広い食堂。長机には刺繍の入ったクロスが敷かれ、その上には小綺麗に盛られた料理が順に置かれ、豪奢ではないが貧相でもない、この家らしい彩りが並んでゆく。その間に、用意されていたボウルで口を濯いできたライカとヴィクセンが対面二人きりで席につく。

 蒸したタオルで手指を拭いてから、熱の籠ったパンを千切る。柔らかく、乾いた感触が指を伝う。そっとスープに通して口に運ぶ。溶け込んだ肉と野菜の旨味が舌に染み渡る。

 ナイフでオムレツを割る。トマトソースの合間から見える断面からベーコンと芋が顔を出し、マジョラムの甘い匂いが湯気と共に舞い上がってくる。

 兄妹の間に、言葉は無い。各々の食と、考え事に意識を巡らせる。互いの信頼の上に成り立つ、心地よい無言。

 窓の外の森のさざめきが耳に入る。他には、カトラリーの鳴る音。柱時計が秒針を刻む音。ヴィクセンが腸詰めを齧って歯が腸を裂く音も、アクセントのように響いた。

 辺りを見回す。何も変わらない、普段通りの家だ。少し離れた床では、ルークが平皿に盛られた鶏肉を食んでいる。

 ミルクを一口飲み、一息つく。そして、グラスを置いて口を開く。

「入学試験、さ。兄様が受けた時は、緊張しなかったの?」

「ああ」

「どうして?」

「自分なら出来る。そう思ったからだ」

 いつも通りの自信に満ちた笑顔を見せているヴィクセン。だが今日ばかりは、それが僅かに強張っているように見える。

「お前なら大丈夫だ。自分を卑下して、出来る事と、出来ない事を見誤るな」

 もしかしたらそれはライカにだけではなく、ヴィクセンが自身にも言い聞かせた言葉だったのかも知れない。

 気になるのは父の安否だけではない。『万が一』があれば、この家の未来がいきなり彼の肩にのし掛かる。そんな不安か緊張も、当然と言えば当然だろう。

 柱時計の仕掛けが鳴る。七時になった。いつもならここに父と母がいる。

 ライカを含め、この家の者は食事中に喋るような人間ではない。それでも、言いようのない侘しさが食卓に漂っている。


 朝食を終えて、ライカは自室へ戻る。

 扉を開けると、ついて来ていたルークが先に部屋へ潜り込んだ。彼女の出入りのために扉は閉め切らず、少し開けておく事にする。

 程良い満腹感と共にまた繭のような天蓋の中へ戻り、靴を脱いでベッドへ倒れ込む。ルークがそれに続いてベッドに飛び乗る。

 布団の上に座り込んでこちらを見つめるルークの頭を撫でてやる。すると、丸い身体を横に倒し、円を作った。

 まだ教師が来る時刻ではない。まどろみに身を任せ、ライカは瞼を落とす。出来る事なら先刻まで見ていた夢を思い出し、続きを追いかけようとして。

 猫の喉が鳴る音がする。今ばかりは、朝の身嗜みも、勉学も、父の事も、何もかもを放り出して眠りたい。

 そうやって意識の狭間を揺蕩い、時間を無為に過ごす。

 ぐずぐずと寝返りをうってサイドチェスト上の時計を見る頃には、一時間弱が経っていた。

 いつもならあの高慢な女教師が来て、授業が始まる頃合いだろう。だがその気配は無い。ルークはまだライカの隣で眠っている。

 来ないのなら来ないで都合が良い。このまま布団の中まで潜り込もう。そう考えて起き上がろうとする。


 そして、銃声が鳴った。


 ルークが飛び起きて目を見開き、耳をそば立てる。一拍遅れてライカが咄嗟に彼女を抱えてベッドの下に身を隠す。上からシーツを手繰り寄せ、部屋の出入り口からは姿が見えないようにする。

 場所は近い。恐らくは邸内のどこか。この僻地では考え難いが、強盗の類か。それとも、人里近くまで迷い込んだ獣などを迎撃したか。どちらにせよ歓迎出来る客ではない。

 暗がりの中で耳を澄ます。『今すぐ逃げろ』と、ヴィクセンの怒声がする。

 尋常ならざる事態らしい。ライカは、抱えたルークを抱きしめようとする。だが猫はその小さな腕からするりと抜け出し、開いた扉の隙間へ駆けていく。

 また、銃声。それも二発。

 間を置いて、何処かからミオが呼ぶ声がした。

「お嬢様!」

 館の最奥に近いこの部屋から玄関や厨房の勝手口に向かうよりも、窓を開け放ってそこから逃げる方が早い。だが『敵』の数や性質が知れない以上は下手に動けない。

 こちらの位置が割れるような行動はしたくない。だが、母と兄、使用人らの安否も気になる。

 少し考えてから、ミオの呼びかけに答える。

「私は大丈夫! 何があったの!?」

 危険は承知で叫ぶ。今は情報が欲しい。

「分かりません! 音は書斎の方かと!」

 作業場を兼ねたその部屋は二階の父の寝室の隣、屋敷の奥にあり、父が不在の間は兄が使っている。侵入してから勘付かれる前にそこへ向かうのは、『この家をある程度知っている者』の可能性が高い。

 財産目当てでは無い。父の研究資料を狙う何者かだろうか。額に嫌な汗が浮かび始める。

 ライカはまず、部屋を出て玄関ホールを目指す事にした。そこにあるのは出口と、二階への階段。

「兄様! 聞こえていますか。兄様!」

 歩きながら上階へ呼びかけるが返事は無い。背筋が冷える。

 自分が兄の元へ向かったところで何かが変えられるとは思えない。出来る事と出来ない事を見誤るな。と、先程の兄の忠告を思い出す。

ではどうするべきか、考える。今の彼女が思い付く最善手は、町まで走り、助けを求める事。

 そしてライカの視界にようやく、『敵』の姿が映る。

 開け放たれた両開きの玄関口。その向こうに、薄い小麦色の長髪が見えた。

 家庭教師のミラ先生だ。赤いドレスとキュロットスカートの上からコルセットで縛った彼女自慢の身体。その腹には大きな穴が数個穿たれ、白い肌は青ざめている。ライカにはまだ気づいていないようで、何もない空間を叱りつけ、へし折れてしなる右腕を振り下ろしている。

 あれはもうミラでは無い。決して元通りの人間にはならない異形、歩く死体。メーアバウムの家が長年その生態を追っている存在だ。

 ライカも以前、父の手によって捕らえられた個体を見せて貰った事がある。その研究の手伝いをした事もある。

 そしていずれは、ライカもその解明に心血を注ぐことになるはずだ。ここから生きて逃げる事が出来たのなら。

 見知った者の死に顔がこちらを見た気がした。息が上手く吸えなくなり、鼓動が早くなる。

 続いてすぐ真後ろで鈍く、大きな物音が鳴る。何かが二階の手摺りを越えて落ちて来たのか。

 足を動かして後ずさる。すると、靴の裏に嫌な弾力を感じた。

 小さく声が出てしまう。足を引っ込めて、ゆっくり振り向く。足元には人が倒れていた。それは這いつくばったまま、ライカとそっくりの黒髪を振り乱して上体だけを上げる。赤のカーペットの上には黒い染みが出来ており、その者の顔面から更に血が滴る。

「母様……?」

 母は答えない。普段は頭の上に結えている髪は解けており、下顎は何かに抉られたように砕け、首は不自然に傾いている。返答の代わりに娘の足首を掴み、その口があったはずの部分を寄せる。

 スカート越しに感じる、濡れた肉の繊維に撫でられる感覚。まだ生暖かいその吐息は、母の最期の温もりだ。

 閉じる筋肉を損傷し、ろくに歯すら残っていない顎では肉を噛み千切れない。この程度の接触であれば感染の危険性は低い。しかし余りにも異常な光景に、ライカの思考が止まる。

 視界の端では教師がうろついている。叫びそうになる口を手で押さえるが足が竦み、血塗れの床にへたり込んでしまいそうになる。

「お嬢様!」

 声がした。視界が色を取り戻し、意識が現実に引き戻される。

 走って来たミオがライカの腕を取った。

 我に帰ったライカが足を引く。華奢な身体に致命傷を受けた弱々しい見た目とは裏腹に母の握力は強く、スカートの縫製が裂ける程かと思ってしまう。

「お母様、離して!」

 届くはずのない死者への呼びかけ。まだ全貌を学び切れていないとはいえ、『彼ら』がどのような存在かは知っている。それでも、認めたくない。

 ミオが振り下ろしたモップの柄が母の手を叩き落とす。ライカはそのまま手を引かれ、手近な扉を開けて逃げ込んだ。

 逃げ込んだ応接室には誰も居ない。皮張りのソファとテーブル。燭台や花瓶などの装飾品が配された部屋は、所詮辺境の小役人たるこの家では使用頻度はさほど多くない。

「何があったか分かった?」

「いいえ。今しがたの奥様の様子と、二階からの銃声以外は」

「レイオは何処に?」

「北階段から書斎のヴィクセン様の元へ」

 扉を閉じ、ライカは最小の手順を考えながら状況の確認に努めようとする。

 その最中、大きな咆哮が聞こえた。

 家の中、階段の上からだ。重い扉を少し開いて、玄関ホールを覗き込む。

 手摺り越しに見える階段に、巨大な人影があった。それは体格の良いヴィクセンよりも二回りは大きい。異常はそれだけではない。全身からはまばらに毛が生え、そこら中に痛々しい瘤が出来ている。最も目を引くのは右腕の著しい変容。歩行のバランスを崩す程歪に発達したその先端には、五本の長く鋭い爪が生えている。その爪に身体を貫かれ、引き摺られている者が居た。

 手摺りの影に、白い給仕服が見え隠れする。怪物が歩みを止めて右腕を振るうと、血の放物線を描きながらそれが地面に放り出された。

 二階の書斎に居たであろうヴィクセンの様子を見に行ったレイオだ。背後でミオが息を呑む音がした。

 横たわったレイオが血を吐いた。肋骨が砕けた肺の位置に穴が空いており、出血がかなり多い。仮にこの場にまともな医師が居たとして、あの怪物や死体達を退けたとして。傷を塞いで助かる可能性はあるのだろうか。

 数秒の硬直の後、怪物が叫び、ライカは思わず耳を塞ぐ。絶叫は続き、徐々に意味のある単語を発するようになる。

 それは、間違いなくライカの名を呼んでいた。

 内臓が縮み上がる感覚がする。そんな筈はない。聞き間違いだ。そう思い込もうとしても、何度も何度も繰り返される怪物の叫びはそれを許さない。

 この襲撃者は、『この家の事を知っている何者か』どころではない。

 ライカは、あれが誰かを知っている。

「お父様だ……」

 崩れ落ちるライカを、ミオが抱きしめる。

 怪物がレイオへと歩み寄る。歪な四肢をつき、倒れた彼女を貪るつもりかと思ったがそうではない。

 それは、仰向けにしたレイオの首元に爪を突き立てると、そのまま下腹部まで一気に肉を引き裂いた。

 逆流する血で気道を塞がれているレイオの悲鳴が、館に響き渡る。怪物は、苦痛から逃れようとするレイオの手足を踏み潰すようにして押さえつける。その左手はまだ人の形を留めており、今度はそれが少女の体内へと突き入れられる。

 ライカ達の場所からも、レイオの身体が激しく痙攣を起こしているのが見て取れる。

 強く抱きしめられて身動きが取れないライカは、ミオの顔を見上げる。目を見開き、妹の最期を前にして歯を食いしばっている。

 今、音を立てれば次はここにいる二人が殺されるのを分かっている。だからこそ、何も出来ない。

 徐々に弱くなる悲鳴を聞きながら二人はただ、口を押さえて息を殺す他無かった。何かが折れる音と、汁気の詰まった何かの音がホールに響く。

 世界の終わりかのような時間が続いた。そうするうち、叫びは薄れて聞こえなくなっていく。

 いつだったか、レイオがやって見せてくれた鶏の解体を思い出す。血を抜き、羽を毟った肉塊から内臓を引き抜いて洗い、部位毎に切り分ける工程。あの時、泣きじゃくるライカを、ミオが撫でてくれた。

 もう一つ思い出すのは、父が見せてくれた湿原で捕らえた死体の解剖。流れるような手捌きで肉を切り分けて検体を取る父の姿と、口を覆う布を腐臭がすり抜けて鼻腔を殴ってくる、嫌な記憶。

 ミオが纏う石鹸と僅かな炭の匂いは血生臭い空気を和らげてくれる。しかし、それだけで何の解決にもなっていない。視覚を襲う暴力的な光景に、先の朝食が喉を上ってくるのを感じる。

 出血と激痛の波でショック状態に陥りつつ未だ絶命に至っていないレイオが、扉の隙間から覗くミオを見つけた。

 レイオは最後の力で、姉に手を伸ばす。

 その視線と手の先を、怪物が目で追った。瘤まみれの顔面がライカ達の方を向いた。

 ミオは咄嗟にドアから身を引く。一瞬見えたのは僅かに残る、人だった頃の面影。ヴィクセンとよく似た、老けた横顔。

「やっぱり」

 ライカは思わず呟く。やはり間違いなく、あれは父だ。

 二人は応接室の中まで逃げ、窓を目指す。が、間に合わない。

 人間ではありえない速度で駆けた怪物が、扉を砕いて部屋に飛び込んで来た。

 家具類が吹き飛ばされ、ミオがそれに煽られて転ぶ。

 そして、ライカは『それ』と対峙する。

 それは、爪先からは血を、口元からを涎を滴らせながら唸る。胸には三つの射創が視認でき、出血は真新しい。先の銃声によるものだろう。狭くはない部屋に、獣臭が立ち込める。

 転がる燭台を手に取って握り、ミオの居る方向へ後ずさろうとする。

 父が吠え、娘の名をまた呼ぶ。

「もう、貴方はお父様じゃない!」

 ライカもまた叫び、目の前の怪物と、自分に言い聞かせる。

 父が両足と右腕を使って近寄って来る。

 産まれて初めて目の当たりにする、自分に襲いかかる『死』の脅威。視界が涙で霞み、歯が鳴って、息が詰まりそうになる。レイオを引き裂いた爪が、奇怪な風切り音と共に振り上がる。

 その巨体へ向け、花瓶が放り投げられた。怪物は、それを爪で弾いて砕き、ミオを睨め付ける。

「レイオを返して」

 興奮し、肩を上下させるミオ。髪はばらばらに乱れ、目には怒りが籠る。次は壁に飾られた湖の風景画の額縁を握り、細い腕で持ち上げる。

「お嬢様。逃げて下さい」

 ミオはいつもの静かな態度で言い放とうとするが、緊張と絶望で上手くいっていない。それを誤魔化すように、こちらに向かって微笑んだ。

 次々に投げつけられる調度品を意に介する事無く、怪物はミオに近付く。

 だがよく見ると、その足取りは間違いなく、おぼつかないものになっている。身体を支える歪な右腕が震えている。

 下肢の痙攣もまた徐々に大きくなる。胸の射創が脈打つように血を噴く。

 父の顔をした怪物が苦悶の表情を浮かべている。ここに来て彼が弱る理由と言えば、兄が撃ち込んだ弾丸がようやく効いて来たのだろうか。

 怪物が、今度はミオの名前を呼んだ。ミオの表情が凍り付く。

「もう、やめてよ」

 ライカは懇願し、顔を背ける。

 ミオが渾身の力で灰皿を投げつける。それは父の顔面部分にぶつかり、醜悪な瘤が破裂した。

 血なのか膿なのか分からない体液が飛び、ライカの服を汚す。

 怪物がついに膝をつき、顔を押さえて蹲る。その頭を目掛けて、憤怒の形相を浮かべたミオがモップを振り下ろした。

 すると間もなく、怪物は動かなくなった。


 再び静まり返った室内でライカはただすすり泣き、ミオは先の出来事が嘘だったかのように虚脱している。窓の外ではいつも通りに木が揺れている。

 だが、静寂は訪れない。蝶番が壊れた扉の向こうでは呻き声がする。ライカの部屋の入り口は階段の影になっており、その暗がりでは母だったものがまだ床を這っている。立ち上がるどころか、そこからろくに移動する事も叶わない様子を見るに、落下の衝撃で背骨などを折ったのだろうか。

 ホールの中央では、仰向けで臓器を撒き散らしたレイオが手を伸ばして事切れている。その指先が、僅かに動いた。それを見たミオが、我を忘れて飛び出した。

「ダメだよ、ミオ」

 直感したライカがミオを静止しようとする。だが止まらなかった。

 あの出血量で、生きている訳がない。恐らく、あれはもうレイオではない。

 それでも、ミオは亡骸に吸い寄せられるように走る。

「ミオ!」

 ライカは嗚咽を抑えて力を振り絞り、叫ぶ。

 レイオの死体のそばでミオがへたり込み、その手を取る。

「ごめんね」

 妹を見殺しにするしかなかった姉としての、消え入りそうな謝罪が聞こえた。

 そしてミオがその手を握ると、強く引きこまれた。その喉元に、目を覚ましたレイオが喰らいつく。ライカにとって、想像通りの最悪な結末だった。

 頸動脈から血を吹き、倒れゆくミオ。ライカはそれに、手を伸ばす。その手は届かない。

 ミオが頭を床に打ちつける。彼女がどんな顔で死んでいくのか、ライカからは窺い知れなかった。

 自分を守ってくれる最後の人が居なくなった。危機を前に、ライカの頭の中はぐるぐると回る。

 暗がりからは母がこちらへ向け、じわりと染み込むように近寄っている。

 ミラ先生はもう玄関まで来ており、言葉にならない単語の羅列で父を非難している。

 親しい人々の変わり果てた姿。それを正面から受け止めるにはライカの心はまだ未熟だった。崩れ落ち、嘔吐する。

「兄様!」

 泣きじゃくり、胃液で焼けた喉から苦し紛れに最後の希望を呼ぶが、やはり何も起こらない。

 顔を上げる。ミオの肉が音を立てて食い千切られている。心臓すら繋がっているか怪しいレイオが、腕と首の力だけで器用に姉を食っている。

 父が、兄が、祖父が、曽祖父が。ずっと追い続けたのはこんなものだったのか。こんなもののために皆死んだのか。だったら、この家が存在した意味は。

 何もかも、分からなくなる。

「私に出来ることって、何?」

 一人きりになった家で、ライカは自分に問い掛ける。そして応接間を出てふらふらと、レイオの血痕が残る階段を登る。

 吹き抜けが設けられた二階の廊下。その西側の奥が書斎であり、扉は開け放たれている。恐る恐る中を覗く。

 そこに転がっていたのは、父のライフルを握ったままのヴィクセンの身体と、驚愕の表情を浮かべたまま転がるその生首だった。

 血溜まりに沈む遺体に近寄り、胸のポケットを探って小さな時計を手に取る。スイッチを押すと、ばね仕掛けの蓋が開く。時刻は九時を過ぎた頃。蓋裏の写真には、家族が映っている。

 声をあげて泣く。涙で視界が滲んだ。


 そうしてただ泣いていると、中央階段が軋むのが聞こえた。『誰か』がゆっくりと二階へ上がってくる足音だ。

 兄の死体の右手からライフルを引き剥がし、慣れない手つきでレバーを動かして装弾を確認する。空薬莢を弾き出して薬室を覗き込む。弾はまだ入っている。そのままライフルを持って、来た道を引き返す。

 階段の上から、死屍累々の玄関ホールを見下ろす。ミラ先生が手すりを伝って登ってきている。そしてもう一人、いつも通りの落ち着いた所作でこちらへ歩くミオの姿。その口がゆっくりと動く。

 お嬢様、と。いつもの呼びかけだ。違うのは、その口元に不気味な笑いが浮かんでいる事。首元の傷の血は止まり、肌は不合理な程白くなっている。

 重い銃を持ち上げてミオの体に狙いを定め、息を吸って吐く。世界が遅くなる。

 撃てるのか、あの子を。多くの時間を共に過ごして来た、家族とも言っていい少女を。

 ライカとレイオとミオ、主従を差し引いても幸福だった関係。いくつもの思い出が頭の中で絵画のように巡り、消えてゆく。

 追憶を振り切って、ライカが引き金を引いた。

 狙いは僅かに逸れて階段の手すりを穿つ。想像以上に大きな反動のせいで、後方へすとんと転んで尻をつく。

 床は冷たく、立ち上がろうとする膝が震える。

 階段を登り切った骸は微笑み、転んだライカの手を掴もうとする。石鹸の香りが、鉄のような臭いで掻き消えている。

 いよいよ眼前に迫ったミオの口が大きく開かれる。

 ついさっきまで生きて、話をしていた人たちがこうなった。それだけではない。もう二度と、彼らと語らい、笑う事が出来なくなった。死ぬとはつまり、そういう事なのだろう。

「ごめん、私、まだ死にたくないよ」

 ライカは呟く。そう、思ったから。

 そして覆い被さろうとするミオを、全身で突き飛ばす。よろけたミオは、階段から転げ落ちる。


 後は、ライフルを抱えて逃げ出すことしか出来なかった。その場を離れて東階段から駆け降り、窓を押し上げて飛び出し、出来る限りの速さで屋敷を離れて森の中に逃げ込む。町まで彼女の足では出来るだけ走って五十分程。その間、何も考えず、何度も転び、何度も涙を拭いながら駆ける。白いドレスが、どす黒い泥で塗りたくられていく。

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