四
湿地での掃討があった数週間後、町のやや北東。水面には曇天を映す湖のほとりでは、人々が列を成していた。
二十人前後の集団は町に住むさまざまな年齢の者で構成されており、皆顔を伏せて両手を組んで合わせ、所々からはすすり泣く声も響く。またその中には、何が起こっているのか分からないという様子の幼い子供も混じる。
先頭には、黒い棺を乗せた車を引くロバと一人の女がいる。使い古された黒衣と黒髪。背にはライフル。そして右手には死者達の名簿帳。
いつものように夜明けと共に眠ったと思えば朝一番に叩き起こされたライカは町民の訃報と鎮魂の依頼を引き受け、今は葬列を率いている。
足元の土は昨晩の雨を吸ってふやけている。そのお陰か、いつもより早く墓穴の準備が終わった。
車に乗せた棺の中で眠るのはエレオという名の男性。半年前から不調を訴えて寝込んでおり、今朝息を引き取っているのを子供達が見つけたという。
湖畔の比較的高い丘の集団墓地にたどり着いた葬列は、一人の老翁と合流する。老翁はシャベルを担ぎ、無言で一団を先導する。
墓地の鉄門を開いて剪定された生垣の道を抜けると、開けた土地に無数の墓石が見えてくる。石はどれも古ぼけてはいるが丁寧に磨かれており、この土地の管理人による仕事の質が伺える。
鳥の声を聞きながら、石と石の合間に引かれた道を少し歩く。すると間もなく、深く掘られた穴と、掘り出された土の山が見えた。
穴の深さは、大人一人が首元まで地中に埋まるほど。そしてその更に下には、エレオの祖父と父が眠る。穴の内部では上から順に、薄い植物遺体の層、きめの細かい粘土層、酸化鉄を含んだ赤土層が露出している。
周囲の土地よりかは水気の少ない丘の上ではあるが、水捌けの悪い湿った土であることに変わりはない。気温が低いこの地でも、さほど時間をかけずに遺体は土へと還るだろう。
シャベルの老人の他、今日の墓掘りに雇った男たちが数名現れて棺を車から外し、そして穴の底まで慎重に下ろしていく。
闘病の果てに痩せ細っているとは言え、大人の体一つ入った箱を運ぶのはかなりの重労働だ。普段は建屋の建築や補修をしている臨時雇いの男たちの肉体がものを言う。
棺を安置し終えた男たちが穴から這い上がる。ライカは棺の状態に問題が無い事を確認し、土を被せ始める。
他の墓掘りもそれに倣い、少しずつ穴が埋まっていく。
もうこの場所に棺は埋められない。次にこの一族の誰かが死んだ時は、横にずらした場所になる。作業を続けつつ徐々に見えなくなっていく棺を眺め、その次に涙を拭う遺族の方も見やる。間もなく、彼らが父の顔を見る手段は永劫に失われる事になる。
土を戻し切る前に、一族の墓碑を安置し直す。冬期の積雪中でも場所が分かるように、背は少し高くしてある。
最後に、掘り返されて柔らかくなった土を叩いて均す。墓は元の状態に戻って無事、新たな住人を受け入れた。
最後に、ライカは墓碑の正面に立つ。その顔には哀れみも悲しみもない。ただ成すべき義務を負った、意志を抱えた者の目。
ライフルのスリングを背中から外し、銃身を握る。
地に片膝をついてグリップと引き金の側を墓石側の地面に置き、銃口は彼女自身の胸に当てる。
そして、幼い頃から叩き込まれていた文言を唱える。
「これは貴方と私達との契約だ。貴方はただ眠り、還ればいい。私達はそれまでこの土地を守り続けよう。そして私達の血が、次の命へと貴方を導くだろう」
遺体の心臓にはライカの血が少量注射されており、これによって『起き上がる』事を防いでいる。この地の死者はメーアバウムの血に抱かれて初めて、真の安らぎを得るのだ。
死者との契約が交わされ、一連の儀式は完結した。弔問客は順にそれぞれの言葉を残して帰ってゆき、遺族だけが残る。
ライカの前に、歳若い長男が立つ。
朝に父が死に、その直後から葬儀屋兼医師もどきのライカを呼び、近隣に知らせて回った彼の目は焦点が合っていない。慣れない家族の死とその後始末は、彼に深い疲労を残しているようだ。
まだ年の頃は十七、八の彼はようやく仕事がひと段落し、整理がつかない感情を携えてライカに述懐する。
「昨日の夜は元気で、自分から食事を摂ろうとしていたんです。でも朝起きたら、白目を向いて泡を吹いていて」
彼を主とした遺族の希望により遺体は解剖される事なく埋葬されるが、それまでの経過から死因の見当は付いている。この地方では多い、癌だ。
「ずっと覚悟はしていたんです。でも、実際にあの人にやって来た『死』は、思っていたよりずっと呆気なかった」
末期癌患者の闘病生活における苦痛は本人にはもちろん、その家族にとっても想像を絶するものとなる。そしてそれが過酷であればある程、『終わった』直後の喪失感と解放感もまた大きくなる。
「ライカさん。父の魂のこと、貴女に任せます。どうか無事に還してやってください」
どこか憑き物が落ちたような、悲嘆の中に僅かな安堵を覚えている青年は、そんな自分を責めている。
この歳になるまで何人も、そんな遺族を見てきた彼女だからこそ、それが分かる。
「分かりました。貴方もこれからが大変です。お母さんや兄弟を引っ張っていくことになる」
長男の後ろには目を腫らした白髪混じりの母親と、不安げな子供達。そんな彼らに、下手な言葉は要らない。ただこの血の持ち主としてその悲しみに寄り添い、それでも前を向かせなければならない。
「お金の話はまた落ち着いてからにしましょう。私に出来るのはもうこれだけ。無責任な応援も助言もしません」
どれだけ繕おうが、どうせ形だけになる言葉など要らない。それでも、どうしても伝えたい言葉はある。
「ただ、負けないでね」
静かに、ただそこに置いておくだけの言葉。それを聞くと、彼はまた堰を切ったように泣き始めた。
逝ってしまった者、残されてしまった者。双方に取って最も善い結末が訪れてほしい。それは心からのライカの願いだ。それこそが家を失った彼女を今も尚、この地で死者を管理する場に縛り付ける理由の一つ。
葬儀とは、死者と生者、その二つにとってのせめてもの慰め。ただそれだけで良い。
これらがこの土地における葬送の全て。大仰な祈りも祭祀も、彼らには必要無い。
あらかたの人間が去り、墓地はいつもの静寂を取り戻す。
丘から湖を眺める。浮かぶ水鳥の群れ、そのうち一羽が羽ばたく。それに呼応するように他の鳥も水面を離れ、雨を降らせておいて尚鉛色の空に消えてゆく。
風が吹き、敷地中の植木の葉が揺れる。葉擦れの音はライカが見たことのない海と、波のさざめきを思わせた。
遠くの浅瀬では、数人の男がタモを使って石を集めている。あれは漁ではなく、湖底から吹き出て酸化した鉄鉱石の採集。この地域一帯にはあのような鉄の産出源がいくつかあり、それがこの辺境が都市部の支配層に辛うじて見捨てられていない理由の一つとなっている。
雨上がりの今日の風は心なしか乾いている。これがあの家族の涙を引かせる手伝いになればいいが。ライカは一人佇み、ぼんやりと考え込む。
そんな、えも言われぬ安らぎを湛えるこの墓地が今の彼女の城であり、領土だった。
そこでしばらく風景を眺めていると、後ろから近付いてくる気配があった。
「嬢、お客さんだ」
葬儀の途中で合流した年老いた墓掘り人、フラントだ。土まみれの服で紙巻きの煙草をふかしながら、ぶっきらぼうに報告をしてくる。
「分かった」
同じく、最小限の言葉で返す。メーアバウムの家に仕えてライカと同じ事件で家族を失ったフラントは、それから今まで彼女の面倒を見てくれている。そのお陰か、彼の素っ気なさが移ったのかもしれない。
程なくして、一人の男が現れる。あの詰襟を纏った犬耳の大男だ。
「こっちがまさに本職って風だったな」
墓地を見回し、フィードはいつもの穏やかな口調で話しかけてくる。
「うん、ちゃんと看取られた死者は動かないから気が楽。地面深くに埋めれば起きても登ってこないしね」
この場所でのライカは比較的機嫌が良い。この男にそれを悟られているのは少々気に食わないが構わない。ここで騒ぐ方がよっぽど面白くない。
「俺からも礼を言わせて欲しい。エレオさんの挽いたコーヒーは高い上に味も良くはなかったが、書類仕事に疲れた俺を何度も助けてくれたんだ」
エレオの営んでいた食堂はフィードらの詰所の近くにある。茶を好むライカはあまり訪れなかったが、デスクワーク漬けの士官にとって彼のコーヒーは良い気付けになっていたのだろう。
「別に礼を言ってもらうような事じゃない。魂はちゃんと弔って、死んだことを理解させないといけない。じゃないと土に帰れず曖昧なまま、余計な魂まで連れて身体に戻って起き上がる」
ライカは照れ隠しのようにそっぽを向き、この地での伝統的な死者の扱いについて説いてやる。
それを聞き、フィードがゆっくりと声色を変える。
「改めて頼みたい。その辺りの『死体』についての話、聞かせてもらってもいいか」
また、いつもの真摯な態度だ。ライカは内心げんなりする。
以前聞いた話だと、フィードはそれなりの知識を用意してからこの土地を訪れようとしたらしい。だが、この地方でのみ起こる局地的な現象は中央の文献にも記述が無かったそうだ。
聞いた当初、それはそうだと彼女は思った。死者についての研究は彼女の祖先が始め、一族のみにしか伝えられていない。
「前にも言ったでしょ。知識は財産、おいそれと他人に自分の家の宝剣を渡す貴族は居ないよね」
「だがその知識はこの土地に住む皆のために有益なものだ。共有してくれれば、いずれお前にも返ってくる」
恐らく、彼の言葉に悪意はない。彼のしつこい問いは純粋に、この土地の人々のことを思ってのものだ。
しかし、そんな善人が口にする『いずれ』などというものは誰も保証しないのだ。そんな曖昧なものにライカが協力してやる義理はない。
「ライカ、頼む。それなりの対価だって払う。だから」
彼の立場を利用すれば、多少無理矢理にでもライカを思い通りに出来るだろう。その上でのいつになく前のめりな説得は、ほんの少しだけ彼女の心を動かしてくる。
やはり、この男は誇り高い『良い人』なのだ。
それでも。フィードを遮るように、ライカは拒絶の言葉を投げつける。
「私の宝の価値は私が決める。きっと貴方の提示するような対価は、私にとって見合わない」
そっと、フィードの顔を覗いてやる。そろそろ諦めて帰るかと思っていたが違う。
何かが思惑通りになったというか、そういった妙に達成感のある表情をしている。
「分かった。じゃあ次の話をしよう」
ここで一転。まるで想定済みだと言わんばかりに、フィードは次の言葉を繰り出す。
「昨日、二足で歩く化け物の目撃情報が出た。それも複数人からだ」
「どこ」
咄嗟に、ライカは食いいるように尋ねてしまった。こちらもまた先程までのつれない態度を一変させ、次の言葉を待つ。
「それに見合うと思う知識を俺にくれたら教えよう」
答えて、したり顔で口角を上げるフィード。良い人であると同時に強かだ。こういう奴は出世するだろうな、とライカは力なく空を見上げた。
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