彼女が町に帰る頃には既に日がかなり登っており、人々がそれぞれの営みを始めている。

 百数十人程度が寄り添い住む小さな町で、煉瓦作りの建屋の群れは苔と泥で黒ずみ、そのうち一つの屋根上では男が槌を振るっている。

 牧草が積まれた台車が軋んでいる。それを引いてきた農夫が門の錠を開いて鎖を解く。

 吹きさらしの窯炉からは煙が登り、辺りの空気からは少しずつ湿気が拭い取られていくようだ。

 歩く彼女の足元を、自分よりも十は下であろう子供が薪を抱えて走る。その後ろを仔ヤギもついて走る。いつもと変わらない町の光景に、僅かな安らぎを覚える。

 そんな町の中心からはかなり外れた位置にある家へ帰る前に、報告書をしたためるため詰所へ立ち寄る。

 町の中心部。植民が始まった当初の区画が残り、ほうぼうへと伸びる小路の根元は住民が憩うための広場となっている。

 そのすぐ近くに、この小さな町にふさわしい、小ぢんまりとした石と漆喰の兵舎が見えてくる。


 扉を開けてすぐのカウンターには冴えない小太りの男が座り、書類に目を通している。

「あんたか。死体とのお喋りは楽しかったかよ」

 男が含みを持たせた言い様と共に、嫌な顔をしながら紙と筆、インクを差し出す。下らないやっかみに、彼女は抱えた苛立ちをあてつける。

「私はいつ辞めたっていい。それで困るのは貴方達。文句があるのなら自分達でなんとかして」

 静かな怒りに気圧され、ただ黙るしかない男を気にも止めず、カウンターに差し出されたそれらを受け取って下がる。周囲を眺めると、人気もまばらな建物内に、広いテーブルがある。

 ささくれの目立つそれに筆記用具と、銃を置く。それからゴーグルとストールを外して無造作に放り投げる。

 夜の闇をそっくりそのまま落とし込んだような黒髪が乱雑に広がり、白い肌と暗い緋色の双眸が外気に触れる。

 椅子に座って筆を取る。書き入れるのは、今回の事件の一部始終、掛かった費用、今後の展望。

 何が起こったか。三日前、町から南西の湿原へ猟に出た町の住民が歩く死体を確認。手を出さず即座に撤収し、詰所に待機する兵士に通報したとのこと。その後、詰所のボス経由で彼女へ依頼が回る。工房の在庫から弾丸を作成、ついでに気休め程度にしかならない消毒薬も持ち出す。

 今朝、獣が寝静まる日の出少し前に出発。目撃地点に到達して目標を発見。男性五名、女性一名、不明一名、子供三名の集団を鎮圧。南方出身の違法なキャラバンだと思われる。

 事務的な情報をそれらしく書き連ねる。依頼人との認識の食い違いが無かった事を確認させるように、互いに承知しているものであっても漏らさず書く。後々難癖を付けられてごねられるのも勘弁だ。

 最も大きな心配は弾薬費について。ホローポイントと呼ばれる加工に加えて、彼女の血液を薬として封じる細工も加えた弾丸はそれなりに値が張る。いちいちその手間賃も請求しておかないと仕事として割に合わない。

 最後に今後の展望、及び期待を書き起こす。こうした死者や汚染動物への対応には、別の手法及び別の人材の確保を早急に求めたい、と。

 最下段には、『ライカ・メーアバウム』の署名。

 書面を締め、紙を三つに折り込む。後は先のカウンターの男に紙と道具を返せば家に帰って眠れる。


「ご苦労さん、ライカ。怪我は無かったか」

 席を立とうとしたその時、背後から男の声がした。

「私はあいつらに噛まれてのこのこ帰ってくるほど、間抜けじゃない」

 聞き覚えのある、それどころかこの仕事の雇い主である野太いその声に、険と皮肉を含ませて返す。

「そう噛み付かないでくれ。いつも言うように、俺はあんたの敵じゃない」

 こちらを宥めすかすような返答に、舌打ちをしながらライカは振り返る。背後に立っていたのは犬を連れ、自身もまた頭に犬のような耳を生やした巨漢。

 筋肉は詰襟の内側ではち切れんばかりに膨らみ、背後では長い尻尾が揺れている。ライカより少し歳上の青年で、反感を滲ませる彼女とは反対に敵意の無い柔和な笑みを浮かべていた。

 先程の受付の男とは違い、多少の意地の悪さでは動じない。厄介な奴に捕まってしまった。

「フィード。貴方は敵じゃないけど、味方でもないでしょう」

 再度、静かに突き放す。緋色の瞳が苛立たしげに男を見上げる。

 犬耳男は大仰に肩をすくめてため息をつく。名前はフィード。中央の学校を出てすぐにここへ赴任してきたエリートくずれだ。

 フィードの足元の大型犬がはしゃぐ。彼はかがんで、その頭を撫でてやる。

「よしよし」

 大きな掌に顔を包まれた犬は甲高い鼻声を上げ、その場にしゃがみ込む。流れるような挙動には日頃の訓練の跡が見受けられる。

「今日はいつにも増して酷いな。何かあったのか?」

 相棒をなだめながら、彼が訊ねてきた。

 鍛え抜かれた筋肉質な顔面の上で、狼のような耳がこまごまと動いている。

 今日のライカは自分でも分かるくらいには機嫌が悪い。夜明け前に起きてからずっと、眉間の皺が取れていない。死体達を殺してからは頭痛もするような気がする。

 少しの間が空く。この問いに答えるのは、彼に弱みを見せる事になるような気がしたから。椅子を少し彼の方に向けて考え込む。

 そして、ふっと口から言葉が漏れた。

「『死体達』の中に小さい子供たちが居た。あの女の子も、大事にされていたんだと思う」

 ライカ自身にも分からなかった不快感が勝手に言語化されてゆく。

 そうだった、あの小さな女の子。あの子を撃ってから、行き場のない怒りが彼女の頭で渦を巻いている。

 そんな思いの外なライカの述懐を受けて、フィードは面喰らいながらも彼なりに言葉を選んでいる。

 理想が高い上に暑苦しい男ではあるが、こうして対等な視点に立とうと努力をしてくれる部分は評価出来る。数年の付き合いで分かってきた人格の内には、良い家で真っ当な教育を受けてきたという過去の厚みを感じる。だからと言って、納得のいく返答をくれるような男でも無いのだが。

「お前が悪いって訳じゃないだろ。その子たちの運が悪かったんだ」

「分かってる」

 そうだ、そんなことは分かっている。

 一度言葉が出ればあとは時計の歯車が嵌まったかのように、次々と思考は回り出す。

「別に、あの子たちを救いたかったとは思ってない。そうじゃない」

 フィードに、と言うよりは自分に言い聞かせるように、溢れた思いはどこでも無い暗闇へと向かってゆく。

「ただ……」

 次を言いかけて、言葉が止まる。

 ただ、悲しかった。人が思う程、世界は優しくないという事実を突きつけられるのが。

「いい、何でもない」

 そう言って一人きりの思案に沈もうとするライカ。フィードはそれでも彼女と打ち解けるべく、犬と見つめ合いながら語りかける。

「何でもかんでも、一人でやろうとするな。もっと手伝える事があるなら遠慮なく言ってくれ」

 こんな辺鄙な土地とはいえ、それなりの数の兵を束ねる男の言葉。優しく諭すようなそれに、普通の兵卒程度ならば忠義なんかを感じたりするのだろう。

 しかしそんなものになびく程、彼女は素直ではないし安くもない。

「嫌。私を使うなら一人でやらせて。貴方達に教えるものなんて何もない」

 即答、そして明確な拒絶。

 彼個人への恨みは無い。有り体に言えば好感すら持っている。だが彼の属する場所に、彼女の持っているものをこれ以上奪われるわけにはいかない。

 彼らとの共闘とはとどのつまり、ライカの持つ『弾』と『血』の秘密の暴露なのだから。

「私だって本当は、そっちの人員だけで全部やってもらいたいんだ」

 そしてこれもまた、心の底からの願い。ライカにとって死者狩りは、もはや苦痛以外の何にもなっていない。

「無茶だな。あいつらに普通の弾が効かないのは、お前が一番よく知ってるだろう?」

 フィードも彼女の意思を承知している。仕事は辞めたいが知識も渡したくないという彼女の我儘の落とし所を、もう何年も探っている状態だ。

「別にこんな弾薬、使わなくたって頭を潰せば死体だって殺せる」

 今日余らせた弾を一つ、ポーチから取り出して指先で弄る。余剰分は中の薬が腐るために次へ持ち越せない。役目を果すための晴れ舞台を逃し、試射に使われるか廃棄されるだけのそれは、ライカの指から滑り落ちてテーブルを転がって小さな弧を描いた。

「簡単に言うな。俺らの安い銃と粗末な腕で、動く人間の頭に弾が当たるかよ」

 実際、今は目立った争いの無いこの土地に中央及び最寄りの都市等から送られてくるのは彼のような経験を積みたい若い士官と、そこいらの農家の若者に銃を持たせただけの形だけの軍隊。彼らには素早い汚染動物どころか、のろまな死者達を倒すだけの練度すら無い。

「それに、前例が酷過ぎた。あんなものの駆除に行きたがる兵なんてそうは居ない」

「前例、ね」

 テーブルの上の弾丸を拾い上げて見つめ、考え込む。

 ライカの家に起こった不幸から続いた兵士の負傷と、そこから更に連なる死亡事故。当時はまだ幼かった彼女もその悲惨さは覚えている。

 しかし、そうだとしても。

「私の血は、こんな事のためにあるんじゃないよ」

 死体狩りは、一帯の領主であった彼女の一族の家業ではあった。だが土地の支配者が変わった今でもそれが彼女の仕事である事には、やはり納得がいかない。

「お前の血の秘密を、俺たちと共有してくれるだけでいい。そうしてくれれば、後は墓守の仕事だけで食っていけるよう面倒だって見てやる」

「嫌。この血は私の家族の、たった一つ残された財産だから」

 また、拒絶。

 彼女の身に宿った血。ただ一つ、父と母が残してくれた命の証。一族の技であり、業だ。これが好きか嫌いかではなく、見知らぬ誰かに渡すと言うことが、自分が失われてしまうのと同じような気がして他の何よりも耐え難い。

 フィードは参ったとでも言わんばかりに腰に手を当てて息をつく。

「仕事は辞めたいが秘密も教えてくれない。相変わらず我が儘なお嬢様だ」

 そして眉を落としながら続ける。

「分かった。今日はこの辺にしよう。書類は俺が預かるよ」

 会話を切り上げようとし始めた。ようやくだ、ライカはこの言葉に内心で安堵する。

 伸ばしてきた大きな手に机の上の書類と筆記用具を差し出して、ライカは小さく礼を言う。

「ありがと」

 ふと足元を見ると、犬が彼女の靴や裾を嗅いでいる。

 朝から何時間もぬかるみを歩いた布地は泥と汗を吸っている。捻くれ者とはいえ年頃の女であるライカは流石に困惑してしまう。

「やめなよ、そんなに良いものじゃないよ」

 それまで発していたものとは別種の、戸惑いを含みながらも穏やかな声色。

「あんた、犬は連れないのか。役に立つぞ」

 フィードが声を掛けてくる。

「うちの血筋、犬には嫌われるみたいだから」

 穏やかなままライカは答えて足を揺らし、犬が鼻先で追うのを眺める。

 一般に、狩人は自身の仕事の補助のために犬を飼う事が多い。似たような仕事をするライカもそうした方が理には適っているのだろう。だが、大体の犬には吠えられるか、怯えられてしまう。

 家族が居た頃の家にも犬は居らず、いつも寝ている無愛想な毛長猫が一匹居ただけだった。

「そうか? フィンカは見ての通り、お前を気に入っているぞ。犬は理由無く人を嫌わないさ」

 確かに、足元の犬は悪意の無い目でこちらを見上げて鼻を鳴らしている。

「そうだといいけどね」

 ライカはそっとその額を撫でてやり、フィードとは目も合わさずに席を立つ。

「さて、今回も助かった。ありがとう。また、何かあったら呼ぶよ」

 フィードの謝辞を聞き流しながら、銃を身につけ直し、ゴーグルとストールを脇に抱える。

 また、がもう来なければいいのに。と、彼女は胸の内で呟く。

「それと、相変わらず雑な生活をしているようだが、身体を壊さんようにな」

 管理職らしい小言にも聞こえないふりをしつつ、ライカは詰所のドアを開いて朝日に身を晒す。

 礫を敷いた地面から照り返す光が、ゴーグルを外した眼球を焼く。町に戻って来た時の倍は疲労がのしかかっている気がする。

「寝よう」

 呟くとライカは一人、重い足取りで町外れの住処を目指した。

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