明朝、大陸西端。広大な扇状地に形成された湿地へ、冬を越えてほんの僅かに緩まった冷気が山脈から流れ込んでいた。

 古くは鉄鉱石や穀類の産地としてそれなりに栄えた土地だが、争いの末に汚されて今は僅かな遺跡群が散見されるのみ。

 遠く海岸まで続く湿原の湛水は濁り、踏める土は残らず膝まで伸びた草が覆い、一歩進めば羽虫が舞う。

朝焼けの光などろくに見えない空には、青錆のような雲がどこまでも広がる。

 そんな場所をやや小柄な人影が一つ、黙々と南へ進む。

 長い黒髪と、体に比して大きめな黒の外套。水気を含んだ風によってそれらが翻る。その背中には一本、細身のライフルが掛けられている。歳は十八、九の若い女で、足早な所作には育ちの良さが見え隠れする。ただしゴーグルとストールで殆ど隠れた顔は、お世辞にも機嫌が良いとは言い難い。

 眉間は深く皺を刻み、レンズの奥では重い瞼に遮られがちな緋色の目が忌々しそうに眼前を見据える。皮のブーツで歩く泥炭の足元は不愉快にぬかるむ。少しばかり立ち込める霧のために視界も悪い。これらの要因もまた彼女の鬱屈を増長させていく。

 再度、風が吹く。冷えたそれが、僅かに露出した頬や首筋を舐る。

 遠くに声が聞こえた。獣の唸りのようなか細く、長い声。この一帯は肥沃なフェンになっているため、鹿や大鼠、狼など四つ足の大型生物も多い。底冷えするような音に、耳を澄ましながら彼女は歩く。

 発生源へと近付くにつれ音は明瞭になる。それは、獣の発する鳴き声ではなかった。人の喉の奥底から出てくる呻きだ。言葉にはなっていない。しかし何らかの意思を含んだような、意味を持ったうわ言のようなものが淀んだ空に響く。

 同時に、風に乗って漂ってくる臭気。朝露に濡れた草葉のものだけではない。酸化した血の臭い。腐り始めた獣か、人の死骸の臭い。

 前方には小さな沼、その対岸には幾つかの人の姿が見えた。ゴーグルを少し上げ、サイドポーチから双眼鏡を取り出して霧の先を覗き込む。

 腹や顔、手足の肉をまばらに抉り取られたそれらは、生きているものとは到底思えない。

 歩く死者だ。伝説や作り話としては各地に点在する存在ではあるがこうして現物を、しかも複数同時に見られるのは特殊な汚染を受けたこの土地ならではと言える。

 あれらを鎮めてやるのが彼女の今日の目的。毎月毎週、とまではいかないがこの手の仕事はそれなりの頻度でやって来る。その度に、近くの町から彼女が駆り出される。


 持ってきたライフルの射程距離ぎりぎりまで、息を潜めて群れに近付く。彼らが野生の獣と違う点は、嗅覚や聴覚が鋭くはない事。元々が普通の人間であることに加えて、死んでしまえばそもそもそういった感覚器が機能しているかすら怪しい。お陰で、察知される事も無く彼らの様子がよく観察出来る。

 姿形を観察する。九人、いや十人。年齢は様々だが、皆一様に厚いチュニックやケープを纏い、質素ではあるものの実用性を重視した格好。そしてそのどれもが、泥と、黒い血液で酷く汚れている。

 察するに、一家族程度の小規模な闇行商。迂回路と関税を嫌ってこの湿地帯に迷い込み、そのまま引き返す事も叶わずに穢れた獣どもの餌食にでもなったのだろうか。

 荷車とそれを引く馬らしきものは見当たらない。自分たちが殺された位置からはある程度移動していたようだ。こんな姿になってまでそれぞれが歩幅を合わせ、集団で移動するような社会性は維持しているのだから恐ろしい。

 自業自得、とでも言えばそれまでだろう。だが、たった一つの落ち度が破滅を招くとなると他人事とも思えない。

 群れの中には十歳にも満たないような少女もいる。僅かに、ほんの僅かに、同情が彼女の胸をよぎる。


 気配を殺しつつ、最適な位置取りを探る。『弾』は無駄に出来ない。

 このような群れを処理するにつき、最初に倒すべきは体格の良い男たち。ここでは護衛であったと思われる若い男や、丸々と肥えた男がそれに当たる。上手く仕掛ければ二、三人は難なく殺せるかもしれない。

 ゆっくりと腰を落とす。地面と触れた右膝が湿る。

 背中のライフルを握り、スリングを回す。引き金とグリップに沿い、手指を守るように作られたアンダーレバーを動かし、初弾を装填する。

 構えて、照門を覗き込む。最初の標的は恰幅の良い中年男性。

 恐らくは彼ら商人隊のリーダー格、父親だったのだろう。面倒見の良さそうな顔からは既に血色が失われ、目はどこを見るでもなく白濁し切っている。

 呼吸を整えて、止める。体の内で鼓動が響く。狙うのは胴。

 長い数秒間。照星を合わせ、引き金を引く。

 乾いた破裂音と同時に起こる反動を抑える。標的の男が吹き飛ぶ。

 着弾を確認し、間髪入れずにレバーを動かす。群れが動き出さないうちに次の標的を仕留めねばならない。

 二発目。若い男の胴を撃つ。肉が弾けて倒れる。

 そこにいる死体全てが、窪んだ白い眼球でこちらを向く。位置がばれた。三発目を薬室に送り、撃つ前に位置を変える。群れとの間に沼地を挟む事で接近を遅らせるためだ。

 彼女の存在を察知した集団が泥濘のように蠢く。手を伸ばしてこちらに縋り付こうと思い思いに前進を始める。

 動き自体はのろく、数は多いとしても余程の想定外な何かさえなければ殲滅は難しくない。

 三発目を老人に撃ち込んだ所で、二人目の男が起き上がる。やはり彼女の弾丸一発が直撃した程度では『殺し切れない』ものもいる。

 舌打ち一つ。それでも集中を切らさずに撃ち続け、死者達を一人一人丁寧に屠る。倒れる仲間を気に留める事無く、生者を、彼女を目掛けて自ら沼に足を踏み入れる死者達。このような姿になってしまえば、男も、女も、子供も、老人も、何も違いはない。ただ肉を求めてさまようだけだ。

 しかし中には沼を迂回し、千切れた脚の皮を引きずりながら駆けてくるものもある。

 顔面は食われて原型をとどめておらず、損壊した体でもよく動く。死んで日の浅い個体の中には時折このように、筋繊維の崩壊が進んでおらずに生前と殆ど変わらない動きをするものまでいる。それもあって、彼ら相手に迂闊な戦い方は出来ない。

 走る死体が叫ぶ。『助けて』と。

 一発、撃つ。外れた。走る相手を撃つのは難しい。再び狙いを定め、今度は胸に弾丸を叩き込む。先端を切り落としたような形状の特殊な弾頭は、標的に衝突した直後に変形して大きな傷を与える。

 死体が倒れ込み、痙攣する。砕けた弾頭から仕込んだ薬が体内へと浸透しているのだろう。反応を見届ける前に、撃ち切った十発分の弾丸を再装填する。

 他の歩いているような死体でも、稀に思い立ったように走って距離を詰めてくる事がある。焦らず、しくじらないように一発一発、側面の銃身給弾孔から弾を詰め込む。

 残りの死体は丁度半分の五人。不意を打ってこれでは先が思いやられる。

「向いてないよ、私」

 つい、ぼやく。乗り気では無いのに毎回命を賭けさせられる仕事だが、自分しか頼るものが無いのだから仕方ない。

 今はそんな事を考えた所でどうしようも無い。気を取り直すように首を振り、レバーを操作して射撃体制をとる。

 深く息を吸って、吐く。そして先に仕留め損ねた男と、隊長の妻らしき女性を続け様に吹き飛ばす。

 後は男児が二人、女児が一人。脚や腹まで沼に浸かって一直線にこちらへ向かってくる。

 三つ並んだ頭を見る。皆一様に、南方出身らしい癖の強い髪。そして彫りの深い鼻とくっきりと大きな目。

 沼の真ん中で仕留めると後で身元確認のための回収に手間がかかるし、弾丸の中の薬剤が水中に漏れ出て効果が減衰してしまう可能性がある。

 子供達以外の危険が無いのを確認した上で、浅瀬までよたよたと歩いてくるのを見計らう。

 先に歩いてくる男児らを一人ずつ足から潰し、転ばせてから胴に弾を撃ち込んで息の根を止めてやる。最後に、幼い少女へ銃を向ける。健気にも沼を渡り切ったその子はやはり呻き、歩くだけ。

 少女に目立った外傷は見当たらない。ただ一つ、首にこびりついた歯形を除いて。獣のそれではない、人の顎の形。きっとそれは、少女を馬車の奥にでも匿いながら決死の覚悟で戦った父母や『家族』の誰かのもの。

「ごめんね」

 ぽつりと呟いて、引き金を引く。発砲音の後、激しい水音。

 湿った地面と草が少女を包む。可愛らしい刺繍があしらわれたエプロンドレスの中心、ぽっかりと空いた穴からは真っ黒な花が咲く。

 守ってくれる筈の家族に殺された少女。それでも、この子の家族は最期まで『守ろうとする意思』を示して逝ったのだろう。傷一つ無いエプロンがその証拠だ。

 私の時はどうだったろう。思い出そうとして、やめる。そんな事をしても、何も戻らない。


 周囲を見回し、排莢する。後に残っているのは火薬の臭いと死臭だけ。

 ほう、と息をついて緊張が解ける。

 陰惨な光景にもようやく慣れて以前のように吐くようなことは無くなったが、別にこれが楽しいと思うことは全くない。

 暁光が辺りを照らしている。懐から時計を取り出して蓋を開く。針は五時を少し過ぎた所。視界の端に一瞬、蓋に貼り付けた紙片が見えた。

 時計を仕舞う。地図を広げておおよその現在地に目処をつけ、惨状を後にする。後は町に待機している役立たずの兵隊たちに任せれば良い。

 酷い臭いがする。泥と共に身体にへばりつく、どうしようもない臭いだ。

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