17. 過去

 クラスが違えば当然会う機会は少ない。昨日この女と会ったばかりだが、僕の記憶が正しければ、面と向かってその顔を見たのはこれが初めてだろう。


「高校でも彼とは距離を置いてるのかい?」


 昔からの癖なのか、変わらず閉じた口は常につり上がり卑しい笑みを浮かべている。


「今となっては彼…─宮下海斗も君も、私にとってはどうでもいい訳なんだが、せめて一言言っておきたくてね。だから、私と君の遭遇は偶然などではなく必然あってのものというわけだ」


「…………お前の一言も、僕にとってはどうでもいい物だと思うんだが」


 海斗にも僕にも興味を無くしたのなら、二度と目の前に姿を現さなければいい。だというのに、今この場は自らが仕組んだものだと言わんばかりの発言をする。


「そう言わずに聞いてくれ。君だって知りたいだろ?なぜ私が君を追い詰めてバスケを辞めさせたのか」


「──ッ!」


「おっと、女に暴力は振るわない方がいい。如何なる理由があっても、社会的地位が危ぶまれるのは君の方なのだからね。世間はいつどこで監視しているか分からない」


 怒り狂いそうになる感情を必死に抑えつつ、冷静を取り戻すために深呼吸をする。こいつの前で理性を失い手を出してしまえば、全てが思うツボだ。


「──……海斗を好きだったからじゃないのか」


「それは嘘だ」


「……は?」


「あの時は、周りに彼のことを好きな女子が大勢いたからね。そう言っておいた方が私には都合が良かっただけだよー」


 そう言いながら上機嫌に身体を一回転させると、遠心力で制服のスカートが上がり艶かしい太腿があらわになる。


 海斗が好きというのは単なる建前にすぎないという松下。であるならば、本当の理由は何なのか──


「私ってさ、他の人とは少し変わってるらしいよ」


「変わってる……?」


「そう、変人と言うのか変態とでも言うのかは私には分かり得ないことだが、価値観というものが違うのだろう」


 松下が何を考えて僕に自らが変だと主張するのか、言葉の先々を予測することは出来ない。


「……結局何が言いたいんだ」


 既に一言では収まりきらない会話を交わしているが、それは松下にも僕にもどうでもいいこと。


「結局も何もない。私が君に言うことに結論づけることは出来ないと自覚している」


 一歩近づいてきたことで、僕と松下の距離は1メートルを切った。


「だってそうだろう。誰かを虐めたいと思うこの気持ちを理解できるはずが無い。虐められた人間の顔を見たい、反応を確認したい。それを見ていて楽しい。けれど理由は私にも分からないんだ」


 至近距離にある松下の顔は狂気じみているわけでも、不気味なわけでも無い。

 自分の好きなことを話している時の楽しそうな人間の顔をしていた。


 何を言っているのか、まるで頭が理解出来ずに目の前で愉悦の感情に浸っている松下を見ているだけだった。


「すまない、思い出すとついニヤケてしまう。とまぁ、私が一方的に伝えたい事は伝えた。今ので不快にさせたのなら謝るが、あの時の事で謝罪する気はない。悪いと思っていないことを謝罪したところで両者共に損得がないだろうからな」


 一歩後退し、持っていたバッグの持ち方を変えると曲がり角の来た道を引き返していく。


 ゆっくりと歩く後ろ姿をただ眺めるわけでもなく、この場を離れようと僕も歩き出そうとした。


「ごめん、もう一つ!」


 こちらを振り返り声を張ってそう言った松下。


「宮下くん、彼は紛れもない善人だよ!」


 それだけ言うと、今度は振り返ることなく去って行った。


 松下水美の考えてる事は結局最後まで分からなかった。誰かを虐めたいと言った松下には、それ以上でも以下でもない本心のように聞こえた。ただ僕が松下の標的になった理由は知らない。

 おそらくは、たまたま僕が松下の中で選ばれてしまったのだ。何でもない、ただの気まぐれで。


 そんな理不尽で一方的で哀れなはずなのに、今の僕には喜怒哀楽の一つも感情がない。何とも思っていないと言うべきなのだろうか。

 胴体にポッカリと大きな穴があいているにも関わらず、一ミリも痛みを感じないでいる。


 先程の松下の言っていたことを思い出す。

 きっと、僕も少なからず他人とは変わっているのだろう。


 本当なら幾度の場面で怒りを露わにしてもおかしくないと自覚しているが、話を聞いていて不思議と心は平成を装うことができていた。

 そこから結論づけられるのは、ひとえに松下同様どうでもいいと思っているからなのだということに他ならない。


 もちろん執拗な嫌がらせを受けていたことは事実であり、その時は様々な感情がごった返していた。


 けれども、今となっては過去として割り切れている部分がある。当然それはほんの一部でしかないが、今は心のどこかで黒いものが消え去ったような感覚でいる。


「あら、何してるの凪?」


「……母さん」


 中身が一杯に入ったビニール袋を両手に持ってやって来た母さん。買い物の帰りにばったり遭遇したのか。


「──何かあったの?」


「え?」


「いやぁ、なんか凪、ちょぉっと悲しそうな顔してるわよ」


 思わぬ事を言われ、どう返せばいいのか分からないでいた。悲しい……そういう顔をしているのだろうか。顔には出ない自信があったのだが、母親の目を欺くことは子どもには許されないらしい。

 心配そうに僕を見る母さんを見てそう思った。


「いや、何でもないよ」


「ほんと?」


「本当だって。──片方持つよ」


 左手に持っている袋を半ば無理やり奪い、家の方向へと歩き出す。


「……もう一つも持ってくれてもいいのよ?」


「やだよ、重いし」

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幼馴染の元カノは今日も僕といる 葉气 @nchnngh

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