10. 本心では

 神は空気を読むという人間らしいことをしない。


 雨が降り出した頃僕と桜ヶ丘さんが立っていたのは彼女の家の目の前だった。


『お湯張りを始めます』


 そんなアナウンスとともに浴槽にはお湯がすごい勢いで出されていく。


 薄暗い玄関に一人立たされている自らの状況を整理したいところだが、生憎と今は同様だけが頭の中を支配して言うことを聞かない。


 女子の家に上がり込む、厳密には玄関までしか足を運んでいないが、そんな状況に自らが陥るとは思ってもいない。


「ごめん遅くなって」


 渡されたバスタオルほどの大きさのタオルからは、桜ヶ丘家で使われているであろう柔軟剤の香りがした。


 風邪になってはいけないので、とりあえず渡されたタオルで濡れきった髪の毛を拭いていく。


 目の前にいる桜ヶ丘さんはというと、制服から部屋着のようなものに着替えている。まだ水滴が滴るほど濡れている髪の毛を見るに、着替えてから急いで僕の元までタオルを持ってきてくれたのだろうか。


「お湯、多分もう溜まると思うから先入って」


「いやいや、そんなの悪いよ」


「──いいから」


 そんな反論を許さぬやや高圧的な言葉に、僕は甘える以外の選択肢を持てない。


「……じゃあ、お先に失礼します」


 彼女の家で、彼女よりも先にお風呂を頂くのはとてもとても気が引けるのだが、ここは素直に脱衣所へと足を運ぶ。


 湿った制服を脱ごうとしても、肌に密着していてうまく脱げない。


 なんとか全部を脱ぎ切り、スライド式の扉を開けて浴室に入った。


 すでに満タンの8割ほどのお湯が溜まっており、直後にお湯張りが完了しましたとのアナウンスが入った。


 軽く洗って沈もうかと一瞬思ったが、この後に桜ヶ丘さんが入るかもしれない可能性を考慮して、しっかり洗うことにした。


「〜〜っ!」


 自分が何を想像しているのか、我に返った途端人生最大の羞恥心が襲ってきた。


 あろう事か、桜ヶ丘さんの……入浴するシーンを脳内で想像してしまった。


 邪念を振り払うべく豪快にかつ洗い残しがないようしっかりと洗っていく。


 この場ではもう考えることをやめよう。


「ふぅ………」


 適温に設定されたお湯に浸かり、身も心も安らいでいく。


「凪くん、その、お湯加減大丈夫……?」


 脱衣所の方から桜ヶ丘さんの声が聞こえ、反射的に身体を更にお湯の中に沈めた。


「うん、ちょうどいいよ。その、ありがとう」


「ううん、それなら良かった。着替え、ここ置いとくね」


「……分かった」


 脱衣所の扉の閉まる音がして再び緊張感のない空間が訪れる。


「………」


 ものの5分で浴槽を出て、身体についた水滴を軽く落とすと浴室の扉を開けた。


 事前に用意されていたバスタオルで身体を拭き、パンツを手に取る。


 ……濡れていない。


 脱いだ際は雨で下着までビショビショだったはずだ。それなのに濡れているどころか、脱水された後のようにカラカラに乾いている。


「いやそもそも、畳まれてなかったか…?」


 それらのヒントからたった一つの答えに辿り着いた。


 ……つまりはそういう事だ。

 しかしこれはやってもらった事なので、僕がとやかく言えることでもない。


 無言で下着を身につけ、用意してもらった服に着替えていく。


 ジャージ、だよな?


 胸の辺りには「桜ヶ丘」と書かれており、どこからどう見ても高校のジャージそのものである。


 肌が直にジャージに触れているという実感が、更に僕の羞恥心を駆り立ててしまう。

 このままでは僕の身がもたない。


 ドアを開け、廊下に出ると壁に寄りかかった桜ヶ丘さんがいた。


「ごめん、待たせた……?」


「いや、全然平気だよ」


 そう言ってリビングに招かれた後、一言言って入れ替わりで桜ヶ丘さんが脱衣所へと入っていった。


 リビングのソファに一人座って、とりあえず彼女が出てくるのを待つことにした。



 ────────────────────



 脱衣所の扉を閉め、先程着替えたばかりの服をまた脱いでいく。


 扉一枚の先に彼がいるという事実を目の当たりにする度に恥ずかしくなってしまう。


 全て脱ぎ終わり、浴室へと入るとまだ空気中を漂う湯気で霧のように視界が悪い。


 冷えた体にお湯をかけると、緊張の糸がほぐれたように肩から力が抜けていく。


 神様はあの時、私に手を差し伸べてくれたのだろうか。でなければ、あの場あの瞬間で私と彼との間には大きな穴ができてしまっていた。


 せっかく、せっかく近付けたと思った距離が一瞬にして遠ざかってしまうところだった。


 私を拒否したあの瞬間の彼の顔は怯えているように見えた。

 彼にとっては出会って初めて見せた、私を拒絶するような顔。


 突き放されるより、嫌われるよりも拒絶されることが何より辛い。


 洗い終わると浴槽に体を沈める。


 鼻の先まで、目に水面が当たる寸前まで顔を沈めていく。


 あまりに大胆で強引なやり方だと自分でも理解しているが、そうでもしないと油断した矢先に目の前にあった宝箱は奈落の底に転がっていってしまう。


 私の中でもまだこの感情を理解し切れていない部分はある。

 そもそもの話、そういった感情から凪くんに近づいたわけでは決してない。


 言わば、今この状況は自分に対する答え合わせの真っ最中なのだ。

 結局は最後まで採点結果は自分でも分からない。


「………っと、出なきゃ」


 待たせてしまっていることに気づき、急いで浴室から出た。



 ────────────────────



 リビングの色調にあった白いカーテンの隙間からは、今も雨が勢いよく降り続いている外の景色がちらちら見える。


 大きなテレビが置かれているその端には家族写真だろうか、親子三人が写った写真立てがテレビ台の上に立てられていた。


 カメラに向かって笑顔を見せる両親に挟まれるようにしてピースのポーズをしているのは、小さい頃の桜ヶ丘さんなのだろう。


 今とはまるで面影がない、パッと見暗そうな少女といった偏見を持ってしまうほどに、伸びた前髪で顔は見えず若干猫背の姿勢をしている。


 人は変わるものなのだろうかと、過去の自分と照らし合わせて勝手な自論を持ち込む。


「ごめん、待たせちゃった……?」


 扉の開く音がすると、慌てて出てきた桜ヶ丘さんが謝りながらリビングにやってきた。


「大丈夫だよ、そんなに待ってない」


 写真立てからは距離を置き、あくまで外を眺めていたように振る舞う。


「ほ、ホントにごめんね。その、無理やり連れ込んじゃって」


「ごめんは、僕の方だよ」


 またも二人の間に気まずい空気が流れる。


「あ、えっと何か飲む……?」


 まだ風呂に入った影響で身体は温かいが、いずれは寒くなってくるだろう。


「……温かい物が欲しいな」


「じゃあ……ココアでいいかな?」


「うん」


 ケトルに水を入れ、セットしていく。




 ココアの入った温かいマグカップを手に取り、ソファに隣合って座る。


 息をふきかけて冷ましていくが、こういう時猫舌であることを後悔する。仕方がないので適温になるまで冷まし続けるしか他にない。


「凪くんはさ、やっぱり優しいね」


 静かになったリビングで、桜ヶ丘さんが喋り出した。


 やっぱり、という付け加えに疑問を持つも、その先があることに気づいてスルーすることにした。


「………海斗と私のこと、全く聞いたり話したりしないよね?」


「それが、僕が優しいって言う理由……?」


 言葉では返事しなくとも僅かに首を縦に振って肯定の意を表した。


 優しい。そう言われたのは初めてではないが、僕は自分が優しい人間だと思ったことはない。

 それは謙遜でもなく本心でもない。


 幼馴染と、その彼女だった人にただ関心がないだけだから。


 幼馴染だって、いつかはこうして離れる。別に親友でもなんでもない、ただ昔から一緒にいた知人でしかないのだ。


 別に桜ヶ丘さんに全く興味がないわけではない。これほどの美少女に関心がなければ異性としてどうかと思うし、当然性的な目で見てしまうことだって有り得る。


 ただその関係に関心がないだけだ。


「………」


「ごめん、何でもないや。できれば今の忘れて」


「──それはできない」


「……え?」


 まさか否定されるとは思ってもいなかったのか、そんな少しの驚きが混じった一文字が返ってきた。


「忘れない」


 横を向かなくとも、桜ヶ丘さんがどんな表情をしてこちらを見ているのか容易く想像できる。


 今日の桜ヶ丘さんは弱気でいる。今日だけで何回「ごめん」を言ったのか本人はあまり意識していないだろうが、言われる側は違う。


 初めて、桜ヶ丘さんに対して少し悪戯をしてやろうと思った。

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