記録4 覚悟
聖水で体を清めて、木綿のローブを身に纏って。
伸びた髪は丁寧に梳かして、頭の後ろで一つにまとめてある。化粧はしていないが、鏡に写る己の姿が、まるで別人のように美しく思えた。
私が今いるこの小部屋も。あのアルバストゥルの召喚書があった部屋と同じく、転送魔法でしか行けない部屋だ。数刻前にドゥーガル司祭に連れられて、この部屋にやって来た。
言われた通り身支度を済ませ、儀式の準備が出来るまで待っている。これから私は、私でなくなるのだ。
最期にシェーマスに会うことが出来て良かった。元気そうな顔が見られてよかった。
ルイン姉さんの話を出したせいか、シェーマスは随分と動揺していたようだが。問い詰められるその前に、事務所を後にしてきた。
殺してくればよかったという、後悔も微かにある。シェーマスはきっと、私に刃を向けられれば、抵抗せずに貫かれるだろう。
シェーマスがルイン姉さんを殺したと知った時、信じられなかった。シェーマスと姉さんは、あれほどまでに愛し合っていたのだから。
だが教会の関係者から、シェーマスが悪魔祓いとしてやっていた「仕事」について聞いた時。私はずっと慕ってきた彼に対して、生まれて初めて殺意を抱いた。
あの男は姉さんよりも、自らの仕事を優先したのだ。愛よりも利益を取った。許せない、絶対に許せない、殺してやる。
そのために必死で勉強し。なりたかった魔術師ではなく、悪魔祓いになる道を選んだ。あの男と同じ一級悪魔祓いになり、殺してやるのだと思いながら。
そして、そうして。一級悪魔祓いになり、傷つけ傷つきながら、数多くの悪魔を祓って、祓って、祓って。
やっと再会したシェーマスは、共に過ごしたあの頃の彼と何も変わっていなくて。
老けてはいたし、年齢もあって落ち着いてはいたが。根本的なところは、兄のようで、父親のようでもあった、「シェーマスおにいちゃん」のままであり。
殺意を向け、噛みつくような態度を取りながらも。私は心の中では、随分と動揺していたものだ。かといって彼は、ルイン姉さんを殺したことを忘れたわけではなく。自らの罪を抱えたうえで、潜りの悪魔祓いとして生きている。
それが憎くて悔しくて、同時にどこか羨ましくもあって。様々な感情なない交ぜになった思いを殺意に込めて、ただ彼に対して敵意を向けるしかなかった。
今でもシェーマスが憎いのは間違いない。間違いないのだが、同時にあの頃のような、憧憬が心の中に在るのも事実だ。
だから最期にもう一度だけ、シェーマスの顔を見たくなった。彼の淹れたコーヒーは、とても美味しかった。昔は料理が出来なかったのに、いつの間にかあんなに上手くなったのだろうか。
出来ることなら、今度はゆっくり味わって飲みたいけど。次に会う時は殺すと約束してしまったし、さすがに無理だろうか。
もっとも、その「殺す」と言う約束自体、果たせそうにないというか、果たすつもりがないうえで、約束してきたのだが。
さようなら、シェーマス・スカイヴェール。私の大好きなおにいちゃん。どうか私のことは忘れて、お姉ちゃんの、ルイン・インソードの愛と罪の記憶と共に、これからも生きていって。
鏡の前で目を閉じて、静かに待っていた私の耳に。扉の開く音が聞こえてきたのは、その時のことだった。
「……リイン」
目を開いて振り向くと、正装に身を包んだドゥーガル司祭が、部屋の中に入ってくるところだった。
「司祭様」
「これは……見違えるようですね」
「言われた通りにやっただけです。それよりも、司祭様がここに来たということは、準備が出来たということですね」
私の言葉に、ドゥーガル司祭は頷く。私は座っていた椅子から立ち上がり、肩に乗せた髪を後ろに回した。
「本当にいいんですね、リイン」
「……私に覚悟を決めろと言ったのは、あなたじゃないですか。ドゥーガル司祭様」
わざわざ確認するまでもなく、覚悟はとっくに決まっている。私の真剣な眼差しに、ドゥーガル司祭は少し目を伏せると、くるりと背を向けた。
「行きましょう、儀式の場へ」
ドゥーガル司祭と共に、私は部屋を出る。この場所は神殿のようになっており、大理石の石柱が建ち並ぶ廊下を、お互いに何も言わずに歩いていく。
これから私は、蒼の聖女アルバストゥルをその身に宿す。
なんて言えば聞こえはいいが、要するに上級悪魔を憑依させるということであり。私の自我はアルバストゥルの自我に上書きされ、消え去ってしまうだろう。
それがきっと、私が死ぬ瞬間であり。全てが終わった後、教会が「彼女」を祓ってくれるなんて、甘い考えを抱くほど愚かではない。
既に遺言も伝えたし、出来る限りの身辺整理も行ってきた。最期に会いたい男の顔もちゃんと見て来たのだ、もう思い残すことはない。
やがて辿り着いたその広い部屋の中央には、大きな魔法陣が描かれていた。魔法陣の周囲には等間隔で、蒼い蝋のロウソクが並べられている。そして魔法陣の横には、丁寧に整えられた祭壇が設置され。祭壇の手前に、アルバストゥルの召喚書が置かれている。
「リイン、魔法陣の中に横になってください」
ドゥーガル司祭の言葉に頷き、私は魔法陣の中央に体を横たえた。床の冷たい感触が、ローブの布越しに伝わってくる。
ページをめくる音が聞こえて、召喚書が開かれたことが分かった。胸の鼓動が早まるのを感じながら、私はそっと目を閉じる。
静寂に包まれた部屋の中に割り込むように、司祭の詠唱が始まった。悪魔召喚の呪文だとは思えない、清い言葉の数々は、まるで祝詞のように思えた。
詠唱を聞いていると、だんだん緊張は落ち着いてゆき。いつの間にか私の意識は、眠る様に深い蒼穹の中に堕ちていった―――。
目が覚めると、わたしは見覚えのある部屋の中にいた。呼ばれるのは、一体いつぶりだろうか。
「……おはよう。いい朝ね」
冗談のつもりだったが、わたしを憑依させた司祭の坊やには、通じなかったらしい。彼は召喚書を閉じると、わたしに駆け寄ってきて、目の前で跪いた。
「蒼の聖女アルバストゥル様。危機に瀕する我がマルガリアを、どうか今再びお救い願えませんでしょうか」
またなのか。そういう契約なのだから、仕方ないとはいえ。前に呼ばれてから、まだ三十年ぽっちしか経ってないじゃないか。
三十年前に結んだ和平条約はいったいどうなったのだ。人間の愚かさに、改めて呆れさせられながらも。わたしは立ち上がると、目の前の司祭に笑みを向けた。
「ええ、もちろんですわ。それが、わたしの使命ですから」
わたしの名前は、アルバストゥル。上級悪魔であり、神聖マルガリア王国を守護する定めを持った者。
呼ばれた以上は、お役御免となるその日まで。せいぜい務めを果たすまでだ。
悪魔祓いリインの個人日記 錠月栞 @MOONLOCK
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