46 温泉旅行
ここはサウススプリングス。帝国で誰もが知る南部のリゾート地だ。
「レオ、ここは素敵なところね」
「そうだろう。帝国でも屈指の人気リゾート地だからな」
身分を隠し、中流貴族の令息とその婚約者というお忍び旅行としてここを訪れた。
バルトを含む少数の護衛とエマは連れてきたが表向きはそれだけだ。
馬車から見える景色は、眼前に海が広がり、砂浜も綺麗だ。
遠くに見える島々をボーっと見ながら過ごしたい。
手配していたホテルの部屋に案内される。
部屋のドアを開けると廊下があり、リビングと、ベッドルームが2つある規模の部屋だった。
「お忍び旅なのにこんなに広い部屋では恐縮してしまうわ」
「これでも控え目にしたつもりなんだが。では、逆にベッドルーム一つの狭めの部屋でもいいのか? 俺は歓迎するが」
急にレオナルドが後ろから抱き着いてきて耳元でささやかれる。最近スキンシップの濃さが増していて、ソフィアは翻弄されっぱなしなのだ。
この間の小悪魔風メイクの時も、メイクを落としたいのになかなか離してもらえず、困ったのも記憶に新しい。
いつかお返ししてやりたいくらいのことは思っているがなかなか機会は訪れないのだ。
困ったときはスルーに限る。
「ここは温泉が楽しみね」
「そうだな。貸切でゆったり入るといい」
「はい!」
レオナルドとしては本当は一緒に入りたいのだが、そのお願いをソフィアにするには、今の彼にとってはものすごく高いハードルだった。
どうしても、嫌われたくない、怒られたくないが先に来てしまうのだ。
ヘタレは一部健在だった。
ソフィアはホテルに勧められたリラクゼーションプランを利用することにした。
全身マッサージを受けた後に貸し切り温泉で温まるというプランだ。
今ソフィアはマッサージを終え、湯に浸かっている。
ここの湯は白い濁り湯だ。しっとりとしていて気持ちがいい。
専用の湯あみ着を着て入るため、家族が一緒に入ることもできるらしい。
この気持ちよさを誰かと共有できるのもいいな、などと思いながらソフィアは温泉を堪能していた。
その頃レオナルドも、別の貸し切り湯に入ろうと案内を受けていた。
ところが、行ってみると使用中で、他の湯に変えてほしいと従業員が言い出した。
何かの策略か?
それとも刺客?
いかなる時も急なプランの変更に対して警戒する癖ができているレオナルドだが、万が一刺客だったとしても、丸腰だが対処できる自信はあった。
どんな奴が来ても俺は負けない。返り討ちにしてやる。
湯あみ着に着替えて案内された貸し切り湯の扉を開ける。
湯けむりが濃くて何も見えないが、人の気配がする。
殺気はないようだ。
とするとハニートラップの類か。
俺がそんなトラップに引っかかるわけがないだろう。
フィフィ以外の女にはこれっぽっちも興味がないんだから。
「エマぁ?」
えっ、フィフィ!?
「えっ、レオなの?」
なぜバレた。
その前に俺ピンチじゃないか?
下手すると覗き見か痴漢扱いで嫌われるパターン、つまり絶体絶命だ。
レオナルドにとって唯一の、攻略が難しいキャラ、ソフィアがそこにいた。
◇◇◇
その少し前、そのホテルの別室で、一人の女が使用人らしき人間に向かって声をかけていた。
「うまくいったのね?」
「はい。ご指示通り、マッサージの最中にその令嬢に対して特殊効果の解除魔法をかけさせました。殿下の誘導も問題ありません」
ヴァレンティナ嬢だ。
この間のお茶会で、化粧は関係なかったという事実を知った彼女は、ソフィアが幻覚魔法の類を使って見た目を偽っていると考えたのだ。
風呂を出てソフィアがその魔法をかけなおす前に、レオナルドに素の顔を見せるという計画だ。
「これでレオ様は、あの女の本当の顔を見て、ショックを受けて出て来るはずよ」
今度こそソフィアを陥れ、自分が婚約者の座におさまるのだ。
「私は、通路でレオ様を待つわ。衝撃を受けて気落ちしているレオ様を私の美貌でお慰めするの」
◇◇◇
レオナルドはしどろもどろだ。
「フィフィ、手違いがあって、す、すまない。ほかの貸し切り湯がいっぱいで、案内が……」
「じゃあ……、一緒に入ります? こちらにいらして?」
……えっ、いいの?
いそいそと近づいていくと、ソフィアが湯船につかっていて、恥ずかしそうだが手招きしている。
なにこれ? 天国?
こんなハニートラップだったらずっと引っかかったままでいいんだが。
自分も湯につかると少しだけフィフィの近くに移動する。
二人とも湯あみ着を着ているのでそういう恥ずかしさはないのだが、レオナルドの妄想は果てしない。
俺、耐えられるかな。
「レオ? 何か考え事?」
「いや、君がこんな風に誘うなんて驚いていたんだ」
「あのね、最近、とにかくおススメって言われて読んだ本なんだけど、婚約者同士でお風呂に入るシーンがあって、それが普通なのかなって思ったの」
誰だ、フィフィにそんな本を渡したのは!
けしからん!
褒美をくれてやる!
「でね、なぜかお風呂を出るまでに時間がかかって、ヒロインがぐったりしまうの。たぶん、のぼせたんだと思うわ」
たぶん違うよ。もっと大人な感じのやつだそれ。
「だから私も気をつけるわ。もう十分温まったから、先に出るわね」
そう言ってソフィアは立ち上がった。
その時レオナルドは湯あみ着姿のソフィアを見てしまった。
そう、見えそうで見えない湯あみ着だからこその妄想力が働いたのだ。
もう俺しばらく湯船から出られない。
さっきまで恨めしかった濁り湯が救いの神だ。
その時、ソフィアはふと、レオナルドにドキドキ返しをしようと思いついた。
後に、この思いつきは、ソフィア史上『無知ゆえの人生最大の悪手』として刻まれる。
「レオ、お先に」
そう言って、ソフィアはレオナルドに近づき、前かがみでレオナルドの頬に手を添えて自分からキスをしたのだ。
レオも少しはドキドキすればいいのよ。
「……」
「きゃあ」
次の瞬間、レオナルドの手が伸びてきて、ソフィアの体は湯船の中に引き戻されていた。
「フィフィ、その本のヒロインがぐったりした理由を教えてやる」
◇◇◇
その頃、貸し切り湯の外の廊下では、ヴァレンティナが立ち尽くしていた。
レオ様が入ったお風呂はここなのよね?
全然出てこないじゃない。
それともとっくに出て行ってしまったとか?
これ以上ここにいるとほかの客の目に触れて目立ってしまう。
ヴァレンティナは仕方なく出直すことにした。
◇◇◇
この後、本当にソフィアをのぼせさせてしまったレオナルドは、エマからこっぴどく怒られることとなる。
一線は超えていないという言い訳もプラス評価に働くことはなかった。
今日のこの日の出来事は、レオナルド史上『衝動がヘタレに勝った唯一の日』として刻まれた。
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