穴の中 胸のうち

 脇谷は深々と開いた穴の縁に立ち、なかを覗き込んだ。


「底が見えませんね。リーチェさんの姿も、ここからではちょっと」

「そんな……繭は残ってないのか? どこかに、かけらでも」


 目を凝らす脇谷のとなりで膝をつき、スザクが穴をのぞきこむ。

 わずかな希望を求める彼がだんだんと前のめりになるのを心配して、アマテラスがそばに立った。


「あまり身を乗り出すな、スザク。落ちてしまえば如何なるものも怨嗟に呑まれてしまう」


 ど、と穴の底から怨嗟が噴きあがったのはそんなときだった。


「下がれ!」


 ツクヨミが後方から叫ぶが、すでに遅い。

 怨嗟がマグマのように湧き上がり、無差別の悪意でもってそばにいる命を刈り取ろうと鋭くとがる。


『変わり身の術っ』


 とっさに叫んだ脇谷の声で、アマテラスとスザクの代わりに丸太が怨嗟に貫かれた。


 脇谷自身は跳びあがって避けたが、迫る怨嗟の強大さの前にはささいな抵抗でしかない。


 ―――呑まれる。


 風魔を取り込んだ怨嗟の穴はあまりに大きかった。


 目を見開いたアマテラスとスザクの身体のみならず、宙へと逃げた脇谷までも軽々と捉えて全員の身体を怨嗟に落とす。


 音はなかった。


 ただ、どぼんと水に落ちたかのように視界が変わるのを脇谷は見ていることしかできなかった。


 わずかながらも感じられていた陽光のぬくもりは一気に消え去り、闇色の肌寒さが身体を取り巻く。


 薄暗い周囲に満ちるのは、苦悶にのたうち無念を嘆く怨嗟。

 耳元を掠めるのは声にならない恨み辛みのうめき声。


 入り込んできた負の感情が、脇谷のなかでぼこぼこと膨れ上がっていく。


「スザク!」


 冷えていく自身の指先を感じられたのは、アマテラスの叫び声のおかげだった。

 彼女のりんと張りのある声が淀んだ空気を散らして、脇谷の正気を揺り起こす。


 ―――おっと危ない。暗黒忍者に転身するところでした。


 内心、おどけてみたのは未だに揺らぐ己の精神を支えるため。

 怨嗟のただなかでは陽光の神の力でさえも陰ってしまうらしい。


「スザク、我を見ろ。スザク!」


 淀んだ視界のなか、アマテラスの声が聞こえる。

 油断すれば脳をくすぐる恨み辛みのこもったうめき声を無視して、脇谷は声をたよりに怨嗟を泳いだ。


 ―――うへえ、ぬめぬめ。いや、ぐちょぐちょ? すっごくどろどろしてて重苦しい、さすがは恨みやら嘆きの集合体ですね。


 忍者的理想のボディを持っていなかったならば、まともに身動きすることもできなかっただろう。

 

 ぐずぐずと絡みつく怨嗟を振り払い、振り払いして脇谷はアマテラスの元へたどり着いた。

 さすがは陽光の神と言うべきか。

 

 アマテラスの姿は怨嗟にどっぷりと浸かってはいなかった。

 ほんのりと発される陽光めいたやわらかな光の珠に包まれて、怨嗟のなかを漂っている。


「おーい、アマテラスさま~」

「そなた、無事であったか!」


 声をかけると、アマテラスがぱっと振り向き笑顔を見せる。


「うっ、まぶし! そういう輝かんばかりの笑顔は主人公氏に向けてやってくださ~い。しがない忍者もどき風情は陽の気に焼かれてしまうので」


 と言いつつも、当の主人公氏であるところのスザクはアマテラスの腕のなかでぐったりと目を閉じている。


「そなた、何やらずいぶんと饒舌になったような」

「あー、一時のことなので見逃してください。頭のなかで直接恨み事を言われ続けてる感覚なので、無理やりにでも気分を盛り上げないとどうにも平静を保てませんので」


 ―――ですよねー、忍者失格ですよねー。


 言ったそばから胸のなかに湧く自身を卑下する念に、脇谷は抗う。


「うー、忍者は最強! 忍者が最高!」

「せめて怨嗟から抜け出せ! 抗うにも限度があろう!」


 アマテラスの声に、脇谷は「あ、そうか」と手を打った。


「『忍法、水蜘蛛』!」


 ずぶり、と怨嗟をふるい落として脇谷の身体が持ち上がる。

 その足元を支えているのは両脚にはまる円形の浮き。見たところ木製のようだが、怨嗟に呑まれず浮力を保っているあたり神術で生み出された謎素材なのだろう。


「ふう。水蜘蛛チャンスに気づかないなんて、頭が回ってなかったようです。それで、スザク氏は」

「あ、うむ。我をかばって一度、怨嗟のなかへどっぷりと浸かってしもうてな」

 

 苦い顔で言うアマテラスは、かばわれて無事だったのだろう。


 ―――さすがは主人公氏。この場でキーパーソンとなるだろう陽の方を身を挺して助けるとは。


「うぅ、ううぅぅ」


 アマテラスの腕のなか、スザクがうめき声をあげる。

 目をあけないままに身をよじっているのは、彼の脳内でささやく怨嗟に精神を攻撃されているためか。


「できない、できないよ……」

「どうしたスザク、怨嗟になど負けるそなたではなかろう!?」


 アマテラスが鼓舞するが、スザクは「無理だ、俺にはそんなことできないんだ」とうなされるばかり。


 ―――どうにかしてここから出ないことには、スザク氏を癒やすこともできませんが。

 

 どうしたものか、と脇谷が深い穴の底から上を見上げたところで、空はおろか穴の縁すらも見えはしない。


 それどころか。


「おっと」


 たゆたう怨嗟が不意に形を成し、大きな顎を開いて脇谷たちを襲う。


「『忍刀』!」


 すらり、抜き放った直刀で受け止めなければ、アマテラスたちもろとも怨嗟のなかへと食われていたであろう。


 歪に並ぶ歯が刃にぶつかり、ぎぎぎと不愉快な音を立てる。

 

 異形とひととの鍔迫り合い。


 脇谷は一歩も引かなかったが、変幻自在の怨嗟に対応するには腕が足りなかった。


 どぼ、と自身の背後からアマテラスたちに向けて伸び上がる凶刃に「しまった!」と声を上げるがもう遅い。


「くっ」

「っうああ!」


 脇谷自身も襲いくる怨嗟に嬲られながら、目を向けた先にアマテラスとスザクの姿は見えなくなっていた。


 と、怨嗟のなかにかすかに残光がきらめく。


「『鎖鎌』ッ! 掴んでください!」

 

 叫び、怨嗟の沼のなかへと当てずっぽうで投げ入れた鎖の先に、がつりと手応えがある


 水蜘蛛ごと足元がずぶずぶと沈むのも構わず、脇谷は全力で引き上げた。


「はぁっ!」

「ああ、良かった」


 怨嗟をかきわけて現れたアマテラスの姿に、その腕のなかにあるスザクの姿に脇谷はほっと息をつく。


 すかさず『水蜘蛛、大』と喚び出した浮きにふたりを避難させた。


 けれど。


「がぁああああ!」


 吠えるように絶叫するスザクの右腕の肘から下が、無くなっていた。

 

 どぼり。沈んでいく怨嗟のなか、剣を握ったままのスザクの右手が光の粒となって輪郭をぼやけさせ、瞬く間に消え失せる。


 それを悠長に見送っている暇はなかった。


「スザク、目を開けろ! スザク!」

「ああ、ぐぁあああ!」


 アマテラスに抱き上げられたスザク自身の腕が、欠けた箇所から光の粒に変わっていたのだ。


 食いちぎられた右腕の肘から吹きこぼれる血が淡く光って霧散する。 

 光ったそばからスザクの腕はほろほろと崩れて消える。


 崩壊が、腕を這い登って彼自身の命を脅かそうとしていた。


「ああっ、あああ! 腕が!!」

「スザク、神力を固めよ!」


 半狂乱になってもだえるスザクにアマテラスが必死で叫ぶけれど、その声は届いていないのだろう。


「その身に宿す神力を固めよ!」

「無理だ!」


 恐慌をきたしたスザクが頭を振りたくるのに、アマテラスはその頬を両手で挟んで互いの額をぶつける。


「聞け! そなたらの身はひとにあらず。思え、形を。願え、力を。その身を己の心で定めよ!」


 きらめく瞳に見据えられて、スザクは視線を逸らせないのだろう。

 アマテラスの目を見つめたまま、怯えた様子ではらはらと涙を流す。


「できない。無理だよ」

「できる! そなたなら成せる! その身を己で救え。そしてこの怨嗟を断ち切ってくれ!」

「無理だ、無理だよ……俺はそんな大層なことができる人間じゃないんだ」

「スザク……」


 泣き言とともに、スザクの閉じた瞼からぼろぼろと涙がこぼれる。


 情けない。

 弱さが憎い。

 愚かさが悲しい。

 こんな自分は、嫌いだ。


 スザクが抱く負の感情があたりに渦巻く怨嗟を刺激して、脇谷とアマテラスの心にまで忍び寄ってくる。


 そして、その影響だろう。

 アマテラスの手から力が抜け、支えをなくしたスザクの体は怨嗟のなかへ。


「しまった!」


 どぼん。


 怨嗟に落ちたスザクは、抵抗もせず沈んでいく。

 

「このまま、底まで……」


 すべてを手放すことへの甘い誘惑に身を委ねたスザクの身体を、ぐいと掴んで引き留めたのは脇谷だった。


「離しませんよ! あなたも、諦めないでください!」

「そうじゃ、泣き言ばかり申すな!」

「無理だよ、もう無理だ」

 

 水蜘蛛などもはや投げ打って、スザクを助けに向かった脇谷の身体は半ば怨嗟に沈んでいる。


 同じく飛び込んでスザクに手を伸ばしたアマテラスも、身を守る陽の光がずいぶんと輝きを薄めて、掻き消える寸前になっていた。


 それでも脇谷は掴んだ手を離さない。


「諦めません、だって、ほら!」


 不意に三人の体が持ち上がる。

 ねっとりと絡みつく怨嗟のなかから、三人を浮き上がらせたのは黒く染まった球体の残骸。


「これ、は……」

「繭ですよ。えと、リーチェさんの入ってた繭です」

「リーチェ……」


 思わぬ援護に、スザクは何を思ったのか。

 足元へと視線を向けた彼の右腕にアマテラスが手を添えた。

 

「まっておれよ……恐み恐みも白す」


 早口で祝詞を唱えれば、わずかな光が彼女から広がってスザクの右腕を包み込む。


「む、予想以上に力が効かぬな」


 つぶやく声が聞こえたが、太陽の光に似たわずかなぬくもりは間違いなくスザクに効いたのだろう。


「ああ……『癒しを』」

 

 つられたように呪文を唱えたスザクの右腕が赤い光に包まれて、消えた頃には腕の崩壊が止まっていた。


「……ここで、ゆっくり死んでいくのかな」


 今は沈み切っていないが、足場にしているリーチェの繭もわずかずつ怨嗟に呑まれている。

 そのうえに避難した自分たちが沈むのもそう遠くはないだろう、とスザクはつぶやいた。


 三人を守るようにアマテラスが淡い光の膜を張ったけれど、長くは持たないだろう。

 ひとたび落ち着いた怨嗟がまた、いつ牙を剥くとも限らない。


 諦めと失望に満ちた声に、アマテラスがためらうような視線を向ける。


 きっと、かけることばが浮かばないのだろう。


 ―――こういうの、忍者の仕事じゃ無いと思うんですけどねえ。


 胸のうちでぼやきながら脇谷は口を開く。

 

「自分、忍者になりたかったんですよ」


 脈絡のないことばにスザクが戸惑い、アマテラスもまた怪訝そうな視線を向けてくる。


 そうとわかって、脇谷はふたりに視線を向けないまま続ける。


「なりたいなあってずっと思ってて、でも運動神経が特別良いわけでもなかったし身近に弟子入りできる忍者がいるわけでもないからって、日本では何もしなかったんです。ただただなりたいなあ、って思うばかりで」


 忍者の自分語りなど、需要はない。

 ないとわかっているけれど、主役を張れる熱さを持たない脇谷は訥々と語る。


「でも、ここに来て力をもらったんです。自分の思う通りに動く身体と、望んだことを叶える力を。だから、忍者になろうと思ったんです」


 言葉にしてみて、その短絡さは脇谷のなかにひどくしっくりとはまった。

 ついうっかり、ワクワクする心が頭をもたげるくらいに。

 

「だって、願えば叶うんです。だったらなりたいじゃないですか、自分のなりたかったものに」


 にひ、と笑った口元を見てスザクはなにを思ったのか。

 ためらうように口を開く。

 

「俺、なれる、かな」 

「お主のなりたいものは、なんじゃ?」


 やわらかなアマテラスの声に、スザクの視線が夢を見るように宙をすべる。


「……誰かを助けられるひとに、なりたかったんだ」

 

 つぶやいて、スザクの目が光を取り戻す。


「強くて、優しくて、たくさんのひとを笑顔にできるような英雄に」

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