選ぶべきもの 進むべきさき

 苦笑するアマテラスは、日没とともに縮んだだけでなくその神力も失ってしまったようだ。

 少なくとも、濃い怨嗟のなかでは淡い輝きすら発現できないのだろう。


 朝日が昇るまでは非力な幼女でしかないらしい彼女では、どこまで続くともしれない縄梯子を登り切れない。


 そこで、スザクが抱えてのぼることとなったのだ。


「荷物だなんて。あなたがいなかったら、知識のない俺たちだけでは不安に飲まれていたかもしれない。少なくとも俺はあなたの声に救われて、今があります。ここからは俺が支えますから、きっと地上に出て共に朝日を迎えましょう」

「む、うむ!」


 さわやかなスザクの微笑みに、アマテラスがほんのりと頬を染めた。


 ―――わあ、ドラマチック! ここは忍者らしく潜んで空気になって……。


 日没とともに縮んだ彼女は、朝日とともにまた成人女性へと変化するのだろう。


 そのとき、スザクは抱き上げたアマテラスが成人している女性だと思い出してドキリとするのだろうか。

 下世話な妄想を繰り広げる脇谷に、スザクがさわやかな顔を向ける。


「では、後ろを頼みます」

「引き受けました」


 縄梯子に手足をかけたスザクの声に応えて、脇谷は指で印を結ぶ。印を結ぶ必要性はわからないが、気分だ。


『鎖鎌』


 脇谷が呼べば出てくる愛おしい武器は、いつ噴き出すとも知れない怨嗟から身を守る大切な相棒となる。


 先に登ったスザクを追って縄梯子に足をかけた脇谷は、変に力まないよう気をつけながら体を持ち上げた。


 すると。


 ぱりん。

 三人が離れるのを待っていたかのように、繭の残骸が砕けて散る。


「ああ……」


 叶うことならそのひとかけらだけでも持ち出そうと思っていた脇谷は、指の間をすり抜けた光のかけらに瞑目した。


 ―――リーチェさんの最期、ここを出たら確かに伝えますから。


 立ち止まる脇谷に上から声が降ってくる。


「闇が濃くなるほど、怨嗟も力を増す。急いだほうが良かろう」


 アマテラスが日暮れと共に力を失くしたように、怨嗟は日暮れから力を増すらしい。


「あ、ほんとだ。怨嗟が沸いてる」


 そんな話を聞いたそばから、脇谷の足元の怨嗟がぼこりと泡を作ってはじけた。


 飛び散った黒が触れた縄の端は、ぐずりと形を崩して解けて消える。


「スザクさん、全速前進。縄が怨嗟で壊されてます」

「なっ、わかった! あなたも急いで」


 喋りながらもさっさと上を目指せば、脇谷が足を離したばかりの梯子の段がごぼりと膨れた怨嗟に呑まれて消えていく。


 怨嗟がかすった脇谷の履物のかかとは、音も立てずに黒いちりとなって崩れていった。


「はあー、この衣装も神術とやらでできてるから、あまり長く触れていると崩れるわけですね。そしてそろそろ限界だ、と。ふんふん」

「そんな悠長なこと言ってないで、はやく登ってきてください!」


 なるほど、と頷く脇谷に上から声が降ってくる。

 腕に抱えたアマテラスから状況を聞いたスザクが叫んでいる。


「ご心配なく〜。これでも縄ばしごは何度も登ったことがあるので」


 ―――妄想のなかで、ですけど。


 胸のうちでつぶやいて、脇谷は今度こそ上だけを見つめて登り始めた。



 脇谷はひょいひょいと縄を登る。


 ふと見下ろしたスザクは、まるで普通のはしごを登るかのような身軽さに気を取られ思わず脚に力を入れてしまったのだろう。


「うわっ」

「ひゃあ!」


 途端に大きく揺れる縄ばしごにスザクが慌てて身じろぎ、揺れがさらにひどくなる。


 ぐっと近くなったアマテラスとスザクの顔に、忍者はひとりにやにやと笑う。


「びーくーる、びーくーるですよー。落ちてきたらどうにか受け止めますし。慌てず着実に登ってもらって……」


 平坦な声で告げていた脇谷は異変を察知して縄ばしごを駆け上がる。


 あっというまにスザクたちの真下につくと、ふたりを急かす。


「なんて言ってられなくなりました! いま縄を硬化させるんで、全速力で登ってください!『金遁の術』」

「え、何が……」


 脇谷の声に呼応して、縄ばしごがじわりと硬度を増した。


「やっぱり半端な硬さ、金遁かどうか判定が微妙ですもんね……」


 つぶやく脇谷の頭越しに足元を見下ろしたアマテラスが、大きな目を見開きスザクの肩をぺちぺち叩く。


「スザク! 怨嗟が湧きあがっておる。陽が完全に沈んでしもうたのだ! 夜が来れば、あれらはますます力を増すぞ!」

「っ急ぎます! 捕まっていてください!」


 視界の端に捉えた蠢く黒の近さに気づいて、スザクはアマテラスを支える手を離してはしごを掴んだ。


 先程よりもいくらか硬さを増した縄をできる限りの速度で登っていく。


『金遁の術、金遁の術、金遁の術!』


 追いかけてくる脇谷が神力を注ぐたび縄は硬さを増し揺れは少なくなっていく。


 それでも、爆発するように膨れ上がる怨嗟の波には敵わない。


「追いつかれます!」

「空が見えたぞ!」


 切羽詰まった脇谷の声に、希望をはらんだアマテラスの声が重なった。


 そのとき。


 ぐわん、と空気が揺れた。


 どうっと押し寄せた怨嗟に突き上げられたのだと脇谷が気がついたときには、ちらりと見えた空は消え、すがる先の縄は怨嗟に呑まれて消えるところだった。


 ―――生き残るべきは主人公か脇役か。考えるまでもないですね。


 思考は一瞬。


 あっさりと縄から手を離した脇谷は、落下する体をそのままに両手の指で印を組む。


「『忍法、変化の術』!」


 脇谷の身体がぼうんと盛大な煙幕を放ち、形を変えていく。

 そのはずだったが、思うようにいかない。


 ―――くそ、忍具ばかりでなく動物の模写もしておくべきできた! 


 己の姿形を変える術は、脇谷にとっても困難なものだった。

 

 それでもありったけの力を込めたおかげだろう。

 脇谷の身体は形を変えただけでなく、むくむくと膨れ上がって大きくなっていく。


 スザクとアマテラスを跳ね上げたいと願ったからか、巨大な巨大な白うさぎへと変わっていた。


 ―――届け、穴の淵まで!


 脇谷は持てる力のすべてを込めてふたりを跳ね飛ばす。


 スザクとアマテラスを跳ねあげた反動で変化はぼうんと掻き消えて、ひとの身に戻った脇谷の落下速度はぐんと増す。


 怨嗟に向けて真っ逆さま。

 

 落ちる脇谷に遠ざかるスザクが手を伸ばす。


「いやだ! まだあなたの名前も聞いていないのに!」

 

 見開かれたスザクの目に映る自身の姿に気づいて、脇谷は知らずほほえんでいた。


 ―――良いんですよ。影に名前なんてなくて。


 名も知られぬまま消えていく。

 あまりにも忍者的な終わりに、脇谷は満足してまぶたを閉じた。

 

 だから、気づくのが遅れたのだ。


「勝手に命を諦めるな、愚か者が!」


 怨嗟を切り裂く檄とともに、銀光が脇谷の横をすり抜けた。


 かきり、と凍ったように動きを止めた怨嗟のうえに落ちた脇谷に、ツクヨミが叫ぶ。


「自力であがってこい!湧き出すのを抑えるので手一杯だ!」

「ツクヨミさま、髪が……」

 

 穴の淵から見下ろしてくるツクヨミの髪が、肩口で途切れていた。


 ―――切り落として、投げ入れてくれたんですか。自分などのために。


 脇谷が呆然と見上げていると、ツクヨミのとなりに小柄な影が並ぶ。


「兄ちゃん! はやく帰ってきてよ!」

 

 ―――クナイさん。


 泣きそうな顔で叫ぶ彼女の顔に、脇谷は死んでしまった子どもたちを思い出す。


 ―――そうだ、自分はまだクナイさんに伝えていない。マシラさんも倒れてるいま、あの子たちのことを聞かされたら、クナイさんはひとりで泣くんだろうか。


 そう思うと脇谷はたまらなくなって、立ち上がっていた。

 その間にも怨嗟を鎮めるツクヨミの力は、ぼろぼろと崩れ始めている。


 ―――神術を行使する力はもう残っていない。けど、それがなんだというんですか。


 脇谷は天をあおいで深くしゃがみ込む。

 真に必要なのは奇跡を起こす秘術ではない。


「忍者の真価は、その肉体ですっ」


 だんっ、と踏み込んだ足場が割れるのと同時に、抑えられていた怨嗟が噴き上がる。


 けれど脇谷は自身の身体をバネのようにしならせて、すでに穴の淵へと辿り着こうとしていた。


 そもそも、脇谷たちの身体は神の力を取り込んで造られたもの。

 ならば願ったとおりの動きが出来るのが道理。

 

「もう良いな?塞ぐぞ!」


 ツクヨミの緊迫した声に続いて、銀光が走る。


 湧きあがる怨嗟を大きく裂いた銀の刀を穴に投げ入れ、ツクヨミが手を合わせた。


「……恐み恐みも白す!」


 夜闇を切り裂くような声が祝詞を唱え終わると同時、地上を照らす月光がぐんと明るさを増し、怨嗟に降り注ぐ。


 燃えるような光ではない、ただ静かに刺し貫く銀光に照らされた怨嗟は、音もなく黒いちりとなって闇に溶けていく。


 はらはらと宙を舞う黒を目で追っているうちに、気づけばそこにはただ黒々とした穴があるばかり。


 淀んだ怨嗟はもう見当たらなかった。


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